鰐川1
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バチバチ、バチンッ。ジュウゥ。
「あ。」
突然の音に、隣のレジに立つ橘さんが声をあげた。そして、屈託のない真っ白な笑顔を僕に向ける。もうさっきの大きな音はどうでもよくなった。
「すごい音やな。」
「うん。」
僕と橘さんは雑誌コーナーの上の殺虫灯を見つめた。
青い光を発するそいつは、毎晩殺戮を繰り広げているくせに、毎日知らん顔で図々しく光っている。悔しいが、その海のように青い光が少し魅力的だった。
「そういえば、あれって誰が管理してるんやろ。」
「たしかに。誰だろう。」
ああ、やはりあの青い光は橘さんを誘惑した。彼女はずっと青い光を見つめている。
「多分、オーナーやろうなぁ。」
そう言って、笑顔で僕の方を向く。僕は一瞬たじろいで、言葉が出なかった。彼女はまるで一輪のマーガレットのようにかわいらしかった。花弁を一枚ずつ取るあの恋占いをしたくなる。マーガレットの花言葉は「真実の愛」。
バチッ、チチ。
また一匹、あいつの餌食になった。一瞬、その無神経な音に苛立ちを覚えたが、それもすぐ消えた。あいつは、一輪のマーガレットに忍び寄る害虫を殺したに違いない。おい、青いお前、お前とは仲良くなれそうだ。僕はそう心でつぶやいた。
「それにしても暇やな。」
橘さんは、両腰に手を当て、溜息をついた。いちいち仕草がかわいい。
華奢な手足と茶色のボブヘア―が尋常じゃないくらい似合う橘さんとは、一年前、このコンビニで出会った。初めて出会ったときは、今のようなボブヘア―ではなく、程よいロングヘア―だった。それも尋常じゃないくらい似合っていたと思う。
正直、最初のうちは仕事に慣れるのに精いっぱいで、橘さんの存在にそこまで惹きつけられることはなかった。だが今となっては、もう彼女の虜となってしまっている。つまり、ビビビッと電撃の走るものではなく、じわじわと温められた感情なのだ。
「わにちゃん、あともう少し。」
彼女は息を吐き、時計を指さしながら僕にそう言った。「わにちゃん」この響きがたまらなく好きだ。彼女の細くも少しやんちゃな声が僕の鼓膜を擽った。
「本当だ、頑張ろ。」
耳の裏と頬が熱い。頑張って残り少ない二人の時間を有意義に使おう。僕は心でそう言った。
結局あの後、急激な客の波に襲われ、僕と橘さんの時間はすべて奪われた。まあしかし、よくあることだった。大学付近のコンビニということもあり、夜十時前は、飲み会終わりの学生の集団や、これから桃源郷へ向かうであろうカップルなどが押し寄せるのである。まあこの類の者たちはひどいもんで、僕ら店員をセルフレジだとおもっているらしい。扱いが雑なんてもんじゃない。いや、僕らという表現は訂正する。なぜなら、男子大学生の集団や、カップルの片割れまでもが、橘さんを少し意識的な目で見る。僕はこれがたまらなく嫌いだったが、逆に少し嬉しくもあった。こんなかわいい子と時間を共にしていることを自慢できる気がするからだ。波が静まったのは夜十時十分だった。十分オーバーしていた。そんな状況でも、笑顔で伸びをする橘さんを見た僕は、胸がきゅうとなり、少しめまいがした。理由は言うまでもない。 もう少しオーバーしても良いのに。
スタッフルームに戻った僕と橘さんは、黙々と帰る準備を始めた。ドアの向こうから夜勤の松原さんと榎原さんの声が漏れてくる。僕はロッカーで荷物を整えている橘さんをチラ見しながら、ウーロン茶をがぶ飲みした。正直全く喉は乾いていなかった。
「疲れたね。」
帰る準備を終えた橘さんが、ウーロン茶を飲み干した僕のもとへ来た。右目の化粧が少し滲んでいた。
「うん。お疲れ様です。」
「おつかれ。」
彼女はニカッと笑ってお辞儀をした。また胸がきゅうとなった。
「ではでは。」
彼女はそういうと僕に手を振り、店を出た。もとからしんとしていたはずなのに、何倍も寂しくなった。夜勤の二人の声がやけに大きく聞こえてきた。重くなったお腹をいたわりながら僕は独りで帰る準備を始めた。途中、酸っぱくなったウーロン茶が逆流してきたが、食道の筋肉で何とか抑えた。僕はゆっくりと店を出た。
外からふと、あの青い光が見えた。相変わらず図々しく光っていた。外から見たら、殺戮の音も聞こえてこないし、マリンブルーのその光は美しかった。僕は手を振ってそいつと別れた。
僕の働くコンビニは、大通りに沿って建てられている。近くには大手チェーンの居酒屋が数件、道路を挟んで斜め前には某ライバルチェーンのコンビニが一件建てられている。バイトを選ぶ際、その向かいのコンビニとどっちにするか迷ったのを覚えている。特に決め手はなかったと思う。たまたま選んだ方に「天使」がいた。
正直、僕はその「天使」に恋をしている。これは今まで経験したことのないくらい熱いものだと誓うことができる。現に今こうして歩いている道が、「天使」が幼い頃から歩いていた道だと考えるだけで、少し高揚する。こんな経験今までなかった。それほど橘さんは魅力的な女性なのだ。
目の前の居酒屋から一組のカップルがちょうど出てきた。男の方は顔を真っ赤にして異常なほどニコニコしていた。女の方は藁のような色をした髪を揺らしながら、彼の腕に飛びついている。僕と橘さんだったらどんな風にあの扉を開けて出てくるだろう、僕は少し遠慮気味に妄想した。もう少しで妄想が完成するとき、男の方が勢いよく嘔吐した。その瞬間、女の方の悲鳴が、車通りの少なくなった大通りの暗闇にキンと響いた。僕は急いで目をそらした。何か縁起の悪いものを感じたからだ。
僕は急いで居酒屋を通り過ぎ、無心で歩き続けた。横断歩道を渡り、別の大通りを歩き始める。車通りどころか人気一つさえなかった。僕は静かな道路を歩きながら、激しい虚無感に襲われた。僕は橘さんのことをほとんど知らない。兄弟はいるのか、どんな人と友達なのか、彼氏はいるのか、もう経験はしたのか——。考えれば考えるほど、暗闇がその邪悪さを増していき、僕の体から心までも蝕もうとしてくるのを感じた。僕は考えるのをやめ、家まで必死に歩いた。その時、耳元で暗闇が囁いた。
「お前は橘さんのことを何にも知らない。」