橘3
今回は橘さんです!
私は違う。落ち着け。
隣で人目も気にせずバカみたいに騒ぐ二人の友達を横目で見ながら、私は心でつぶやいた。
何か話を振られたら、お得意の愛想笑いを披露する。毎日、偽りの自分が、本当の私を飲み込んだ。
「ねぇ、このニュース見た?」
「どのニュース?」
いつまでも、二人はだらだらと会話を続ける。
「虐待のやつ!」
「ああ、あれほんまにやばいよな。子供がかわいそうすぎる。」
「それな。両親死刑にしろって感じよな。」
「さっさと死ねよな。」
二人はありったけの怒りをお互いに放出し合っている。私は、耳を塞ぎたくなる。気持ちはわかる。だけど、そんな軽はずみな言動は何か違う。得体のしれない二人のバカっぽさにうんざりするとともに、自分はみんなと違うと唱える。
「日奈はどうおもう?」
遂に来た。嫌悪感が少し表情に出てしまったかもしれない。
「うーん、死刑にするべきやな。」
「やんなぁ。生きる価値ないねん。」
ああ、だめだ。だめだ。思慮のないバカみたいな友達よりも、何よりも、この偽りの自分が大嫌いだ。自分は違うとは思いつつも、嫌われることを恐れてる。私は弱く哀れだ。群れからはみ出るのを恐れている。自分の意思がチョコレートのように簡単に溶けて、汚く固まる。こんな自分への嫌悪感が表情に浮かび上がる。
終始くだらない話をしながら授業を終えた。暇つぶしと、おやつを兼ねてさっきの友達のうちの一人、優花と学校の食堂に向かった。食堂に入ると、様々な食べ物の匂いが混ざった汚い空気が漂っていた。私の鼻を強く刺激した。、私は大学芋を買った。わにちゃんは大学芋が好きらしい。私はそこまで好きじゃない。
席に着くと、この時を待ってましたと言わんばかりに、優花が話しを始める。
「なあなあ日奈、日奈に会ってみたいっていう男の子がいるんやけど。」
「はあ。」
私は、口に入れかけた大学芋を器に戻した。
「高校時代の友達やねんけどさ、結構イケメンやねん。」
「イケメンか。それはありやわ。」
私は思ってもないことをわざと口に出す。私はこの大学芋が好きな子が好きだから、そんなの興味なかった。
「今度の日曜日、バイト?」
私は予定を確認した。バイトは入っていなかった。バイトに入っているのは、わにちゃんと朱里ちゃんだ。
「バイトないよ。」
「ほんまに? じゃあ、日曜日私とその子と三人でカフェ行かん?」
「いいけど。」
「よし。決まりや。」
優花は濃い化粧で固められた顔で満面の笑みを作る。金色のロングヘアーを重そうに揺らした。私はそれに合わせるようにテンションを上げたが、追い付かない。本当は行きたくない。私は大学芋をほおばった。助けを求めるように、しっかり味わった。
優花と別れた私は、四限の授業に向かった。今朝見た積乱雲が空の大半を覆い、灰色の世界を描き始めていた。少し生ぬるい風が吹き始め、私たちに雨を知らせようとしている。
授業が始まると凄まじい眠気に襲われた。さっき食べた大学芋に睡眠薬でも入っていたのかもしれない、なんて変な妄想をする。このまま眠ったら、どこかに連れていかれてしまうかもしれない。少し怖くなったけど、私は眠った。いっそのこと、大学で意味もなく偽りの友人関係を作り、苦しむ哀れで弱い自分を、どこかに連れて行って欲しかった。
目を覚まし、顔をあげると、眠る前と変わらない光景が目の前に広がっていた。二十分くらい寝ていたようだった。前の席の人が、ずっと左の窓から外を眺めている。何だろうと思い、私も窓の外を見る。すると、灰色の雲から、大量の雨が降り注いでいた。それに気づいた瞬間から、少しずつ雨の音が耳に入ってくる。目で見て、段々と音に気付く。赤ちゃんになった気分だった。
私は、授業を受けながら、ずっと雨を見ていた。わずかな強弱をつけながら降り続ける雨を見ているのはなんだか心地よかった。どれだけ観察しても感情が読めないところに惹かれていく。
最後まで雨に惹きつけられたまま授業を終えた。私は急いで教室を抜け出し、外に向かった。いち早く、この雨を体で感じたくなった。しかし、その気持ちはいとも簡単に変わった。いざ体感してみると私はショックを受けた。怖かった。すさまじい轟音や地面を打ち付ける容赦のなさは、私を震えさせた。
