戻って来た日常
気が抜けた。
それが一番、今の俺に合っている言葉だ。
レイモンドが戻り、フィヴが帰り、そして俺には日常が戻ってきた。
朝起きて、朝食が済んだら午前営業の用意。下拵えまで進めた材料と完成した料理の入った鍋を、キッチンカー内の各所へ積み込む。それから、備品の確認と仕入れ品の確認。家の戸締りをしたら出発だ。業者を回ってから第一拠点へ。
焦げ茶のビルが見えてきたら。幹線道を外れて裏の門から敷地へ入って、ビル側面のデッドスペースになってる場所へキッチンカーを滑り込ませた。
後部から発電機を引き出して、次々と電源プラグを差し込んでいく。看板を出して営業窓の近くに立てかけ、本日のお勧めとメニューを貼る。それから店舗へ戻って、窓を開けてミニカウンターを引っかけ、棚から備品をカウンター上に並べる。
割りばしやプラのカトラリー。小分けタイプのケチャップやマヨネーズの入った籠。弁当用とデリ用のプラ容器を準備し、コンロに各種鍋をのせてスイッチオン。
小さな黒板に委託販売のメニューを手描き。それを窓ガラスの外へ貼り付け、営業中の札を出す。
予約注文書を見ながら弁当容器を並べて、料理を開始。
「いらっしゃいませー!」
◇◆◇
洋菓子『楓』へ入って、ショーケースに商品出しをしていた野々宮さんに、ガラス越しに手を振る。最後のショートケーキをケースに入れた彼女は、きちんとトングやトレイを奥へしまいに行ってから戻ってきた。
そして、俺を見るなり、
「ねぇ、なんかさ、気ぃ抜けてない?暑気疲れ?」
と、片眉を上げて指摘した。
「ちょっとここ数日忙しかったからさ、それが終わったらがっくり…」
「おいおい、車の運転や油を使ったりしてんだからさ、気をつけなよ?」
「そんなにあからさまか!?」
思わず顔を撫でて眉間を寄せ、口ぶりとは違って真剣な野々宮さんを見やった。
「うん…ちょっとね」
変に歯切れが悪い返事に首を傾げるが、結局それ以上の答えは返ってくることはなく、籠に詰められた商品やら伝票やらを渡されて、うやむやのまま家へ戻った。
車庫にキッチンカーを停め、家へ入る。
ああ、すげー静かだな。と、柱時計のカチコチ以外の音がしない部屋。
わいわいがやがやと友人たちと騒いだ後の、あの空っぽになった空間を眺めた時の寂しさかな。
ばーちゃんが居なくなって一人生活が始まって、でもバイトや学校があって友人が側に居て。ふっと気を抜いた瞬間、落とし穴に落ちたみたいに不安定な自分を発見する。
「なーんかなー、この数日がマジで濃すぎたんだよなぁ…」
命がけの日々を過ごしていた友人を救出し、ちょっと馬鹿をやりながらもドキドキハラハラな隠密生活を続け、驚きの結末を迎えて帰還していった。
これって、ちょっとした映画のあらすじみたいじゃね? 主人公は男女二人で、俺はその二人を陰ながら助けるサブキャラでさ、あわや!ってとこで「助けにきたぜー!」とか軽く言って手助けして、「じゃ、また何かあったら声をかけろよ!」とさらっと告げてフェードアウトするんだ。
「あー、俺ってそんな感じだ」
TVをつけて画面に目をやっても、意識はどこかへ飛んでいる。
今頃その主人公たちは、きっと走っているに違いない。
その夜、久しぶりの鳴った呼び鈴に急かされ、俺はソーメンを食っていた手を止めて玄関へ出た。
玄関戸のガラスの向こうに、外灯に照らされて中井と野々宮さんがいた。
「よっ、夏バテ解消部隊からやってきました野々宮と―――ほらっ!」
「…中井でーす」
「いらっしゃーい。つか、いきなりどうした?」
勝手知ったるで上がってきた二人は、居間の卓袱台に手にしていた荷物をどっさり置くと座り込んだ。
なぜか、台所へ行った野々宮さんがガラスの器と箸二膳を持ってくると、二人で俺のソーメンを食べ出す。…まぁ、いつものことだから見逃すが、頼むから俺の分も残しとけ。
「お前が変だってチョリがLINEしてきてさ。だから、暑気見舞いに」
チョリってのは、野々宮さんの名前『野々宮千代里』から来ている呼び名だ。俺は専門時代から野々宮さんと呼んでいたが、俺らより年上の人達はチョリと呼んでいた。
「見舞われるほどのことは無いんだが…その見舞われてる俺が空腹を我慢しながら作ったソーメンを、君らはなんで自分の口へ運んでいるのかな?」
「だって、お腹空いてるんだもん」
「俺も」
「俺だって腹へってんの!」
「では、これを食い給え!」
スーパーのビニール袋から出てきた物は、一尾三千円近くする鰻のかば焼きパックだった。それを手に、俺は目を眇めて二人を交互に見据えた。
「ソーメンを食っていた俺の家に、飯が残っていないと理解しておきながら鰻を出し、俺のソーメンを全て食った君たちの友情に、俺はどんな仕返しをしたらいいんだろーか」
すでにソーメン二束が乗っていた笊の上は、小さくなった氷の欠片しか残されていなかった。
「仕返しかい!」
「ったりまえだろ!飯が無いってのに、こんな目の毒を出されて恨むわ!」
「ビールとさ―――」
「酒を飲まん俺に対するこの仕打ち…ひでぇ友情だ…」
と、いつもの流れで二人に揶揄われたところで、彼らは別の袋から別の物を引き出した。
「オカン特製海鮮ちらし」
どおりでデカい袋を持ってきたなと思っていたら、そこから現れたのは、すし桶一杯の海鮮と錦糸卵が散らされたちらし寿司だった。
「おお…」
待ったなしでソーメンを食っていた箸をそのまま桶に突っ込み、一口頬張った。それが俺の空腹を大いに刺激した。皿を持ってくることも頭から消え、とにかく口へと箸を運んだ。
「うめぇー!」
気づけば野々宮さんが麦茶を用意してくれていて、それを一気に飲み干した直後、俺は久しぶりの他人の手作り料理に喜びの声を上げた。
二人は微笑みながら俺の食いっぷりを眺め、ちびちびと皿に盛ったちらしを食べていた。
「元気、でたか?オカンがな、今日会った時に顔色が悪かったのが気になったって、了んとこ持ってけっつーて作ったんだ」
珍しい中井の微笑み。それを見て俺は目を丸くして野々宮さんを見た。
「中井にLINEしたらさ、丁度これを透瀬ン家へ届ける予定だって返ってきたんだよ。で、あの鰻はうちの父さんからの差し入れ」
「…ありがとな」
俺を気にしながら作ってくれた美味い物は、俺の胸に空いた小さな穴をぎゅうぎゅうと塞いでくれた。




