今橋1
今橋さんの物語。
今日は雨が降る。あの日と同じように。
二か月前の四月の頭、近くの神社にソメイヨシノが咲き誇った頃だった。私の心はソメイヨシノよりも早く満開になっていた。三月の中旬、大学から来年度から所属するゼミのお知らせが届いた。名簿にある「鰐川」の名前を見て人知れず心を躍らせていた。
一回生の基礎クラスで出会い、仲良くなり、私は彼の沼へと沈んでいった。知れば知るほど、彼は魅力的だった。得体のしれない魅力に飲み込まれていった。
長い春休みを終えて始まったゼミの初日、私は真っ先に彼を探した。彼は小さな教室の隅の席で文庫本を読んでいた。私を含め周りの皆が、桜のように淡いピンクで染められた時間を共有しているのに対し、彼だけは未だ、二月三月の凍える季節に独り取り残されているかのようだった。
彼との久しぶりの会話を楽しもうと、彼に近づくと私の憶測は外れていたことに気づいた。鈍器で殴られたような衝撃が後頭部に走った。彼は、寒い季節に取り残されているふりをしているだけだった。もうすでに鰐川君の中に春は訪れ、温かい陽気が彼を包んでいた。読んでいる文庫本が、珍しく恋愛小説だった。
「らしくないじゃん。」
私は文庫本を指さして、そう言った。指か声のどちらかが震えていた気がしたけど、もう覚えていない。
「たまには、ね。」
彼は少し顔を赤らめてそう言った。
「好きな人できた?」
「な、なんで。」
鰐川君は明らかに狼狽した。彼は間違いなく恋をしていた。わかりやすかった。そして、彼の顔と心は私の方を向いておらず、どこか遠くの誰かに向けられていた。私のハートは簡単に割れた。淡いピンクの視界がゆらゆらと徐々に歪んでいった。
「あとで聞かせてね。」
私は無理やり笑みを作りそう言った。その日から今まで、鰐川君の恋の話はしていない。
午後四時ごろ、昼間は真っ青な空が、桜を含めた植物たちを喜ばせていたのに、気づくと辺りは暗い雲に覆われ、雨が降り始めていた。元気だった桜や人々は、萎れて静かになっていた。私は、桜が咲き誇っている神社に足を運んだ。傘を開かず手に持ったまま、地面の石ころを思い切り蹴った。二個、三個と次々に蹴った。いくつかの石ころが、桜の木にぶつかり私の足元へ帰ってきた。私はもっと思い切り蹴り飛ばした。長い間雨に打たれ、前髪から雫が落ちるくらいまで濡れた後、私は泣いた。
桜はすべて散って、葉桜の新緑が生い茂る季節になった今日は、午後には雨の予報で、積乱雲も奥に見えた。私は、初夏のラベンダーを意識した紫色で半袖のワンピースを着て学校に向かった。学校の門の近くで、鰐川君を見かけた。私は鰐川君のもとへ駆け足で向かった。暑さが私を励ましてくれた。
振り向いた鰐川君の右頬に赤いジャムがついていた。私はそれを見て、勝手に胸を痛めた。——あぁ、浮かれているのかな。恋が上手くいっているのかな。
私は、赤いジャムから目をそらし、少し意地悪な提案をした。鰐川君はあまり嫌そうにせず、受け入れてくれた。今日の鰐川君の朝ご飯はきっと、イチゴジャムパン。私は、右頬のジャムを無視して、知らん顔で朝ご飯を当てた。驚く鰐川君の顔が、私の好きな顔だった。また胸を痛める。
自動販売機に、鰐川君が二百円を入れた。私は百円の水を選んだ。ずるで意地悪いけど、水なら許されるよね。私はこんな苦しんでいるのだから。
私は買ってもらった水を片手に、鰐川君と別れた。鰐川君は最後まで、あの時と同じように、私を見ていなかった。無理やり楽しそうに歩いた。鰐川君は私を見ているだろうか、楽しそうにワンピースを揺らして歩く私を見ているだろうか。
教室に入ると、効きすぎている冷房に震えた。私は、鰐川君のチャットを開き、ネタ晴らしをした。鰐川君から返信はなかった。彼が心をどこかへ向けたまま、チャット見て、不愛想に右頬をこする姿が浮かんだ。苦しくなった。でも少し楽しかった。あの日のように目頭が熱くなる。
今日もきっと雨が降る。
ありがとうございます。