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浜梨と天秤

作者: はねわた



 --鬼さん、色は何色ですか?--




「あぁ、またか。」

 僕の世界から時々色が消えるようになったのは数ヶ月前からだ。何の前触れもなく僕は色覚を失う。視界が灰色の世界になる。最近こういったことが突然起こる。最初はただの目眩だと思っていたがどうやらそうではないらしい。不定期ながらもあまりにこの症状が続くので流石に異変を感じて行った脳外科に耳鼻科、はたまた眼科も診断結果は異常なし。少し不安ではあったけれど日常生活に差し障りはないし、この灰色の街並みにもすっかり慣れてしまっていた。

 それにしてもこの灰色の世界は不思議なものである。色を失ったモノトーンの風景。しかしそこからは確かな鮮やかさが伝わってくる。木の葉のささやかな揺れ、遠い雲の流れ、無機質なコンクリートの道。ありふれたもの全てが色を失うことで僕に強く、その鮮やかさを訴えかけてくる。普段は色彩豊かな世界に住み、そしてその色を時々失う僕だからこそ享受する美しさ。最近はそれに浸る余裕すら出てきたのだから慣れとは恐ろしい。


 色を時折失う日常。しかしその日常はこの日を境に少しずつその表情を変えていくこととなる。


「あぁまたか。」僕がそう呟いたのは夏真っ只中の大学からの帰り道。友達と別れ、一人きりの家路についた時だった。いつものように急に灰色の世界が音も無く広がる。もう驚くこともなくなってしまったこの現象。灰色の世界になっても色味の変わり映えのしないコンクリートの大地。その上をいつものように何も気に留めることなく歩いていると突然、後ろから女の人の声がした。

「やっと見つけた!」

 聞き覚えの無い声と予想以上の声の近さに思わず振り返る。そこには長く綺麗な白い髪を携えた、やや小柄な自分と同年齢くらいの少女が立っていた。振り返った瞬間、すぐさまその容姿に目を奪われる。綺麗な髪の色に負けないほどの肌の白さ。そして風に吹かれる同じく白いワンピース。全てがその美しさを際立てていた。細くすらっとした綺麗な長い足。そう思って足元に目をやるとなぜだかこの暑さの中、コンクリートの上に素足でいた。本来ならばこれは相当驚くべきことのはずだが、それ以上の衝撃が瞬時に掻き消した。その衝撃とは、君だけがこの灰色の世界でその色を保ち続けていたこと。これらの多大な情報量に僕は困惑せざるを得なかった。そして何よりこんな体験は初めてだった。灰色の世界で色を失わないものに出会うなど。あまりの衝撃に頭を殴られた僕は思わず黙りこんでしまう。



 これが僕と君の初めての出逢い。




 あぁ、驚かせちゃったな。私は困惑の表情を見せる君を見て少し後悔をした。数ヶ月の間、ずっと探していた人間にようやく巡り会えた。その嬉しさから私は後ろから君に唐突に声をかけてしまった。周りに人がいない路地だったからよかったけれど、この場をもし人に見られていたら明らかに不審者だよね。心の中で反省し苦笑する--



 私には記憶がない。ただ覚えていたことは「色がない人間を探せ」という誰かの声。それだけだった。気がついてから数ヶ月。その声だけを頼りに私はそんな人間を探し続けた。何かが分かるかもしれない。そんな一縷の希望を託していた。色がない人間なんて普通に考えれば、どんな人間なのか想像すらつかない。しかし実在するという確信はあった。でもその根拠はなかった。いや本当はあったのかもしれない。ただ私が忘れてしまっただけなのかもしれない。それでも探すことをやめようとはしなかった。そして今日そんな君をようやく見つけた。この色とりどりの世界で君だけが唯一、私の世界では色を失っていた。見つけたことへの驚きと嬉しさに駆られた私は君に突然後ろから声をかけてしまった。


「やっと見つけた!」

 そう声をあげた瞬間、物凄い勢いで振り返る君。途端に君はあからさまなまでの困惑の表情を見せた。そして黙り込む。私はすぐに冷静さを取り戻し苦笑いをした。そりゃ驚くよね。知らない人に急にこんな事言われたら。心の中で呟く。しかし嬉しさも束の間、冷静になった私の頭は気づく。

 あれ、私はこの後どうすればいいの?

