第1章 真由美(2)
13時、やっとランチだ。
フレックス制を導入しているこの会社では昼休憩も11時~14時の間にとればいい。勤務時間が決まっている派遣社員でも同じだ。真由美はお弁当持参ではあるが食べるのは社員食堂になるので、混雑を避けるため遅めの時間にとることが多い。
お弁当を抱えてエレベーターを待っていると、休憩から戻った山本が下りてきた。襟元にファーの付いたAラインのコートを着ている。ベージュ色の手触りのよさそうな生地。これも高そうだ。
「外でランチしてきたんですか?」
ほぼ毎日、外食しているのを知っているのに、とっさに聞いてしまった。
「A・TAVOLAに行ってきたんですよぉ」
ア・ターボラは、真由美の勤務初日に「歓迎会も兼ねて」と山本たちが連れていってくれたイタリアンだ。山本いわく、たびたび雑誌などで紹介される人気のお店らしい。
ランチセットは5種類。安くても1500円する。前菜とドルチェがつくスペシャルランチは2200円だ。消費税抜きで。
「海老とゴボウのトマトソースパスタ食べたんですけどぉ、メチャおいしかったです! ゴボウの食感がシャキシャキしてて海老がもう群れのようにたっぷり入ってて。酸味を抑えたトマトソースが…」
このまま話を合わせると、食リポ気取りのコメントが永遠に続いてしまう。
「それはよかったですね」と、とびきりの作り笑いをして立ち去った。自分から質問したのに。フリ逃げだ。
「いただきます」
真由美は最初にチキンのマスタード焼きをほおばった。
「おいし。間違いないな~」
鶏もも肉と細切りにしたじゃがいもを焼いて、マスタードを和えるだけ。簡単なのに本当においしい。2週間に1度は作るヘビロテメニューだ。
食堂の窓側の一番奥でお弁当を食べていると、派遣仲間の藤原愛子が近づいてきた。同じ営業部で隣の第2課。おそらく20代後半、独身。特に約束している訳ではないが、同じ境遇でなんとなく集まるようになった。
「今日もお弁当おいしそうだね。彩りもいいし」
普段とあまり変わり映えしないおかずだが、褒められると嬉しい。でも、それを表情に出しすぎると嫌味になるので、謙遜ケンソン。
「全然~、大したもの作ってないよ」
手作りのお弁当は1食300円もかかっていない。主婦の味方、鶏の胸肉やもやしなんかを使えば1食200円に収められる。あ、朝食も込みだから2食300円か。社食の日替わり定食480円より断然安い。我ながら優秀。
目の前で藤原がおにぎりにかぶりついた。あまり料理が得意ではないのか、時々びっくりするお弁当を持ってくる。スープジャーに入れたうどんにボトルごと持ってきためんつゆをかけたり、ご飯とレトルトカレーを持ってきて電子レンジで温めて食べたり。
「あまり食事にこだわりがないタイプ」と本人が言っていた。栄養バランスとか節約のためとか考えず、ただお腹が満たされればいいと思っているらしい。
ひと回り以上年下の藤原とは、気が合うというより生活レベルが一緒だから話していて安心する。派遣社員の不満も分かってくれる。社員のウワサ話も盛り上がる。
「さっき山本さんにア・ターボラ行ったって自慢されちゃった。海老のパスタのトマトソースがぁ~って、あやうく食リポ聞かされるところだった」
「どうせ写真ばっか撮って、インスタ上げまくるんですよね」
「営業部のインスタ女王は大変ですね~」
藤原がスマホをササッと操作する。今ドキの若い子は手馴れている。
「見てください。さっそくランチの写真アップしてますよ」
「さすがっ。でも、山本さんっていいね付かないと焦るタイプだと思わない?」
「ですね~。リア充のインスタ女王は大変ですねぇ」
藤原と笑い合う。うひゃっひゃっひゃっひゃっ。
もし、この笑いに名前をつけるなら〝ヒガミワライ〟だ。
誰が何と言ったって完全にヒガミ。そんなの言われなくても分かっている。でも、それを誰かと共有することで救われることもあるのだ。同じ感情を抱いたことのない人には理解されないだろうけど。
「あ、ねぇ、知ってます? 2課の有馬さん、丸川部長からストーカー受けてるらしいですよ」
「えっ。丸川部長ってあの香水キツイおじさん? うわぁ、キモチワルー」
「1回飲みに行ったら勘違いしちゃったみたいで。LINEが1日に35通とか来たらしいですよ。ウザいからスルーしてたら、なんと机の引き出しに手紙が入ってたんですって」
