鰐川2
外からごみ収集車の轟音が聞こえてくる。その音は徐々に大きくなり、僕のアパートの前で止まる。その図々しい轟音は、母が朝早くからかける掃除機の音に似ていた。
僕は完全に目を覚ます。体を起こした頃にはもうその音は遠ざかっていた。用を足しに部屋を出てトイレに向かうと、ドアの前にごみ袋が置かれていた。あの収集車の尻に吸い込まれるはずだったものだ。料理を滅多にしないのが不幸中の幸いだった。匂いはそこまできつくない。ただ、次のごみの日までそいつがいると思うと、かなり憂鬱だった。
用を足し、冷蔵庫からペットボトルの野菜ジュースを取り出しコップに注ぐ。毎朝このオレンジ色を見るだけで健康になったような気分に浸ることができる。野菜ジュースをしまい、イチゴジャムを取り出す。その真っ赤なジャムを真っ白な食パンに塗り、部屋に戻って一気に頬張る。ものすごく甘い。そこに野菜ジュースを流し込む。いつ飲んでも、このオレンジ色の液体はものすごく酸っぱい。
橘さんは酸っぱいものが苦手らしい。確かその話がおかしくて笑った記憶がある。橘さんが高校生の時、初めてトムヤムクンを食べた際に、見た目からは想像できないレモングラスの酸味に衝撃を受け、そこで「ああ、私は酸っぱいものが苦手なんや」と気づいたらしい。それまでは特に意識してなかったと笑いながら話す橘さんが愛くるしかった。ちなみに僕はトムヤムクンが大好きだ。
ふと我に返ると、空のコップにニヤニヤした自分が写っていた。急な羞恥心に襲われたので、僕は急いで食べ終え、もう一杯コップに野菜ジュースを注いだ。コップに映る気持ち悪い自分を急いで隠した。
用意を終え家を出ると、朝八時にも関わらずもわっとした熱気が僕を襲った。ここ最近、気温が異常なくらい高い。できるだけ日陰を探しながら、歩いて大学に向かう。距離は一キロないくらいで、徒歩十五分ほどである。毎朝、大きな鳥居のある神社の近くを通るが、この時期の青い空とその少しくすんだ赤の鳥居、そしてみずみずしい桜の新緑とのコントラストに毎度感動する。きっと他にも感動している学生はいるはずだ。
キャンパスに着くと、大勢の生徒が朝の気だるげさを纏いそろそろと歩いていた。僕もその中の一人になろうとしかけたとき、誰かが後ろから肩を叩いた。
「おはよ。鰐川君。」
少し驚いて振り向くと、同じゼミ所属の今橋さんが息を切らして立っていた。
「おはよう。」
「門のあたりで見かけたから、走って追いかけてきたの。」
「それでそんなに息を切らしてるんだ。」
「そう。」
今橋さんは話しながら下ろしていた髪の毛を結びあげた。首元が少し汗ばんで光っていた。
「タオル、貸そうか? まだ一回も使ってないし。」
僕がそう言うと、彼女は目を丸くした。
「駄目よ、そんなに簡単に女の子に優しくしたら。」
今橋さんは少し声色を変えて冗談っぽくそう言った。彼女は僕が渡しかけたタオルを押し返し、リュックからタオルを取り出した。
「まあ、ありがとう。自分のあるし大丈夫だよ。それより、今日の鰐川君の朝ご飯当ててもいい?」
今橋さんは少し焼けた首元をタオルで拭いながら突然そう言った。彼女の少し妖艶な笑みから意図を読み取ろうとしたが無理だった。
「いいよ。」
「じゃあ、当てるね。当たったら、ジュース一本。」
「え?」
「嫌だ?」
「いや、いいけど。」
まあ、無理な話だろうと思い、僕は承諾した。
「じゃあ決まり。ズバリ、今日の鰐川君の朝ご飯は、ジャムパン。違う?」
今橋さんは僕の顔を覗き込みニヤリと笑った。僕はドキッとした。
「あ、ジャムはイチゴね。」
追い打ちをかけるように彼女はそう言った。僕はよくわからない感情に苛まれた。恐怖のような好奇心のような。僕のアパートに今橋さんが忍び込んでるわけがないし、まさかこんな小さな体の今橋さんに超能力的なパワーが備わっているなんて信じることもできなかった。僕の焦りに気づいたのか、今橋さんは益々笑みを深め、僕の顔を覗き込んだ。
「あれ、もしかして当たっちゃった?」
今橋さんは余裕のある声でそう言った。
「ジュース、何が良い?」
僕はそう言いながら、すぐ近くの自動販売機まで歩いた。今橋さんは、何か嬉しそうに飛び跳ねながらついてきた。二百円を入れて彼女に選ばせると、彼女は迷わず百円の天然水を選んだ。
「ありがとう。もう百円は自分に使ってね。」
彼女はそう言うと、天然水を持ちながら手を振った。百五十円のジュースを選ばないところがとても彼女らしいと思った。僕が手を振ると、彼女は少し飛び跳ねながら僕から離れていった。紫色のワンピースを揺らして歩く彼女の姿を見ながら、僕は彼女がどのように僕の朝食を当てたのか聞きそびれたことを後悔した。なぜか勘であるとは思えなかった。遠く離れてもわかる彼女の姿はまるで、初夏のかわいらしくも気品のある香りとその鮮やかな紫が存在感を示すラベンダーのようだった。ラベンダーの花言葉は「沈黙」
僕は自販機に入ったままの百円で缶コーヒーを買った。それを手に持ったまま講義室に向かう。講義室に着き、席に座って缶コーヒーを開けた。そのコーヒーの香りを堪能するのを遮るようにポケットの中の携帯が揺れた。画面を見ると今橋さんからチャットが入っていた。
『ほっぺにイチゴジャムついてるよ♡』
すぐさま僕は両手でほっぺをこする。右のほっぺに乾いたイチゴジャムがついていた。僕は必死にこすってそぎ落とした。すごく恥ずかしかった。どうして言ってくれなかったんだ。超能力やらなにやらを疑った自分を蔑んだ。紫色のワンピースを揺らすいたずらな彼女が脳裏によぎる。彼女は「沈黙」をした。僕は勢いよくコーヒーを飲む。その冷たいブラックコーヒーの味は、なぜか少し甘い気がした。