第1章 真由美(1)
――次は火事のニュースです。きょう、午前3時10分頃、東京・新宿区富久町の木造アパートで「1階から炎が出ている」と近所の住民から119番がありました。火は2時間後に消し止められ、アパート1階の一室が焼けました。この部屋に一人で住む望月武志さん23歳が病院に救急搬送されましたが、死亡が確認されました。牛込署は出火原因を調べているとのことです。
「最近、火事多いなぁ。放火かな。うわぁ、23歳だって。若いのに可哀そう」
佐藤真由美は、朝のニュース番組を見ながらテレビに向かって話しかけていた。
大学に進学する時、吉幾三バリに「オラこんな村イヤだ」と岩手県から上京し、一人暮らしは20年以上になる。いつの間にかテレビに話しかけるようになっていて、未だにそのクセは治らない。もっとも、誰に迷惑を掛ける訳でもないからクセを治すつもりはないが。
ジュワッと卵液を四角い玉子焼き器に流し込む。少し固まりかけたら奥へ寄せる。程よく焼けたら手前にひっくり返して形を整える。
だし巻き玉子は真由美の得意料理のひとつだ。料理を始めた頃は上手く作れず、形も食感のダメダメだった。火が通り過ぎてモソモソになったり、四角くまとまらず玉子が破れてしまったり、出し巻き玉子は全然言うことを聞いてくれなかった。
満足のいく出し巻き玉子を、マグレではなく安定して作れるようになって初めて、真由美は一人前になれたと思った。
よっと。焼き上がった出し巻き玉子をアルミホイルで包み形を整える。こうすることで余熱で火が通り、しっとりとまとまるのだ。そして冷凍ブロッコリーを電子レンジで温め、お弁当箱にご飯を詰める。
「今日は、のりたまかな」
ふりかけにはこだわりがあって、毎日同じだと飽きてしまうから4~5種類は常備している。のりたま、瀬戸風味、味道楽が定番で、これに珍しい新商品や旅行先で買ったご当地モノが加わったりする。最近のお気に入りはペヤングソース焼きそば味。かなり再現率が高いのでリピート買いしたほど。
出し巻き玉子を4等分に切る。真ん中の2切れはお弁当用、両端の2切れは朝食用だ。
冷ましておいたチキンのマスタード焼き、ブロッコリーのからしマヨ和え、プチトマトなどを手早く詰めて、お弁当、完成!
「いただきます」
お弁当のおかずの残りとインスタントの味噌汁で簡単な朝食に。
テレビからは連日報道されている新型コロナウイルスのニュースが流れる。
――新型コロナウイルスの感染が国内で広がっている問題で、政府の専門家会議が24日、会見を開き「これから1~2週間が、感染拡大が急速に進むか終息できるかの瀬戸際となる」との見解を公表しました。感染拡大のスピードを抑制し、可能な限り重症者の発生と死者数を減らすことを、今後の対策の最大の目標とするよう求めています。――
「うーん、1~2週間が瀬戸際って。これを乗り切れば終息するってこと? マスク不足とか言われているのに本当に大丈夫なのかな?」
テレビに向かっていくら疑問を投げかけても、文句を言っても、誰も何も答えてはくれないのだけれど。
真由美は中堅どころの荘司商事で働いている。商社と言うと聞こえはいいが、正社員ではなく派遣社員だ。昨年の10月からの契約で、もうすぐ5カ月。営業事務の仕事にも慣れてきて、次の3カ月も契約更新したいと思っている。
只今、朝の8時35分。普段から出社時間の9時より20~30分前には出社しようと思っている。早出しても「9時より前は給料発生しない」とは言われているが、電車の遅延であっても遅刻は絶対できないので早めを心掛けているのだ。
真由美は淹れたばかりのコーヒーを一口すすり、ほぅーと息を吐いた。仕事を始める前にコーヒーブレイク。押し潰されそうになりながら満員電車で出社するのもひと苦労だから。仕事に集中するための大切な時間だ。
しかも、会社のドリンクコーナーはコーヒー、カフェオレ、紅茶、緑茶、ほうじ茶など充実していて、全て無料! 本当にありがたい。
「おはようございまーす」
隣の席の山本麻美が出社してきた。今日もお美しい。
リボンタイのついたオフホワイトのブラウスにピンク系の花柄スカート。正統派愛されファッション。きらりと光るイヤリングも花モチーフで、細かい所まで抜かりはない。
「あ、おはようございます…。今日は寒いですね」
万人共通の天気の話題。山本に対してそれ以外の選択肢はない。
「ねぇ。風も強くて大変でしたよぉー」
ツヤツヤの黒髪を整えながら、大変そうに見えない笑顔を真由美に向けた。
性格は気さくで気配り上手。仕事もそつなくこなす。さすが社員様。
だから嫌い。すごく惨めな気持ちになるから。
「おはよー。きょうは何? お得意のキャラマキ?」
勢いで仕事を乗り切るタイプの金子龍彦が、向い側から山本に話しかけた。手に持つスターバックスコーヒーのタンブラーの中身を聞いたのだ。
「新発売のさくらミルクプリンフラペチーノですぅ。さくらシリーズ、毎年、楽しみにしてるんですよぉ」
こんなに嫌味なくぶりっ子ぶれるのは、人気女子アナかこの子くらいしか知らない。
「さすが、山本さん。春だもんねぇ。スカートもサクラ色だし、かわいいー」
こういう会話には加わらないと決めている。真由美はパソコンに向かいメールをチェックした。
こっちは会社の無料のコーヒーだぞ。飲み物に500円も600円もかけるなんて。私の1食分より高いわ。さすが高給取りは違う。そりゃ、毎日着せ替え人形みたいにおしゃれできるでしょうよ。
…というマイナスの感情が表に出てしまわないように。そっとフェードアウトするに限るのだ。
営業事務は楽しい訳ではないが、それなりにヤリガイはある。仕入や売上のデータ入力、企画書・契約書の作成など、パソコンがメインの地味な仕事だ。締め切り時間より早く仕上げると「助かるよ」と喜ばれるし、この前はチーフに「ミスが少ないね」と褒められたし。
これで時給1350円。悪くはないと思う。9時~17時勤務で休憩1時間の7時間労働。つまり1日9450円。休みはカレンダー通りだから月21日か22日働けば、19万8450円~20万7900円。
40代女性の一人暮らし。そんなに贅沢はできないが、上手に節約すれば何とかなる。
2019年度の最低賃金は、トップの東京都が1013円だ。それより300円以上も高いのだから充分と思わないと。ここ数年は上昇傾向にあるとはいえ、最低賃金の全国平均は874円。同じ7時間働いて1日6118円。月22日勤務でも13万4596円にしかならない。
ただし、時給が多少よくても、年末年始やゴールデンウイークなど長期休暇があると痛い。だから貯金はなかなか貯まらず、決して余裕のある生活ができるわけではない。
英語や簿記など武器になるスキルがあればもっと高い時給が望めるが、真由美は営業事務でさえ未経験なのだから仕方ない。
最近は何かいい副業はないかとばかり考えている。それとも資格の勉強をしたほうが後々有利になるだろうか。