最近、豪雨や台風も地震などと同様、恐ろしい災害であること知った。屋根から滝のように流れ、川のように地面を覆う雨水たちは、私たちの命を十分に奪う力を持っている。そう考えたら最後、もう恐怖しかなくなった。
ふとわにちゃんの顔が思い浮かぶ。私が死んだら、わにちゃんは悲しんでくれるだろうか。そう考えて、すぐに落ち込む。きっと悲しまないからだ。私はわにちゃんが死んだら、その先の人生ずっと悲しむに違いない。それだけ彼のことを想っている。私の中の大半をわにちゃんが占めている。けど、わにちゃんはきっと違う。わにちゃんの中の端っこに、小さく体育座りをする自分がいる。凄まじくおこがましいけど、わにちゃんにとっての全てになりたい。いつからかずっと心の底からそう思い続けている。
一向に雨は弱まらないので、私は諦めて大学のバス停まで走って向かい、バスに乗った。そして家の近くのバス停で降り、また走って家に帰った。結構濡れた。けど命はあった。
「おかえり。すごい雨やったやろ。」
家に着くと、母が元気にお出迎えしてくれた。
「結構強かったなぁ。」
「よく無事で帰って来てくれたなわが娘よ。」
「何それ。」
「そこは、お母様また会えてよかった。て返さなあかんやろ。」
「うざいて。」
きっと、昼間の韓ドラに影響されているのだろう。私は母のひょうきんさにあきれるとともに、正直、毎日救われていた。ここには偽りでない関係があって、本当の自分がいた。
家の中に聞こえてくる雨の音は弱く、きれいだった。私はすっかり落ち着き、部屋着に着替え、ソファに座り携帯をいじっていた。ちょうどその時一軒の通知が来た。私はその通知に心を狂乱させた。
『すごい雨だね。』
わにちゃんからのチャットだった。交換して以来、初めてのチャット。めまいがした。
ビックリマークすらないそっけない文章が、わにちゃんらしかった。私はすぐに返信を返さないようにした。すぐに返したらあまり良くないのは誰でも知っている。恋愛経験のない私でも知っている。
五分待って送ろうとしたが、まだなんか早いような気がした。もうあと十分待とうと思ったが我慢できず、五分だけ待って遂に返信をした。すると、一分もたたずにわにちゃんからの返信が来た。
『本当に? 風邪ひかないようにね。』
今しかないと思った。今、距離を縮めなくてはいけない。縮めたい。もっと彼の中に入りたい。
私は心臓の鼓動が激しくなるのを感じながら、二階の部屋に駆け込み、チャット画面横の、通話ボタンを押した。
ドクドクとテンポの速い太鼓に胸を揺らされている気分になる。私は深呼吸した。部屋に漂うアロマキャンドルの味がしっとりと舌に纏わりついた。
『も、もしもし』
ああ、わにちゃんの声だ。
「もしもし、橘です。」
『どうしましたか。』
あなたの全てになりたいです。と心の奥でつぶやく。彼の曇った声の裏から、聞き覚えのある轟音が聞こえてくる。雨だ。
「あ、えっと、え? わにちゃん外におるん?」
『あ、うん。傘忘れて大学から帰れないでいる。』
「ええ、大丈夫?」
『うん。このまま走って帰るよ。』
わにちゃんの言葉を聞き、咄嗟に、わにちゃんのためになりたい。と思った。きっとこの思いに邪心はない。何も得られなくても、私はわにちゃんに尽くしたい。
「わにちゃん、もう少しだけそこで待てる?」
『全然待てるけど・・・』
『傘持って行ってあげる! 待ってて。』
私は目に見えていないわにちゃんを目の前に浮かべて、バカみたいに照れながらそう叫んだ。勢いのあまり、電話を切ってしまった。
部屋のスタンドミラーに映る自分の顔は真っ赤になっていて、笑みを隠し切れないでいた。少し気持ち悪かった。心臓がゆっくりと落ち着いていくのがわかる。外の雨模様とは対照的に、私の心はもうすっかり気持ちよく晴れていた。
私は、部屋着を脱ぎ、花柄の刺繍の入ったノーカラーのシャツに腕を通し、黒いスキニーを履いた。そして、気の緩んだ髪の毛を櫛で必死に直した。
下に降りると、リビングで母が何か企んでいるような顔をして待ち構えていた。
「何?」
「私はなんでもオミトオシやで。」
ニヤリと微笑む母を睨んで、私は玄関へ向かった。
「ちゃんと女の子らしい傘を持っていきや。私の使っていいから。ビニール傘なんてあかんで。」
「言われなくてもそうします。」
「ほほう。さすが私の娘やわ。」
