鰐川3
「雨の降らないうちに帰りましょう。」
五限目の授業が終わると先生はそそくさと教室を出ていった。時刻は午後六時。カーテンが閉められた重厚で暗い大講義室には、生徒たちの吐いた二酸化炭素や、におい、疲労感が充満していた。
教室を出ると、驚いた。大粒で大量の雨が地面や屋根を叩く音が閉められた窓を通して聞こえてくるのだ。きっと先生も驚いたに違いない。もうすでに土砂降りだった。
四階の窓から見える、向かいの棟の屋根に打ち付ける雨から煙が出ていて、辺り一帯白く煙ったい空気が広がっていた。階段を下りて外に出ると、雨の音はより一層すさまじく聞こえてきた。その音に慣れてくると、次第に雨の生ぬるい匂いと土の柔らかい匂いが漂ってくる。あまり良い匂いではなかった。
傘を持ってきていなかった。朝の天気予報では、「西日本今日から梅雨入り」と騒がれていたが、朝、とても晴れていたので大丈夫だろうと勝手に思った。こういうことがよくある。勝手に大丈夫だって思って、後悔する。上には屋根があるが、目の前の地面には雨が強く打ち付けられていた。跳ねた水しぶきが僕の腕を少しずつ濡らしていく。まるで雨が僕を馬鹿にしているかのようだった。
棟の中に再び戻り、僕は携帯をポケットから取り出す。そしてチャットを開き、ある人物を探した。画面をスクロールしていくと、案外早く見つかった。その人物の名は「橘日奈」。
なぜかはわからない。わからないが今日初めて許された気がした。友達追加して以来一度もチャットをしていなかった人とのチャットが。この雨の忙しく、五月蠅い音の中では、どんなことも上手くいく気がした。僕がチャットをするということも何もかもすべて。また、もしチャットが上手くいかなくても、もし彼女にとっての僕の価値がわかってしまっても、全て雨が止んだらなかったことになるようなそんな感じがした。
僕は外に出て屋根のある場所のベンチに座り、そっと文字を打った。
『すごい雨だね。』
『すごい雨だね!』
『雨すごいね。』
『雨すごい!』
『雨やばい。』
・・・・・・・・。
何度も打ち直してはすぐに消した。結局一番初めの『すごい雨だね。』をもう一度打ち直し、送信のボタンを押した。すさまじく手が震えていた。
送ってから五分が経った。この間に雨がやんでしまったらどうしようと思っていたが、運よく雨はさっきよりも強くなっていた。このまま帰れなくてもいい。ずっとこの雨の中、橘さんからの返信を待ちたいと思った。
また五分経った。雨は降り続く。さっきまで同じ屋根の下にいた数人が諦めて走り出した。一人ぼっちになる。また勝手に大丈夫だと思い、勝手に後悔することになる未来が見えた。このまま雨の中をゆっくり歩いて帰れば、ずぶ濡れで何もかも忘れられる気がした。そう思った時、携帯が揺れた。
『すごい雨やな! 帰り道びしょ濡れになってもうた(笑)』
画面を見た僕は目頭がじんと熱くなった。橘さんの声や笑顔が次々と走馬灯のように浮かび上がってくる。僕はこのまま死ぬのかもしれない。僕はこの日、橘さんと初めてのチャットに成功した。
こんな時、すぐに返信を返さない方が良い。という言い伝えがある。しかし僕は待てなかった。すぐさま既読をつけ返信した。
『本当に? 風邪ひかないようにね。』
僕がこう打った直後、画面がふっと暗くなった。そして電話受信の画面が出る
そこには「橘日奈」とあった。心臓が一瞬止まるかと思った。驚いた拍子に大粒の涎が口から零れ落ちて、ベージュのパンツに沁みを作った。僕は三コール見送ってから青い方のボタンを押した。
『も、もしもし』
『もしもし。橘です。』
『どうしましたか。』
『あ、えっと、え? わにちゃん外におるん?』
『あ、うん。傘忘れて大学から帰れないでいる。』
『ええ。大丈夫?』
『うん。このまま走って帰るよ。』