 あの声を頼りにたしかに色がない人間を見つけた。もちろん色のない人間は君のことで間違いない。こんな人間、他にいるものですか。しかしその後どうすればいいのかなんてあの声は教えてくれない。私の記憶ももちろん答えてくれない。軽いパニック状態に私は陥り、双方が困惑の表情を見せて黙り込む。何とも形容し難い気まずい空気が住宅地の路地のど真ん中で流れた。



 これが君と私の不思議な関係の初まり。




 目の前の君の表情は目まぐるしく変わる。初めは歓喜の表情。しかしすぐに落ち着きを取り戻す。自分の行動を後悔したのだろうか苦笑い。そう思えば急に慌てたような表情。今はかなり困惑した表情。多分、僕も同じような顔をしているんだろうな。なんて表情豊かな人なんだろう。何が君の頭の中で起きているのかは知る由もなかったけれど気まずい空気が流れていることだけが確かだった。


 背後からクラクションがけたましく鳴り響く。君との出逢いが、色を失わない君の存在が、あまりにも衝撃的で後ろから車が来ていたことに気づいていなかった。道の真ん中で二人で立ち止まっていたら、鳴らされるのは当たり前か。僕らは道の端に寄る。そのうるさく甲高いクラクションとエンジンの音は僕らの間の気まずい空気を切り裂いた。同時に僕の世界は普段の色を取り戻した。世界に色が戻ってもその鮮やかさに負けないほどに君はやっぱり綺麗だった。


「何か用ですか?」

 ようやく発することのできた第一声。素直に疑問をぶつける。君が僕にとって何か特別な存在であることは間違いない。あの世界で色を失わないなど特別としか言いようがなかった。確かめたいのは山々であった。しかし初対面のしかも一言目でそれを口にできるほどの勇気を僕は持ち合わせていなかった。

「ずっと探していたの。」

 ずっと探していたの。頭の中で僕は繰り返す。だが、全くもって意味が分からない。何か過ちを犯したのかと焦り記憶を辿るが思い当たる節はない。

「どうして?」

 すかさず僕は続ける。君と簡単にここで別れるわけにはいかない。そう僕の本能が強く言っている。別に灰色の世界が嫌いなわけではない。ましてこの現象を治したいわけでもない。しかし何かが分かるかもしれない。そんな淡い期待が僕の中にはあった。

「わからない。」

「……わからない。」

 今度は思わず口に出して繰り返してしまった。益々意味が分からない。理由は自分にも分からないけど僕を探していた?ストーカーですか?そう思うと急に恐ろしくなる。しかし様子を見る限りそういう訳でも無さそうだ。君は少し戸惑いながら、そして少し僕の目から視線を逸らしながらこう言った。


「記憶が…無いんです。」




 私たちは君の家から近いという公園にいる。私たちの他に人影はない。夏の夕方。少しずつ日が暮れ始め、気温が下がってきている。ベンチの他には砂場と滑り台しかない少し寂しい所だけれど、今の私たちにはこれで充分だった。

 君は記憶を失ったことを告白した私を跳ね除けることをしなかった。君がゆっくり話をしたいと言ってくれたものだから、数少ない私の記憶を包み隠さず全て伝えた。数ヶ月前からの記憶しかないこと。唯一覚えていることは色がない人間を探せという誰かの声。そして君が私の目にはこの世界で孤立しているかのように、ただ一人モノトーンに映っているということ。私が話すことを隣に座る君は黙って聞いてくれた。信じられないようなことも多かっただろうけど君は理解しようとしてくれた。

 君も自分のことを同じように話してくれた。私にちょうど君がそのように映っているように君は時折、世界の全てがモノトーンに映るらしい。それが始まったのがちょうど私が気がついた時と被る。とても偶然とは思えない。君はそのモノトーンの視界を灰色の世界と言っていた。とても素敵な表現。でもなぜだかその世界で私だけが色を保ち続けるらしい。そういう理由があったからゆっくり話したいって言ってくれたのね。兎にも角にも私たちの間に何か関係があることは間違いないみたい。

 二人とも自分のことを話し終えた頃には完全に日が暮れていた。明かりは寂しげな街灯だけ。薄暗い中に少し涼しい風が吹く。隣に座る君は話し終えたことで何かすっきりしたのかな、清々しい顔をしている。そしてベンチから立ち上がって私の方を向いて君は言う。