「このIT時代に手紙? アナログだなー」
「『無視しないでくださぁい。僕には有馬さんが必要なんでぇす!』って」
丸川部長を真似したつもりだろうが「101回目のプロポーズ」の武田鉄矢に見えた。
「それってアウトでしょ。この会社のコンプライアンスとかってどうなってんの?」
「でもですよ。本当に悩んでたら普通そういう窓口に相談するじゃないですか。会社のトイレで私なんかに話すんだから、あれって絶対『私モテちゃって困るぅ』って自慢ですよ」
藤原はグーにした両手を口元に当ててぶりっ子ポーズをした。確か平成生まれのはずだけど意外と昭和なリアクションだ。
「確かに、有馬さんってアッチ系ゆるそうだよね」
「フワフワの巻き髪も〝夜の蝶〟っぽいじゃないですか」
「そうそう。平気で社内不倫とかしちゃいそう」
「じゃあ、丸川部長のほうが騙されたってことですかね?」
「ね。だいぶ貢がされてるんじゃないの」
「社内のドロドロ、サイコーのおかずですね」
何十年も同じ会社に勤める正社員と違って、派遣社員の人間関係の何と気楽なことか。月とすっぽん、提灯に釣鐘くらい違いすぎる。社内の噂話も言いたい放題だ。ストレス発散にはもってこい。
ただ、誰も好き好んで派遣社員をやっているのではない。非正規労働者は全国に2100万人以上いるという。ワーク・ライフ・バランスとやらを考えて派遣を選択している人は大勢いるだろう。
だが真由美は違う。正社員になれなかった。仕方なく。生活をするために。
約20年前、大学を卒業する頃は、超就職氷河期のど真ん中だった。にもかかわらず、真由美はまさか自分が就職できないなんて思ってもいなかった。エントリーシートは熟考に熟考を重ねてキラキラした学生時代を過ごしたように書いたし、油ぎったオヤジのセクハラまがいの面接も笑顔で答えた。こんなに努力しているのに、なぜ内定をもらえないのか。
卒業間際の3月。人生を諦めた。
新聞広告で見つけた小さな運送会社の事務の仕事。時給780円。
両親に就職先がないなら実家に帰ってきなさいと言われていた。「自動車1台買ってあげる」という言葉に心揺れたが、あんなド田舎に絶対戻るもんかと意地もあった。背に腹は代えられない。
新聞広告で見つけた小さな運送会社の事務の仕事。パート社員で時給780円。
「サザエさん」の波平さんみたいな社長は、面接で履歴書をほとんど見ることなく、3分くらい話しただけで働くことが決まった。
フリーターへの扉は、まるで自動ドアのようにあっさりと開いた。
運送会社では1カ月真面目に働いても10万円ちょっと。夜はラーメン店でアルバイトを始めた。深夜だから割増で時給980円。
今なら「幸せ! ボンビーガール」に出られそうな、貧しい生活だった。あまり幸せではなかったから無理か。
そこからは「1円でも時給が高い」ことが唯一の条件で、様々な職業を転々とした。回転寿司のホール、化粧品工場の箱詰め、ビル清掃、テレホンアポインターなどなど、思い出せないくらい。デパートの食品売場は時給1050円で高かったが、女性同士の派閥争いに嫌気がさして辞めた。
30歳を過ぎて世の中の景気が上向いてきた頃、一念発起して正社員になった。地元に根付いた広告代理店だった。
ちょうど結婚を考えていた彼とお別れして、仕事に生きようと決めた。
「未経験でも月30万円以上可能!」なんて話、あるはずなかった。完全なブラック会社だった。
数字至上主義、目標を達成すれば給料が上がるという説明だったが、到底達成出来ない目標を与えられる。達成出来なければペナルティー。成績により給料から1万とか2万とか引かれる。残業は当たり前。休日はあってないようなもの。
それでも3年は歯を食いしばってがんばった。せっかく正社員になったんだから。
案の定、身体を壊した。おかしくなったのは自律神経だから、やられたのは心のほうだ。それから1年間くらいは、ほぼ引きこもり状態。切り詰めて貯めたお金が底をつき、生きていくために働かなければとようやく思えたのは35歳の時だった。
正社員として働きたかったが、またブラック会社かと思うと怖かった。そもそも、まともな会社はこんな履歴書スッカスカの人間を雇うことはないだろう。
非正規雇用しか選択肢はなかった。その中で一 番合っていると思えたのが派遣社員だった。
こうしてみると、ろくでもない人生だな。