明け方に見る悪夢は
何かがそっと俺の頬を撫でた。柔らかく暖かい温もりは、覚えがあるようで無いような…。
あ、と思った途端に意識が浮上し、またじりじりと沈んで行くのに、こりゃー体調不良かなぁと他人事みたいに思う。頭も重いが瞼も重い。体に指令を送っているが、指先すら動かせずに意識がどっぷりと昏い泥の中へと戻って行く。それを阻止するために無理やり目を開いて、カーテンの隙間から差し込む陽の光が眩しすぎて眩暈を覚えた。
休店日で良かった…。それが先に頭を巡った。
時間をかけて体を起こして這いずる様に階下へ移動し、居間の隅に置いた救急箱から体温計を出して計ってみたら、なんと吃驚の38・9℃の高熱だった。
エアコンや扇風機は付けてないから、これは過労が原因の発熱だなと当たりをつけて、スマホに手を伸ばした。
親に連絡をするか、友人に助けを求めるか。彷徨う指先を霞むアドレス帳に固定した。
『どうしたの?』
母の声がスマホから流れて来たが、すぐに反応できずにごろりと畳の上に転がった。う~全身が熱いのに背筋と首筋辺りが何故か寒くて、鈍い頭痛がズクズクと続いていて、怠くて力が入らなくて…。
「過労で発熱中。救援願う…」
『ええ~?忙しいのに…』
「一人息子の命がかかってるんだぞー」
『…熱は何度あるの?―――あ、あのね、敦ちゃんが行ってくれるって。だから、保険証とお金を用意して待ってなさい』
母の明るい口調が耳から脳にゆっくりと伝達された瞬間、発熱から来る悪寒以外の寒気が背中を駆け下り、俺を凍らせた。
「な、んで敦ちゃんが…」
『学会に行って来たからってお土産を届けてくれたのよ~。なんでもワシントン?に行ってたんだって』
ゴリラがワシントン…動物園の巡回興行か!?脳裏を檻に入ったゴリラが、巨大トラックにけん引されながら巨大動物園へ輸送される妄想が流れていた。
檻の中で、毛深い胸をドラミングする敦が何度もリピートされ、沿道の人々が恐怖に顔を引きつらせている。
「ゴリ、ラが…来る」
『言っておくわね。じゃ、寝ながら待ってなさい』
言っておくって!何を!?と我に返って聞き返した時には、すでに通話は切れていた。
どうかオカンが俺の戯言を黙ってますようにと祈りながら、救急箱に手を突っ込んで冷却シートを額に貼りつけた所で虚脱状態で転がっているしかできなくなった。
ゴリラこと従兄の透瀬 敦は、俺とは違って優秀な頭脳と冷静な判断力を駆使して外科医になった、親戚一同自慢の野郎だ。今年三十の大台に乗ったのに、いまだ嫁を貰っていないのは、ステータスよりも外見に問題があるからだろう。
ゴリラ!そうゴリラなんだ!身の丈190を越し、全身を筋肉の鎧で包み、強面なのに毛深さが負の方向に威力を発揮した結果、天パの髪ともみあげ面の毛深い世紀末覇者が爆誕した。いや…生まれた時から毛深かった訳じゃないけど。
笑えるのが、一度としてスポーツや身体を鍛えたことなんて無いって点だ。なんで、そんな体になるんだ!叔父さんも叔母さんも中肉中背だぞ!従妹の佳奈ちゃんは、それこそ小柄で華奢な小動物だ。
突然変異のゴリラが我が家に―――襲来!!!!
玄関チャイムの音がしたと思ったら、俺の応対を待たずに巨体が居間へと現れた。鴨居に隠れて顔半分上が見えず、夏だからTシャツにジーンズ姿が様になっているが、熱に浮かされた俺の目にはゴリラが服を着ているとしか認識できなかった。
「迎えに来たぞ。熱は?」
「…8・9…」
「水分補給は…してないな?家の鍵は」
質問を次々と繰り出しながら、のっしのっしと巨体ゴリラが家の中を歩き回って必要な物を的確に探し出し、ダメダメな俺に与えて行く。
もっさり毛が密集した逞しい腕に背中を抱かれて起こされ、わざわざコップに移し替えたスポーツドリンクを口元に添えられて飲みながら、震える腕を上げて固定電話横のボードを指さし、玄関キーを示した。どうもそこで力尽きたらしく、意識を失った。
熱が高いと悪寒と共に身体の節々が痛くなり、何の気なしに寝返りを打った弾みで起こった頭痛と激痛に一気に覚醒した。
歯を食いしばって痛みが去るまで耐えたが、また少しの動きで痛みが走る。そして、そこが自宅じゃなくてぼんやりと記憶にある従兄が勤めている医院の処置室だと気づいた。
意識が朦朧としていて良かったぁ。絶対にヤツは俺を俵運びにして連れて来たはずだ。ゴリラに拉致される俺を、近所の住人に見られたかもしれないが、それをリアルタイムで知ることがなくて良かった。
「目が覚めたかー?」
白衣を引っかけた敦が、高い位置から俺を覗きこんで来た。その横に点滴の袋がぶら下がっていて、そこから伸びたチューブが俺の左手首に刺さっていた。
「関節が、痛ぇ」
「解熱剤を入れてるから、もう少ししたら楽になる。お前な、脱水症状を起こしてたぞ?食い物屋やってんだから、こまめに水分を取れよー。後、睡眠不足と過労な」
鋭い医師の目が、俺の不健康の原因を見事に暴いて行く。
あー、確かに水分不足だったな。中井たちは何かしらを飲んでいたが、俺は清掃したての仕事場に水分を持ち込むのを無意識に嫌っていて、何も飲まずに中井たちに付き合っていた。昨夜は蒸し暑かったのに、母屋へ戻ってからも何か口にした覚えがない。シャワーを浴びて、すぐにベッドへ転がったなぁ。そこに、毎晩の夜更かしだ。
「ごめん。あり、が、と…」
じくじくと痛む関節痛に頬を顰めながらも、敦のもみあげ強面を見上げて感謝を告げた。
俺が珍しく素直に礼を言うもんだから一重の三白眼が見開かれ、幼い子供相手のように頭をひと撫でして行った。
そこからまたもや意識が途切れた。今度は点滴の中に入っていた何らかの薬剤に眠りの中へと誘われたらしい。ばっと目が覚めた時、俺は昨日の出来事が夢じゃなかったのか!?と疑いたくなる状況にあった。
ちゃんと自宅の自室にあるベッドに、なんと着慣れないパジャマ(通常はTシャツにトランクス)を着て寝ていたのだ!
え?え?と室内を見回し、ベッドサイドの小机の上に置かれた、温くなった清涼飲料のペットボトルを見つけて、敦に担がれて勤め先に拉致されたのは現実だったと認識した。
それと一緒に、涙目で礼を言った己を思い出して悶絶した。
え?あんなに親切な従兄に、ゴリラなんて悪口をって?
…あれは、対病人仕様の親切な医師の顔なんだって。俺が元気だったなら、再会一番にゴリラに襲われている!「何か美味い物を作れ!」との命令を発してな!抵抗すると、もれなく巨体による羽交い絞めと耳元で囁く、子供の頃の恥ずかしいあれこれを暴露するぞ~っつー脅迫が付いて来る。
その…あれこれは、いずれまた!
改稿・加筆 3/27