「これからどうする?暗くなってきたし花火でもするか?」

 さっきまでの私の話を聞いてくれていた真面目な顔から一転、くしゃっと屈託無く笑う君。なんて素敵に笑う人なんだろう。暗いからはっきりとは見えないし、灰色にしか私の目には映らない君。でもその笑顔には疑いようのない鮮やかさがそこにあった。出逢ってからたかが数時間。私たちは互いに惹き付け合っていた。少し溜めて私が口を開く。夜空には星が瞬いていた。


「あのね、お願いがあるの。君に--」



 君だけに色がある。君だけに色がない。




 君の世界に僕はどのように映っているのだろう。ぽつり、ぽつりと話し出した君。僕をモノトーンにしか見えないと言った君。でも隣の君は僕の世界では極彩色とでも言うべき鮮やかさで照り映える。対照的な僕らの世界。一方は鮮やかで一方は色味がない。そんな正反対の世界を見ている僕ら。たった数時間前に出逢ったばかりの君に僕は惹き付けられていた。こういうのを一目惚れと言うんだろうか。いや、でもきっとこれは多分それとは違う何かだ。


 僕が自分の灰色の世界について話し終えた頃には既に日は完全に落ちていた。もう少し一緒に居たい。素直にそう思った僕は君に花火をしようと言った。しかし返ってきたのは、「はい」でも「いいえ」でもその他のどんな類の返事でもなく、あるお願いだった。座っていた彼女が立ち上がり、僕の方を向いてはっきりとこう言う。


「あのね、お願いがあるの。君に……ついてもいいですか?」


 君についてもいいですか。僕は頭の中で繰り返す。何を言っているのか分からない。果たしてどの漢字を当てるべきなのか。突く、着く、付く、どれもしっくり来ない。君は何の許可を僕に得ようとしているのか。理解できなかった僕は君に問い返そうとする。それを遮るかのようなタイミングで君は喋り出す。

「君にとりついてもいいですか?」

 とりつく……トリツク……取り憑く?この漢字が頭に思い浮かぶのに僕の頭は数秒を要した。君は何を言っているんだ?あぁそうか。重い空気だったから僕のことをからかっているのか。そうに違いない。そう考えようとする僕の全身に嫌な予感が駆け巡る。それを払拭するためにも僕は君の頭を軽く叩こうとした。そう、それはとても軽い気持ちで。すっと僕は君に近づき、まるで下手なお笑い芸人のようになんでやねんと言いながら君の頭を軽く叩く。いや、正確には叩こうとした、だ。しかし、叩こうとしたした僕の手は見事に空を切った。たしかに僕の目に映っているはずの君。でも君がいるそこに、触れることのできる体はなかった。


「君は何なんだ?」




 君の顔に再び困惑の表情が浮かぶ。

「君に憑いてもいいですか?」

 この質問、理解なんてできないよね。



 私は実はもう生きた人間ではない。既にこの世を去っている。つまり私は俗に言う幽霊ってやつだ。実は君以外には見えていないんだよ?だから住宅地の狭い人気の無い路地も、物寂しい公園も私にとっては好都合だった。


 数ヶ月前に気がついた時の私の衝撃は説明するまでもないだろう。「死んだ」。記憶のない私だけれども、その感覚だけは痛烈に体に残っていた。だからこそこうして普通に現世にいることが衝撃的で仕方がなかった。それに加えて、物に触れることができない、その事実がこの死の感覚をさらに強く裏付けていた。

 私を含め幽霊が現世を彷徨うということはこの世に何かしらの未練があったってことらしい。でも生憎、私に生きていた頃の記憶はない。何が未練なのか何度も何度も思い出そうとした。しかし思い出せるわけもない。結局のところ私に残された手がかりはやはり「色のない人間を探せ」というこの声だけだった。記憶喪失の幽霊なんて聞いたこともないよね。

 でもこの数ヶ月間、私はただ君を探すことをしていただけではない。幽霊らしいことも探り探りだけどできるようになった。その一つがこの「取り憑く」ということだった。これをすると私はほんの少しだけ取り憑いた人間との感覚を共有することができる。君に取り憑くことに意味があるのかは私にも分からない。それでもそうすることで新たな視点を得られることは確かだった。記憶を取り戻すための手がかりになるかもしれない。それ以上の理由は私にはなかった。本当は幽霊側が勝手にすることだし許可を得ることでもない。でも君だけは、君にだけは勝手にそんなことはできない。なんとなくそう思った。


