牢の少女が見上げるのは夏の青空
カビのにおい、淀み、身体に纏わりつく湿った空気。
囚人達の話し声、看守の怒鳴り声が遠くに聴こえる。
私は艶の無くなった髪に触れて、日課を繰り返す。
抜けるような真夏の濃い青空、空の端には雲が湧き、汗がとめどなく流れる。
空気は熱されていて、時折生ぬるい風が気まぐれに素肌を撫ぜる。
気怠くも思える空気を切り裂くように、きゃらきゃらと高く上がる声は、あの頃の私と彼のもの。
私は被っていた麦わら帽子を脱いで、パタパタと顔を扇ぐ。
幼児特有の柔らかな癖のある髪は、とうに汗で顔や首筋に張り付き、とても鬱陶しい。
侍女が帽子を被るようにと苦言を呈しながらも、ひんやりとした布で顔や首を拭ってくれると、暑さを増長させるだけだった風がすぅっと冷えて、とても心地良かった。
彼は笑うと、きつめの目尻がきゅっと下がって、私はその顔がとても好きだった。
ひまわり畑でかくれんぼをするのが、あの頃の私達の鉄板の遊びで、私は隠れるのも探すのも下手なのに、彼はまるで消えたように隠れるのが上手だった。
今思えば、彼は私を探す時、手加減をしてくれていたのだろう。
じっとりと汗を掻きながら、いつ見つかるかと呼吸を浅くしていた私を、彼はそれなりに時間をかけてから見つける。
逆に、彼を探す時はいつも最後まで見つけられなくて、彼が本当に消えてしまったような錯覚に陥った私は、終いには大声で泣いてしまって……慌てて出てきた彼が私をあやすのが嬉しくて。
夕方になると雨がざあざあ降ってきて、東屋で私と彼と侍女と、3人で雨宿りをした。
雨はすぐに止むと分かっていたから、急激に冷える身体を震わせながら、雨が止むのを大人しく待った。
雨が止むと、むわりと湿った土のにおいが広がって、彼はそのにおいが好きだと言った。
私はまた遊ぼうと彼の腕を引っ張るのだけど、いつの間にか、暑苦しく鳴き叫んでいた虫の声が物悲しいものに変わっていて、空の色が淡く、茜色から薄紫色に染まっていて、結局彼に手を引かれて家に帰るのだ。
ああ――幸せ、だったなぁ。
決して忘れない、忘れられない宝物のような思い出。
私の独房だけ、他から離されているので、どこか喧騒が遠かったのだけど。かつん、かつんと明確な足音が聴こえて、私はいつの間にか閉じていた瞼を持ち上げた。
「おい」
忌々しげにかけられた声は、もう声変わりしていて、あの頃とは全く違っていたけれど。
「瞳は、同じね」
「……何を言っている?」
怪訝そうに顔を歪める彼の顔には、昔のような無邪気さはどこにも無かったが、確かに面影はある。
私は、彼の隣で彼と同じように顔を歪めている美しい少女を見遣る。
「何の御用かしら」
「……最後に、謝ってもらおうと思って。貴女はわたしには決して謝らなかったから」
言ってやったと言わんばかりの表情に、私は思わず笑みを漏らす。
「……何よ?」
「いいえ。明日死ぬ哀れな女に追い討ちをかけるなんて、酷いのね」
「よくもぬけぬけと……!当然の罰だろう!」
彼女の為に激昂する彼を見ても、不思議と、今までのように苦しくなったり、彼女が憎くなったりはしなかった。
心は凪いでいる。
けれど、ああ、けれど……もう一度、一度でいいから彼の微笑みが見たかった。
もう無理なのだろうけど。
「ねえ、今日の空は……何色だった?」
私の問いには誰も答えず、彼女は私の気が触れたと思ったのか不気味そうに、彼は何かに驚いたようにしていたが、やがて去って行った。
――この独房に入れられた最初は泣いた。次に癇癪を起こした。……やがて、そんな気力は失せた。
最初は、私というものがありながら彼女にうつつを抜かした彼を恨んでいた。
しかし、時間だけはたっぷりあるこの薄暗くジメジメした牢の中で、私は思い出してしまった。
あの鮮やかな思い出を。美しい思い出を。
結局のところ、彼に嫌われたくない一心で、最も彼に嫌われるような事をしてしまっていたと気づけた時には、遅すぎたのだ。何もかも。
翌日、よく晴れた抜けるような青空の日に、罪人が処刑された。
醜くも嫉妬で聖女を虐め抜いた女だという話だった。
事情を知らぬ者達が当然の報いだと囁く中で、涙を零す、貴族らしき少女達。
「何故……っ、何故あの方がこんな……!」
「おいたわしい……」
「けれど皆様、こうなる事は分かっていたでしょう?」
「分かっていても到底止められませんでしたわ……確かに聖女様は何も悪くない。悪くないからと言って、婚約者を奪われた悲哀は誰にも慰められませんもの……」
「その婚約者様の煮え切らない態度が招いた結果だとわたくしは思うのですけど?」
最後の少女の言葉を皮切りに、一斉に黙り込んでとある一点を睨みつける少女達。人々が場所を空けるそこには、聖女とその取り巻き達と陰で呼ばれる、聖女を中心とした高位貴族の子息達が集まっていた。彼らは実に晴れやかな顔をしており、人が1人処刑されたこの場に似つかわしくない、ちぐはぐな印象を与えた。
その中でただ1人、ぼんやりとした表情を浮かべる、罪人の元婚約者を見て、少女達は少し溜飲を下げる。
「あの方もご自分が何をなさったのか思い知ればよろしいのですわ」
「ええ、全く」
その時、罪人の女の遺体が光に包まれ始めた。
ざわり、と騒めく群衆を嘲笑うかのように、無数の小さな光の玉に変じた遺体は天に昇って行く。
「綺麗……」
その呟きは誰のものだっただろうか。
罪人の、いや、彼女の元婚約者は、本人も気付かぬ内にはらりと涙を零したが、皆、遺体が光に変わるという奇跡に夢中で、誰も気付かなかった。
それから幾年経とうとも、彼女の墓前には、花が絶える事は無かった。それは彼女が元々は慕われていたという証左でもあり、奇跡に敬意を評してという意味もあっただろう。
しかし、毎年夏になるとその中に加わる、一輪のひまわりの意味を知る者は……夕立の後の湿った土のにおいを嗅いで、涙する者は、もう1人しかいないのだった。