僕がそう言うと、少し沈黙が訪れた。電話の奥から橘さんの吐息が聞こえる。
『わにちゃん、もう少しだけそこで待てる?』
『全然待てるけど・・・』
『傘持って行ってあげる! 待ってて。』
橘さんはそう言うとすぐに電話を切った。僕はベンチに座ったまま呆然と前を見つめた。
さっきまでの煙たい空気が一気に晴れた気がした。耳に入り込んでくる雨の音は爽やかで、心地よい音に変わった。初めて橘さんと電話した。
前を見続けて何分経っただろうか。雨が強弱の変化を繰り返し、木々の葉は激しく身を震わしていた。傘をした何人かが前を通った。僕だけが違う世界で停止していた。心も体も。
携帯が激しく揺れ、僕は我に返った。画面には「橘日奈」と表示されていた。僕はすぐさま電話に出た。
『わにちゃん、どの辺にいるん?』
いつもと変わらぬ声でそう言う橘さんに、棟の場所を教えた。つながったままの電話から、橘さんの呼吸が聞こえる。来る。来てくれる。あり得ない。どうして。と声にならない気持ちが心中でぐちゃぐちゃと絡まる。そして突然電話が切れた。
「わにちゃん!」
声がする方を見ると、傘をさした橘さんが笑顔で僕に大きく手を振っていた。
彼女の姿は、雨に濡れても萎れず、雨水をキラキラと輝かせたハイビスカスのように見えた。
まるで彼女だけが南国にいるかのように、煙たい空気をはねのけ、爽快な笑顔を僕に向けていた。ハイビスカスの花言葉は「新しい恋」まさに、僕はまた新しく、恋をした気がした。
橘さんはが僕の元に来た。彼女の存在が信じられなかった。
「お待たせ。」
彼女は僕の目をしっかりみてもう一本の方の傘を手渡してくれた。
「わざわざごめんね。本当にありがとう。」
「全然だいじょーぶ。暇やったし!」
そう言う橘さんの笑顔が綺麗すぎて、言葉が出てこない。本当は聞きたいことが山ほどあった。ーどうして来てくれたのか?ーどうして僕なんかのために?
裏がある。とまでは思わなかったが、どうしても彼女が来てくれたこと、彼女が目の前にいることが理解できなかった。そして、嬉しかった。
「わにちゃん?」
黙り込む僕を覗き込み、心配そうに声をかけてくれた。
「本当にありがとう。」
僕は抑えきれず、もう一度お礼を言ってしまった。しつこかったかもしれないし、多分声が震えていた。橘さんが一瞬たじろいだのがわかった。
「行こ。わにちゃん。途中まで一緒やろ。」
「うん。」
各々、別々の傘を差し、並んでキャンパスを歩いた。広いキャンパスを抜けるとすぐに雨が止み、雲と雲の隙間から青空がのぞいた。さっきまでの鬱蒼とした空気が嘘かのように、明るく、すっきりとした空気が漂いはじめる。
「雨やんでもーた。」
橘さんが笑いながらそう言った。その可愛さに僕も微笑んだ。
「橘さんのおかげやね。」
僕が返答に困りかろうじてそう言うと、彼女は笑ってくれた。僕たちは同時に傘を閉じた。
正直、雨なんてどうでも良かった。降ってても降っていなくても。濡れても濡れなくても。傘があってもなくても。橘さんがいれば良かった。
僕達は途中まで、本当にたわいもない会話をした。学校の課題が多いやら、バイト先のあの客がムカつくやら。橘さんとの空気に酔いしれて、半分以上の話を覚えていないが、苦しいほど楽しい時間だった。
僕達のバイト先のコンビニの近くの分かれ道で、僕達は別れることになった。2人の時間はあっという間に終わりを迎えた。
「私こっちやし。バイバイやな。」
「うん。本当にありがとう。」
最後まで、彼女が僕のために来てくれた理由を聞けなかったけど、理由はもういらなかった。理由なんてないのかもしれなかった。ただの気まぐれかもしれない。僕は思い上がらないように、感謝と喜びで心を埋めた。
手を振りながら去っていく橘さんが見えなくなってから僕は反対方向に歩き始めた。下宿先に着いてから傘を返し忘れたことに気づいた。