 君の表情から困惑の色は拭われない。どうやら君は私が幽霊だということに気づいていなかったらしい。たしかに幽霊だとは名乗っていなかったけれどなんとなく察しないかなぁ。でもさすがにこの要求は無責任すぎるか。心の中で一人で笑う。君の率直すぎる「君は何なんだ?」という質問に幽霊ですと答えたのはなんだか少し気恥しかった。自己紹介で幽霊ですって言うなんてなかなか体験できないよ。そんな幽霊としての私にまだ君は戸惑っているみたいだけれど、なんとか消化できたみたい。困惑の表情が段々と薄れていく。私を人間でないと知っても君の態度は変わらなかった。さっきの話を聞いてくれていた時と変わらない真剣な顔。そして君は一言だけ呟く。


「いいよ。」


 空には夏の大三角。薄暗く狭い公園に二人。少し涼しい風が吹く。こんな夏の夜、私は色を失った君に「憑いた」。




 状況を上手く飲み込めない。僕の質問に笑って幽霊ですと答えた君。そのあっけらかんとした態度が余計と僕を困惑させる。しかし先程の僕の手の感覚が理性よりも強く僕にその現実を突きつける。君が幽霊であること。それは僕の疑問の辻褄を合わせた。

 最初に声をかけられた時、僕は周りに人の気配を感じていなかった。真後ろに君が立っていたのにだ。普通であれば気づかないわけがない。でも気づかないのも仕方ない。君は幽霊だったんだもの。気配なんて感じるはずもない。自慢じゃないが僕に霊感はこれっぽっちも備わっていない。「感じる」ことができないのは当たり前だ。だから今まで僕は心霊の類は全く信じてこなかった。けれども今日をもってその態度は改めなければならないようだ。そしてもう一つ。君が素足だったこと。この真夏の灼熱のコンクリートの上を平気な顔をして素足で歩けるはずはなかった。普通の人間ならば、だが。常識的に考えればそれくらい簡単に思いつくはずなのに君の色の衝撃で完全に僕の頭の中から掻き消されていた。裏を返せばそれほどに君の色は衝撃的だったってことだけども。幽霊である君にきっと熱さや痛みという感覚はないのだろう。色々考えていたら君の着ている白いワンピースすらも死装束に見えてきた。だめだ、僕、今、完全に混乱してる。


 僕は世界が灰色。君は僕だけが灰色。僕は君だけが鮮やか。僕は人間。君は幽霊。そして今、僕は君に取り憑いていいかとお願いされている。全くどんな状況だよ。呆れながら自分で自分にそんなツッコミを入れる。取り憑かれたら僕はどうなってしまうのだろう。B級のホラー映画のように奇怪な行動を起こしたりするのだろうか。でも君の話ではそんなことはできなさそう。どう答えるか、僕は悩んでいるつもりだった。でも君のお願いを聞いた時に心のどこかではもうその答えは決まっていたのかも知れない。そう決めた理性的な理由はない。でも僕は答えた。それを聞き君は微笑む。笑った君もやっぱり綺麗だ。

 そんなことを考えているうちに君がふわりと宙に浮く。ゆっくり。ゆっくり。高く。高く。君はどんどん上がっていく。あぁ、やっぱり君は幽霊なんだね。この光景で僕はようやく完全に理解する。暗い空に真っ白な君がよく映える。上りきったのかな。君は空中で止まる。長く、美しい、君の白い髪が扇形に宙に広がる。君は真上を向いて星の光る夜空を見ている。そして目を瞑る。胸の前で両手の指を絡める。その姿はまるでキリストに祈るシスターのよう。なんて美しいのだろう。出逢ってから数時間。君の美しさに僕は何回胸を打たれたことか。本当に綺麗な君。ずっとこの光景に見とれていたい。

 そんな願いは届くはずもなくやがて終わりはやって来る。広がった髪の毛の様子が元に戻る。祈り終えたのだろうか。目を開き、絡めていた指を解く。そして上っていった時と同じようにゆっくり、ゆっくり、降りてくる。君は僕とちょうど背中合わせになるように地面に降り立った。君に触ることも、温もりを感じることもできない。こんなにも近くにいるのに。それだけが少しもの寂しかった。

