菌とは何か?異世界事情は難しい
中井の上から顔を出して、ジョアンさんに挨拶をした。彼は挨拶代わりに手を上げてニッと笑顔を向けると、また中井とパン…いや、天然酵母談義を続けた。
専学時代に俺もパン作りの実習に参加したが、その時は売っているイースト菌をそのまま使ったから、天然酵母作りってのは未知の物だ。
それを、異世界でどうやって作るか。浄水や熱湯消毒を詳しく説明し、ジョアンさんたちにはマジで未知な『菌』って物を理解してもらわなくてはならない。どうも、まずはそこから始めないと拙いらしい。
確かにな。腐食菌類と酵母を一緒にされたら大事故発生だ。なにしろ目に見えない物質を、これは駄目な菌で、こっちは使える菌なんて分けないとならないんだ。そこで、熱湯消毒と密閉容器が重要になる。
俺たちの世界では、すぐに入手できる密閉容器は、レイモンドたちの世界では入手が難しい。商人なんだから作っちゃえば?となるが、ガラス容器自体が高価なんだって。それに密閉効果のある何がしかの技術を駆使せねばならないとなると、職人に依頼すること自体が大変困難だろうと。
「レイ、君らの使う【洗浄】っつー魔法って、洗うだけの効果しかないの?」
「汚れも落ちるが?」
「目に見えない菌も?」
「……それは…分からんな」
せっかく椅子が用意されているのにジョアンさんの後ろに立って二人の話を聞いているレイモンドに、俺は小声で話しかけてみた。
俺の世界には無い魔法。それは雑菌を駆逐し、密閉をすることができないのか?
「全てを熱湯で消毒かぁ…」
腕を組んで背凭れに寄りかかったジョアンさんが、中井の指摘に唸った。
「とにかく他の菌が入ってしまうと失敗ですよ。瓶を開けて匂いを嗅げばすぐに分かります」
「嫌な臭い…か?」
「ええ。完成は入れた果実の香りがふんわりとしますが、失敗は腐臭がします」
どうも中井が渡したルーズリーフを基にすでに作り出しているらしいが、やはり雑菌と密閉に難がある様子だった。
「今、母が三つの瓶で作っているが、大変な作業らしくてな…?」
「はい。完成には七日ほどかかりますし、その間に蓋を開け閉めすることはできません。開けて使うのは完成してからです」
気が付けば俺も黙って中井の講義を聞いていた。だって、ちょっと聞いただけでも大変そうなのに、向こうには俺たちみたいな便利な物は無いんだからなぁ。
でも、天然酵母って昔の人が作り出した物だったりするんだから、異世界だって創意工夫でどうにかなるだろう。
「レイ…頑張れ…」
机を回って窓の側に来ていたレイモンドの肩をポンと軽く叩いて励まし、一枚の素朴なクッキーを渡した。
「フィヴの処女作。頑張ってるぞー」
「ええ!? フィヴが作った?」
「おう! 無い材料の代用を探して、ちゃんと自分の世界らしいクッキーを作ってきた」
手にした歪でぼこぼこしたクッキーをじっと見つめ、おもむろに食った。
「…凄い。ちゃんとクッキーになっている…負けてられんっ」
感心と悔しさ混じりの感想が、レイモンドの口から零れ落ちた。
「怖いぐらいの熱意だぞ。後ろに女帝チョリ姉さんが講師として付いてるからな」
「だーれーがっ、女帝か!!」
俺の尻に鋭い蹴りが入りました。きっと足跡がついてます。
「そして、今日の差し入れですが、友人二人からです」
中井の背中に腕を回してカウンターの上に置かれた袋の中から、レイモンドの好物第二弾を引っ張り出した。
グローブの形をしたクリームパン。それをレイモンドの前に出し、ニヤニヤと冷やかし笑いを浮かべてみた。
「クリームパン…」
手にする前にすでに口が近づいてきて、パクっと咥えて食べ出した行儀の悪い貴族の四男。それに気づいたジョアンさんが目を輝かせて俺に催促する。
仕方ないといった口調で、中井が袋ごと窓の向こうに差し出した。
ナカイベーカリーの印刷が消えて、やはり劣化した紙袋に変化した。でも、形はそのままなんで、そのうちに紙袋もこんな形式になるんじゃなかろうか。
「これは、腸詰が挟まって!!」
ホットドッグにかぶり付いたジョアンさんの目が、一層輝きを増した。
そこからは試食会が始まってしまい、「旨い!」「美味しい!」の連発で終始してしまった。
これでパンに夢と希望を持って、渋い顔をしていたジョアンさんの酵母作りにも熱が入るだろう。
「みっしりしてるなー…これ」
中井の口には、異世界の黒パンが一切れ。彼が望んでいた異世界パンだ。保存食に位置するパンだから、十日以上保存できるような固いパンになるんだそうだ。
噛みしめるとライ麦の風味が爆発して旨い。が、いかんせん顎が痛くなりそうな固さなんだよなぁ。俺なら、薄く切ってスープに浸しながら食うしかない。フランスパンやバケットですら固ぇ…と思ってしまう俺の軟弱な顎。
パン談義がパンの交換会になり、夜は更けていった。
明日からの数日は、どちらの異世界も試作で大忙しらしく、また来週とジョアンさんと約束をして窓を閉めた。
中井たちも、そんなに毎晩外出していられないだろうし、なんたって野々宮さんは嫁入り前の一人娘だ。
「さっさと結婚しろよっ」
「一人前になったらって話だから、まだ先だな」
眠気と疲れで無表情になった中井が、ジョアンさんから貰った黒パンを土産に持って、野々宮さんにしばかれながら帰っていった。
こちらの世界に材料が存在するから持ち出せたらしく、わざわざパンを一切れ出してキッチンカーを降りた中井は面白かった。手に残った黒パンに、緊張していた肩がゆっくりと下り、大事そうに袋に仕舞っている姿が、ヤツらしくなくてカワイイ。
それを見ていた野々宮さんが、また大笑いしていたのには参ったが。
「ジィ様、着々と交流が進んで、俺はなんだかワクワクしてるよ」
―――繋げ甲斐があったのぉ―――
「だから…ジィ様も当分は元気でいてくれよ?」
―――ふぉふぉふぉ―――