母は自慢げに笑って私を見つめた。私は、行ってきます。と小さな声で言い、玄関に向かった。玄関には傘立てに何本も傘があり、私を悩ませた。考えた末、一つは青色の水玉模様の傘、もう一つは黄色のパステルカラーの傘を選んだ。私は雨なのを忘れて、まだ新しいホワイトの靴を履いた。
家を出ると、ほんの少しだけ雨が弱まっていた。私の家からわにちゃんの大学までは歩いて五分ほどである。わにちゃんの大学はレベルが高いので、私の学力では到底入学できなかった。だから私はバスに乗って少し離れた大学に通っている。
私は、たくさんできている水たまりを慎重によけながら歩いた。雨の中、濡れないよう傘を差しゆっくり歩いていたが、心は、清々しく疾走し、雨に気持ち良く濡れていた。
——わにちゃんに会える。
私は心の中で何度も繰り返した。わにちゃんとバイト以外で会うのは、ショッピングモールで会って以来だった。いや、あれは会ったとは言えないかもしれない。それくらい、お互いが控えめだった。
あっという間に、わにちゃんの大学の校門の前にたどり着いていた。わにちゃんのいる場所がわからないことに気づいた私は、もう一度わにちゃんに電話をかけた。するとわにちゃんはすぐに電話に出た。
「わにちゃん、どの辺にいるん?」
『えっと、一番目立つえんじ色の棟があると思うんだけど、そこの下にいる。わかるかな。』
雨で少し煙っているが、少し遠くに赤い建物が見える。きっとあそこだ。
「わかった。今行く。」
無我夢中だった。私は電話を切る時間すらも惜しいと思い、すぐに直進し始めた。少し歩くと、赤い棟の下のベンチに人影が見えた。わにちゃんだ。
「わにちゃん!」
気づいたら大声でそう叫んでいた。さっきまで心で繰り返していた彼の名前が、溢れて抑えきれなくなった。
私の声にわにちゃんが反応する。私は大きく手を振った。というより、勝手に手が動いてた。
わにちゃんが目の前にいる。バイトの時とは違うわにちゃんが、目の前で生きている。
「お待たせ。」
わにちゃんに駆け寄り、傘を渡した。わにちゃんは申し訳なさそうに傘を受け取った。わにちゃんが一瞬、下を向いて固まった。心配になった私は声をかける。するとわにちゃんは、黒目を輝かせてお礼を言った。その声は心なしか震えている気がした。来てよかったと心から思った。
私はわにちゃんに途中まで一緒に帰ろうと提案した。わにちゃんは快く承諾してくれた。
雨が止んだ。二人で歩き始めるとすぐに、ぱったりと雨が消えた。あたりは明るさを取り戻し、雨と土の匂い、水たまりだけが残った。わにちゃんと顔を見合わせて笑った。まるで私たちがここで会えたことを祝福してくれているかのようだった。鳥たちが歌を歌い始める。私の心はそれに合わせて踊った。
わにちゃんとのたわいない会話は素晴らしいものだった。わにちゃんは、あるガールズバンドが好きらしい。少し驚いた。私の好きなバンドも教えた。二人の好みがロックだったことに私は喜びを隠せなかった。今日をきっかけに、薄い壁が破られた気がした。わにちゃんはいつもより笑顔だった。それに続き私の顔にも笑みが浮かぶ。私は一生この時を忘れないようにしようと誓った。私は再びわにちゃんに恋をした。
バイト先の近くで別れた後、余韻に浸りながらよぼよぼ歩いた。家に着き中に入ると、また母が待ち構えていた。リビングと玄関の間のドアからひっそり半分顔を覗かせている。
「どうだったのよう。」
そう言う母の顔を見ずに、私は親指を立てた。それを見た母は微笑み無言で頷いた。
「さすがは私の娘や。」
また母は自慢げな顔をする。私はそれを見て少し照れた。
「はあ、やっぱり好きや。」
つい口に出してしまった。また溢れてしまった。母の顔がニヤッとする。玄関の鏡に映る自分の顔が真っ赤になる。私は走って二階に駆け上った。母は追いかけてこなかった。
少しして落ち着いた私は、部屋のベッドに横たわり。わにちゃんの顔、声、仕草、全てを振り返った。そして携帯を手に取り、ある画像を探す。その画像を見て少し変な気持ちになった。嫉妬に似た感情だった。そしてネットを開き、美容室を予約する。その時私は少しドキドキした。
気づけば私は嫌な大学生活のことなど、とっくに忘れていた。思い出した後も、なんとも思わなかった。
かわいいですなぁ。