「いくよ。」

 君は小さく僕に呟く。僕は何も答えない。そこに言葉はいらなかった。僕の方にゆっくりと倒れてくる君。君の背中と僕の背中。決して触れ合うことはない。君が少しずつ僕の中に入ってくる。そんな感覚はするはずがないのだけれど。でも少しだけ変な気分だ。やがてすぐに君の姿が見えなくなった。そして頭に君の優しい声が響く。


「ありがとう。」




 あれから一週間ほどが経った。憑いて憑かれての関係になった私たち。そんな君と私の不思議な日常が始まっていた。


 取り憑いた私が君の体の中にいた時間はあの日のあの一瞬だけだった。いくら君とはいえ、やはり人の体に入るのはどうにも慣れない。基本的に私は君と出逢う前と同じように体の外にいる。そんな私の生活場所は専ら君が借りて一人暮らしをしているアパートの部屋だ。幽霊の私はお腹も空かないし暑さも感じない。だから本当はどこにいてもいいのだけれど勝手に上がり込んだ。でも君は嫌な顔一つしなかったのでしばらくは居候させてもらいます。昼間は君が大学に行ってしまうから私は部屋で一人ぼっち。こっそり着いて行こうかと何回か思ったけれど君の迷惑になりそうだからやめた。さすがに見えないものが見えてしまうイタい子に君をするわけにはいかない。万が一見える人に出逢っても面倒だしね。そんなわけで私は昼間はとてもとても暇なのだ。はぁ。幽霊ってなんて暇なんでしょう。君を探していた頃はそれに必死で何も感じなかったけれど、いざ君を見つけてしまったら思いの外することがない。現世の未練が分かればまた違うのかもしれないけどまだ記憶は戻りそうにもない。いつものごとく周りを見渡す。もう見慣れた閑散とした君の部屋。正直、男の子らしいものはあまりない。大学生にでもなればそれが普通なのかな?目に付くところにあるのはベッド、勉強机、本棚。そしてたくさんの画材。私は絵のことはさっぱり分からないけれど、君が描く絵はきっと素敵に違いない。なんで分かるかって?だって君の描く落書きがその範疇を超えているんですもの。さらさらっと描くけれど本当に上手。美大生だから当たり前と君は言うけれど私からしてみると本当にすごい。生きていた頃の記憶は無いけれど、絶対に私はこんなの描けなかったね。


 そんな暇な暇な昼間を過ごす私にとうとう友達ができたのだ。幽霊のお友達じゃないよ?私には他の幽霊さんの姿も見えるけれど怖くて話しかけられません。その友達っていうのは君が飼っている猫。柄は縞三毛でお腹と手先と足先が白い。でもちょっと太り気味かな。かなり丸い。うーん。可愛い。きっと私が生きていた頃は猫派だったな。一人で納得して頷く。この子が私が見えると確信したのはごく最近のこと。それまでも何度か視線が合ってはいたのだけれど全部偶然だと思っていた。しかしある日この子は確実に私に飛びついてきた。もちろんすり抜けるけど。すり抜けて私の背中側に着地する。その時のこの子の表情は忘れられない。猫ってこんなにも表情豊かなんだね。まるで君みたいな立派な驚き顔と困惑した顔を見せてくれたよ。動物は人に見えないものが見えているというのはどうやら本当らしい。その日から私に遊び相手ができた。基本的に私が追いかけ回されるだけだけど。遊んでるというか遊ばれてる?幽霊なのにこんなに普通に日常を楽しんでいていいのか私。




 部屋に帰ってくる。そこには部屋の中を自由に駆け回る一人と一匹。いやもはや二匹か?こんな光景がここ最近帰ってくると毎日繰り広げられている。君ら本当に仲良しだね。最初はあまりにも部屋が荒らされていたから泥棒に入られたのかとかなり焦った。君の話を聞いてそうではないと分かったのはよかったけれど、あまりにもひどかったからその日はお説教しました。全く、幽霊が生きてる人間に正座させられて説教されるってどういうことだよ。ちゃっかり行儀よく猫も君の隣に座って反省してるし。可愛すぎか。説教が堪えたのかその日以来相変わらず追いかけっこはしているけれど部屋を荒らさないような逃げ方を君は始めた。部屋が荒らされてないならなんでもいいや。そう思ってしまう僕は君に甘いかな。


