臭いにおいは元から断たないとな!
俺がぽかんとしてジィ様の怒鳴り声に対応している間に、中井と野々宮さんは半笑いしながら、俺の戻せない腕の先に自分たちの手を滑らせて辿ったりしていた。
「おもしろーい。窓の先から透瀬の腕が消えてる」
「外から見ると、チョリの指だけが出てるし」
片腕を拘束されて逃げられないのをいいことに、何度も腕の表面に手を這わせて謎の現象を確認するバカップルに、俺の我慢もだんだんと続かなくなってくる。
「……あのな! お前らもいいアイデアを出せ!」
「アイデアっつってもなぁ。てか、なにが根本的原因なんだ?」
珍しくアルコールなしでこの場にいる中井に向かって八つ当たり気味に喚いたが、その当人は涼しい顔で摺りガラスのような空間に嵌った俺の腕を観察している。
「あーのーなっ! 作ってもらったサブレがウーナの葉のせいで臭いの! さっきジィ様が怒鳴って――あれ? もしかしてジィ様の声すら聞こえてないのか?」
自分に聞こえる声が中井たちには聞こえないかもしれないってことを無意識に忘れていた俺は、二人を交互に見やった。
「なーんにも?」
「ああ。まったく聞こえん。お前がひとりで怒鳴ってるだけだ」
……またかよー。まぁ、確かに考えてみれば当然なんだけどな。でもさ、レイモンドたちと会えるようになったんだから、ジィ様の声も聞こえているもんだと思っちゃってもしかたないと思うぞ?
「くーっ! もう、ジィ様のことは一旦こっちに置いておいて! 問題は、キッチンカーの神様も拒絶する菓子を、どうやってこっちに持ち込むか、だ」
俺の説明に、遊んでいた野々宮さんがぴたりと動きを止めた。そして、目を細めて俺の顔をまじまじと見る。
なんだか、彼氏と似て来てますよ? その殺気に満ちた細目とか。
「あのさー、フィヴちゃんが作ってくれたサブレってのが原因だと。で、そのサブレは、変な葉っぱを入れたせいで臭い、と?」
「そそ。それで――」
「キッチンカーの神様すら断固拒否するような悪臭がする物を、このあたしに食べさせようと透瀬は頑張っているわけだ」
あれ? なぜか野々宮さんの機嫌が急降下したぞ? ついさっきまで俺の腕を楽しそうに玩具にしてたくせに。
妙に剣呑な口調と気配にたじろぎながら、脇に立つ中井に目線で助けを求めてみた。
エマージェンシーシグナルが脳内で点滅してるが、腕が異世界の拘束されたままじゃ逃げられない。
「了……。お前さ、今、自分がすげー危機を目前にしてるって気づいてるよな?」
「なんか、アブねーってのはわかる。でもだ、なんで、野々宮さんがバーサクしかけてんのか理解できん」
だってさ、これもそれももみーんな野々宮さんの夢と希望を叶えるためなんだぞ?
まぁ、ウーナに関しては予想外の状況になったけどさ。
俺の危機感の薄さにあきれてか、中井ががっくりと肩を落とした。
「舌が敏感なチョリが、神様すら嫌がってるような臭い物を食うと思うか?」
「でもさ、それを食えばフィヴと対面できる――」
「それ、確実なのか?」
「や、それは確約できないけどー」
俺が返事をした瞬間、店舗内の温度が急激に下がったような気がした。
気だけ。うん、本当に下がったわけじゃないけど、首筋が粟立って背筋に怖気が突っ走った。そんで、その怖気すら裸足で逃亡して行った。
「確実性のない危険な物質を、このあたしに食え! とぉ?」
「や! や、や、あのね! 食いたくねぇなら拒否してくれて結構っす! 俺もこんな妙な物ができあがると思わなかったんで。ただ……フィヴがね、焼き釜まで汚して作っちゃったモンを、そー簡単に捨てるのは……」
豊満な胸の下で腕を組んで仁王立ち、俺を睨み据えてる野々宮さんに上目遣いで訴えてみた。
『拒否OK』と『フィヴ』をキーワードにしたのは、さすがにあざといとは思う。でも、この前門の虎・後門の狼ならぬ前門の女帝・後門のウーナスメルサブレじゃ打つ手も僅かだったんだ。
「ふ~ん。フィヴちゃんにまで迷惑かけたんだぁ……」
「あ、了……地雷を」
ぎゃーっ! せっかくあざとく攻めたのに、地雷を踏んじまった!
「しかたねぇだろ! 野々宮さんとフィヴを会わせたかったんだから!」
子供みたいに思わず半泣きで喚いた。
ヤケクソだったのは否めない。腕もそろそろ力尽きそうだったし、話しがこれっぽっちも進まない状況に腹立たしかったのもある。
食うにしろ始末するにしろ、とにかく籠の中身と俺の腕をどうにかせにゃならんのだ!
「……はぁ……。まぁ、ここは一時棚上げってことで。でも、どうするー? あっちの世界に透瀬しか干渉できないんじゃ、あたしが顔を出して食べてみるってのも無理だしー」
鬼の形相と腕組みを解いた野々宮さんが、中井に向けて提案を求めた。
難しい顔で何事か考えていた中井が、俺を見下ろしながら呟く。
「悪臭のせいでこっちに入れられないってんなら、密閉用パックに入れれば?」
「どこで入れるんだよっ。パックをあっちに出しても別の物に変化するんだぞ?」
「しかし、こっちに引き込めばパックに戻るんだろ?」
それは光明だった。
そこからの行動は素早かった。動けない俺の代わりにバカップルが母屋に走り、用心に用心を重ねるってことで大き目のビニール袋と共に密閉用のパック(大)を手に戻ってきた。
俺はそれを受け取ると、すぐに向こうの世界に顔を出した。
フィヴは心配そうな表情で俺の腕と籠を見ていたが、それなりの距離を取っていた。
こーなると、薄情者とはいえないな。
握っていた籠の取っ手を腕にかけ、プルプル震え出していた手でパックだった紙袋の口を開いてもう一方の手でサブレを慎重に移し替える。
時間を置いて嗅ぐ匂いは強烈で、ぎりぎりまで呼吸を止めながらの作業は筆舌しがたい苦難だった。
「フィヴ―……すまん。籠はそっちで始末してくれ。頼む!」
「う、うん……。それは引き受ける。でも、無理しないでね? 作った私が言うのもなんだけど、お菓子とは思えないし。どうしても駄目なら、捨てていいからね?」
「そー言ってくれるのは助かる」
制作者の許可をもらってほっとする。でも、捨てるのは最後の手段だ。
あとは、ジィ様の拒絶が解除されるかどーかと、臭い漏れがないかだ。
紙袋の口を丁寧に折り畳み、空になった籠をそっと草の生える地面に落とした。元凶がなくなった籠は、このまま少しの間ほっとけば匂いも薄れるだろう。
さて、腹を括って勝負にでるとしますか。
「来いやーっ!!」
俺は奇声をあげて、いっきに袋ごと腕を引き戻したのだった。




