橘2
下から掃除機の曇った轟音が聞こえ、私は目を覚ます。時計の針は十時を指していた。午後一時の授業に向かうためにまだ眠い体をゆっくりと起こす。私を起こした目覚ましの音は絶えず鳴り響いていた。
下に降りると、母がリビングで掃除機をかけていた。あまり高価な製品ではないせいか音が著しく大きい。私に気づいた母が掃除機を止めた。
「おはよう。」
母の言葉に私は手を挙げて返した。
「今日は授業何時からやっけ。」
「一時。」
「ご飯は食べる?」
「うん。」
「じゃあ、掃除機だけかけさせてな。」
母はそう言って再び掃除機をかけ始めた。轟音がリビングに響き渡る。私はソファに座りテレビをつけた。明るいスタジオでアナウンサーとコメンテーターが、つい先日あった児童虐待死について深刻な面持ちで討論をしていた。掃除機の音で声は全く聞こえないが、表情や身振り手振りから彼らの失望、怒り、悲哀が十分に伝わる気がした。ただ、彼らがいくら討論しても、亡くなった子供は帰ってこないし、逮捕された両親は刑務所でのうのうと生きて、出所して笑顔で生き、亡くなった子供のことなど忘れるのだろうなと思った。根拠はない。ただ、そうであってほしい。反省など甘いことを犯人にしてほしくない。
わにちゃんなら、このニュースを見てどう思うだろうか。私のように、犯人に対するもどかしい怒りに心を苦しめるだろうか。きっと違う。論理的かつ冷静に感情を整理するだろう。私はそんなわにちゃんが好きだ。
掃除機の音が鳴りやんだ。テレビの中の人たちの声が耳に入ってくる。彼らは昨日のサッカーの試合について笑顔で語り合っていた。さっきまでの怒りや悲しみはもうない。当たり前である。他人だから。私も同じだ。
「なんでそんな険しい顔してるん?」
掃除をし終えた母が怪訝そうに近づいてくる。
「私、そんな怖い顔してた?」
母は大きく首を縦に振った。
「まあ、ええけど。ごはん用意するな。」
母はそう言い残してキッチンに向かった。
ホカホカの白米に桃色に輝く銀鮭と、湯気が立ち上る味噌汁。質素だが、最強の朝食。極度の空腹が、お腹を痛めつける。手始めに味噌汁を流し込んだ。喉から食道を通って出汁のきいた汁が胃に流れていくのが鮮明にわかる。胃が喜んでいる。また味噌汁をすすりその喜びに浸っていると、ソファに腰かけテレビを見ている母が口を開いた。
「日奈、例のあの子とはどうなん。」
私は口に含んだ味噌汁を吹き出しそうになった。というか正直少し出た。母が意地の悪い笑みを私に向ける。
「特に、何もないな。」
私が平静を装ってそう言うと、母は残念そうな顔をした。
「この前見に行ったで、バイト先に。」
「嘘やん!」
母の予期せぬ言葉に偽りの平静さを保てなかった。
「嘘ちゃうし、頑張ってはったよ。」
「何そのどうでもええ情報。」
「一緒にはいとったおぼこい女の子と仲良くしてたで。」
私は思わず勢いよく母の方に首を傾けてしまった。
「のろのろしとったらとられてまうかもなぁ。」
私の異常な反応に気づいた母が意地悪く大きな声で言った。
「余計なお世話やし。」
私は投げ捨てるように言ったが、本当は心臓がバクバクし、ご飯が喉を通らなくなっていた。母はそれに気づいているのかいないのか、テレビを見ながら大きな声で笑っていた。詳しく聞きたい気持ちを抑え、ご飯を食べ続けた。もうあまりおいしくなかった。
やっとの思いで食べ終えたとき、母は長い黒髪を団子に結び、よくわからないエクササイズをしていた。
母の言う、おぼこい女の子はきっと、後輩の朱里ちゃんだ。最近入ってきた大学一回生の女の子。わにちゃんと同じ大学だ。明るくて人づきあいが上手く、なにより可愛い。わにちゃんとはすぐに打ち解けていた。私とわにちゃんの間にある薄い壁のような隔たりが朱里ちゃんとの間にはないような気がした。少し悔しかった。
母のせいで最悪な一日の始まりになった、と思ったがすぐに訂正した。目をそらしていた自分が悪い。でもそれは仕方がなかった。一度見たあの二人の間の温かい空気と、それに対する私の敗北感は私をひどく苦しめた。だから逃げていた。どうしても嫌な妄想をしてしまう。
私は気持ちを切り替え、用意を始めた。次にわにちゃんに会うのは三日後だった。その日はわにちゃんと二人きりの予定。頑張ろうと思った。そう思うことしか今はできなかった。
シャワーを浴び終え、ドライヤ―の風に髪の毛を遊ばた後、アイロンで髪の毛をまとめながらテレビを見る。母は薬局に行くと言って出かけた。目にはテレビの映像が映る。しかし頭の中にはわにちゃんと朱里ちゃんの二人の映像が現れては消えていた。その繰り返しが私の胸を強く痛め続けた。誰に対してかわからないもどかしい怒りが心を苦しめる。私は苦しんだまま、全ての用意を終え、大学に向かう。玄関に立つと急に行きたくなくなった。行ってもあの低く曇った声は聴けない。考えれば考えるほど、私はわにちゃんへの淡い色の想いに染められていった。
思い足をかろうじて動かし、玄関のドアを開けた。白いどっぷりとした積乱雲が晴天の奥にとどまっている。少しも動いてないように見える。太陽の光は私を痛いほど照らした。それなのにいくら照らされても私の心は曇ったままだった。今日は後々雨になる気がした。天気も私の心も。