 君は本当によく話す。僕が帰るとすぐに君は目を輝かせて喋り出す。一人と一匹の少し寂しかった僕の日常は君によって急に騒がしくなった。幽霊ってこんなに自己主張が激しくていいのだろうか。君を見ていると僕の中の幽霊像が揺れ動く。幽霊ってもっと暗くて、どんよりしてて、人に悪さをするものだと思ってたよ。でも目の前で楽しそうに話す君は明るくて、さっぱりしてて、僕を幸せな気持ちにしてくれる。完全に真逆。そんな君のひたすらに僕を探していた頃の話は未だに尽きそうにない。絶対君は生きていた頃もおしゃべりだったな。話すのが上手すぎる。一つ心配ごとがあるとするならばお隣さんに僕がとうとう気が狂ったと思われていないかだ。唐突に夜中に一人で話し出す隣人。字面に起こすと余計と危ない人だな。そんなことは頭にあるけれど君との会話は止められない。とりあえず通報されてから考えようかな。



 大学が夏休みに突入した。僕が家にいる時間が増えたこともあり君は毎日上機嫌だ。今は大体お昼前くらい。どこで覚えてきたのか分からない、最近流行りのアイドルの曲を鼻歌交じりに口ずさみながら君はよく晴れた外の光景を眺めている。夏真っ盛りのこの蒸し暑い日にベランダに居ることができるのは暑さを感じない幽霊の特権だな。君が生活している姿は幽霊であることを僕に全く感じさせない。あんなふうにされると普通の女の子にしか見えない。こんな可愛い彼女がいたらいいのにな、なんて思ったりもする。僕には今ちょうど恋人がいない。灰色の世界が現れる前に既に前の彼女と別れていた。でももし仮に恋人がいたとしよう。部屋に来たら絶対君の目を気にして素直に楽しめない。そして何よりするべきこともできない。それに見えてしまう質の人だったりしたらさらに怖い。絶対誤解されるし、一々説明するのも億劫だ。そういう意味では恋人がいなくて好都合だなと自己暗示をかける。好都合だ、うん、好都合。そんなどうでもいいことを考えているうちに外を見飽きたのか君が部屋に戻ってくる。もちろん窓ガラスをすり抜けて。あぁ。やっぱり幽霊です。

「今日はご飯どうするの?あんまり素麺ばっかり食べてると太るぞぉ。」

 生きている頃の記憶が無いと言う割にはそういうことは覚えてるんですね。もはや体型維持は記憶などではなく女の子の本能なんだろうか。君は何かとそういうところだけは口うるさい。おかんか。でも君が来てからというもの僕の生活習慣が飛躍的に改善したため無下にはできない。重い腰を上げてキッチンに向かう。とりあえず冷蔵庫を覗く。しまった……。昨晩は残り物の消費日だった……。びっくりするほど何も無い空の冷蔵庫。大人しく買出しに行くしか手は無さそうだ。この焼けるような暑さのもとスーパーに行くのはかなり気が乗らないが仕方ない。どうせ晩飯も何も無いんだ。腹を括れ、僕。


 買い物に出かけるためにリビングに戻ろうとしたその時、僕の視界が灰色に染まった。そう言えば家でこれが起きるのは久しぶりだな。君が来てからはまだ一度も無かったかもしれない。最近はたまたまこれが起きるのが日中ばかりであった。普段は日中は大学にいるため家の中の景色が色を失うのは何かと新鮮だった。この世界で君の色を認識するのも実はまだ出逢った時以来の二回目であることに気がつく。リビングに戻るとやはり変わらず真っ白な君がそこにいた。

「ちょっとスーパーまで買い物行くけど一緒に行くか?」

 君に投げかける。しかし返事がない。いつもなら嬉嬉として着いてくるのに。まぁいいか。そう思って玄関に向かおうとした。その時、君が急にこちらへ振り返る。驚いて僕は君を見る。その瞬間、僕は声をあげることすら出来なかった。

 

