母の愛 息子たちへ贈る想い
倉庫の中はルクセーヌさんが現れた時にはすでに片付けられていて、窓の側に設置されていた机も椅子も新しい物に置き換えられていた。
椅子のひとつにお母さんには座ってもらい、すこしでも落ち着いて話ができるようにとこっちの飲み物を勧めた。
湯気の立つ白い陶器のマグカップを窓の向こうにそっと差し出す。
雑貨屋に売っているありふれたカップだったが、真っ白なカップが窓を通るとくすんだ石灰色のカップに変化した。よく見ると形もわずかに歪んでいる。
へぇ。
レイモンドやジョアンさんがお茶を傍らに置いていた時に見たのは、それなりに整った陶磁器のティカップだった。倉庫に持ち込んで使うような物でもデザインされたシックなカップだっただけに、さすが貴族と思ったもんだ。
でも、俺が差し出したカップは手びねりで作ったような味のある無骨な品に変わった。それは、形や材料よりも価値が重要視されたのか?
息子さんたちには内緒っすよ? と俺は適度に明るく装って湯気の向こうに笑いかけた。
貴婦人には武骨で面白みのないカップだろう。すらりと背が高くて大人の女性って感じのルクセーヌの細い手指には不似合いに見える。
でも、彼女は拒否することなくカップを手にしてくれた。淡い微笑みを浮かべながら両手でしっかりとカップを包み、そっと息を吹きかけながら口をつけてくれた。
中身は、紅茶じゃなくチャイだ。シナモンやカルダモンを加えたアッサム・ミルクティだな。
「口に合わないようなら別のお茶も用意してますから」
「あら、美味しいわ……。これは、ハーブかしら?」
「広義的にはハーブになりますが、香辛料の一種です。そちらにはミルクティってありますよね?」
フィナンシェみたいな焼き菓子があるんだから、牛乳ないしミルクに相当する物は存在してるだろう。それをお茶に入れるか、あるいはミルクで淹れることくらいやってるだろうと思った。
が。
「お茶に……果物のコンフィやレティという柑橘を入れることはありますけれど、ミルクは聞きませんわ」
その一言に、俺はめちゃくちゃ興味を引かれた。
翻訳スキルが『レモン』じゃなく『レティ』と伝えた柑橘類があるってことに。
一杯のチャイを飲み終わるまで、俺とルクセーヌさんは楽しく食材談義を交わした。レイモンドがこっちの世界にいる時、たしか話題にしたことがあったが、いかんせん若い野郎の食材に関する知識なんて見た目と名前くらいなもんだった。
貴族の夫人ともなれば台所に近づくことなんてないと聞いていたが、ルクセーヌさんは『下級貴族なんてちょっとお金持ちの平民と変わらない』のだそうで、召使いや料理番と一緒に女主人が厨房に入る家もあるんだそうだ。
だから、彼女は天然酵母作成に熱心だったわけだ。
こんな感じの野菜はある? 果物は? と互いに尋ね合う内に、自然と料理のレシピに話題は流れた。彼女が知らない香辛料や調味料は、すこしだけ皿に載せて味見をさせてやった。味や香りを覚えてもらい、いつか見つけてもらいたい。
食欲をそそられてレシピが欲しいという料理にはメモを渡し、さまざまな材料の使い処を教えた。さすがは、食いしん坊兄弟の母親だって感心するほどの食いつきだった。
ふと、顔を見あわせ我に返る。
「あら、やだわ。うふふ。私ったら今日は謝罪に参りましたのに」
「やー。レイモンド君たちが無事だったんなら、暗い雰囲気より明るく楽しい話題で話すほうが嬉しいです。それに、初めてお会いできたんですしー」
「本当に……レイモンドから聞いていたとおりの方ね。改めて、息子がお世話になりました。この出会いを授けてくださった神と、あなたに感謝しますわ。これからもレイモンドと仲良くしてくださいませ」
「はい。……いつまでこの窓がそちらに繋がっていられるか判らないですが……それまでは俺も」
すこし気恥ずかしい気分に照れながら返すと、ルクセーヌさんはしっとりと微笑んだ。
まさに慈愛の聖母だ。
聖母ルクセーヌさんは最後にと真剣な表情に戻ると、緑の瞳で俺をしっかり見据えた。
「白パンの酵母は、まだわずかしか成功しておりません。でも、今はこれで良いと思ってます。大事に育ててまずは我が家の食卓を豊かにして、それから世に広めていこうかと……」
「俺もそのほうがいいと思います。レイモンドは使命感に、ジョアンさんは商売熱に。どっちがあっても困りませんが、焦ればいいってもんじゃありませんから」
「そうですわよねぇ。肝に銘じて、酵母と一緒にあの子たちの再教育もビシビシやりますわ!」
「あ、あの……」
細腕を振り上げて宣言する聖母様に、俺は圧倒された。母強し!
その夜の密会は、ただ心地イイ異世界親交で終わった。
ちょっと後味の悪い話もあったが、それでもオルウェン兄弟の無事を聞けて、重かった心もいくぶんか軽くなった。とりあえず、グループLINEで速報を送っておく。
営業準備をして風呂に入り、寝床に這いこみながら次はレイモンドに会えたらいいなと頭の隅で考えつつ眠りにおちた。
残暑も終わり、すでに秋の気配を身近に感じるようになると、いろいろと煩雑な仕事が増える。
メニューの一新やそれに伴うチラシ作り。食材の整理や業者との打ち合わせなど。
食欲の秋っつーくらいだ。野菜も果物もぐーんと増え、涼しくなるにつれて温かい料理がメインになる。備え付けの業務用冷蔵庫を満タンにしてた冷たい飲み物や冷製デザートが減り、代わりに汁物やスープといったホット系が増える。
つまりは、鍋が増えるわけ。
「暖かい社内で冷たいアイス推し」
「そりゃ、こたつでだろ」
「え? こたつはミカンだよーぅ」
「……」
好き勝手を言い合うバカップルの前には、早出の梨が皮をむかれて置いてある。それらは奴らの口の中に消え去っているが、代わりに栗の皮むきを手伝わせている。
その脇で、俺は多種類のきのこと格闘していた。
エリンギ・しいたけ・まいたけ・ぶなしめじ・マッシュルーム。それぞれを微塵切りにして(チョッパーを使ってるが)、これからオリーブオイルとニンニクで炒めるのだ。
さあ! 初秋の味覚祭りの始まりだ!
第一弾は、きのこのスープに栗と銀杏の炊き込み飯だ。
ご意見ご感想、いつもありがとうございます。
指摘がありましたので、少々描写を加筆修正しました。
ストーリーに変更はありませんので、ご了承ください。