 君の様子がおかしいのは一目瞭然だった。目の焦点が合っていない。かなり虚ろな目。口は半開き。何かを小声で呟き、髪の毛は広がっている。そしてそのままそろり、そろりと一歩ずつ足を引きずりこちらへ近寄ってくる。そうその姿はまるで「幽霊」。それそのものだった。恐怖で足がすくむ。冷や汗が全身から吹き出す。心做しか少し部屋の空気が冷たく感じる。一歩。また一歩。僕の方へ着実に向かってくる。目の前の君は完全に自我を失っているようだった。いくら声をかけても返事はない。一体何が起きているのか。目の前の現実を理解することができない。怖い。恐い。怖い。恐い。僕の体を恐怖が支配する。一刻も早く駆けて逃げ出したい。しかし恐怖は囚えた僕の体を動かすことも泣き叫ぶことも許しはしない。君がとうとう目の前までやってくる。俯き気味だった顔を君があげる。直視しないようにしていたその顔。その表情に君のあの優しい笑顔の面影は無かった。顔は君のまま。でもそこから僕が感じ取れるのはただひたすらの恐怖のみ。輝きを失い、焦点の合わない目。もごもごと動く口。そのまま君がゆっくりと口角を上げる。いつものような鮮やかさはそこにはない。ただ不気味さと恐怖を強調させたその笑みを浮かべたまま君ははっきりとこう言った。

「鬼さん、色は何色ですか?」

 途端に僕の全身を痛みが襲った。はち切れそうな頭の痛み。引き裂けるような節々の痛み。痛みが恐怖から僕を解放したが状況はむしろ悪化した。僕はあまりの痛みにその場に蹲る。痛みの中で僕は必死に頭を巡らせる。君のあの言葉。どこかで聞き覚えがある。何だ。何なんだ。思い出せそうで思い出せない。何か小さい頃の記憶。必死に考えるが痛みが集中させてくれない。その時、また君が呟いたのが聞こえた。

「青。」

 その時、僕は思い出した。そうだ。色鬼だ。あの掛け声。逃げる側が鬼に向かって言うあの掛け声。そして今それに君は自分で答えた。


 色鬼。鬼が指定した色に触れている間は鬼に捕まえられることはない鬼ごっこ。もしそれと何か関係があるとするならば、僕は今、鬼なのか?それとも逃げる側なのか?鬼なら君に触れなければならない。しかし君に触れる方法を僕は知らない。すり抜けてもよいのだろうか。君は部屋を彷徨いている。けれども一向に色を探す気配は無さそうだ。ならば僕は逃げる側なのか?でも君も僕にはやはり触れられないはずだ。ダメだ。完全にルールが破綻している。分からない。僕の灰色の世界は未だに色を取り戻さない。でも何かが起こるかもしれない。そんな希望を託して僕は記憶を頼りに青色の何かを探す。周りを見渡す。すぐに君の向こう側に広げっぱなしの絵の具があることに気づく。あれに触れるのが一番早そうだ。しかし酷い痛みは変わらず僕の全身を襲い続けている。まともに立つこともできない。僕は這うようにして散乱した絵の具の元へ向かう。たかだか数メートルの移動が辛い。痛みは手を緩めることなく僕に波状攻撃を仕掛けてくる。痛い。痛い。痛い。痛みに耐え不格好ながらも何とか辿り着く。青の絵の具を文字を頼りに探し出す。『Blue』。あった。すかさずキャップを開けて手に出す。ぬるりとした感触。その瞬間、先程までの痛みは唐突に消え去った。安堵も束の間、僕の意識は遠のいていった。




 気づくと僕は堤防の上に立っていた。照りつける太陽。目前に広がるのは白い砂浜と青い海。ここはどこだろう。僕の知らない場所なのは間違いない。なんだか頭も体もふわふわする。僕は訳もわからないまま堤防の上を歩き出した。不思議と暑さは感じない。何の宛も無くただただ歩く。歩く。歩く。足がとても軽い。このままどこまででも行けそう。そんな気がするほどだ。吹き付けてくる潮風の匂いが僕の鼻をくすぐる。海に来たのはいつ以来だろう。高校生の時には来たんだっけ。覚えていない。なんだかとても懐かしい。そんな気がした。


 歩き始めてどれほどの時間が経ったのだろう。数時間歩いた気もすればたった数分な気もする。分からない。時間の感覚も少しおかしくなっている。僕はどうやら堤防の端まで来たようだ。仕方ないので階段を降りて砂浜に降りる。広がる一面の水平線。砂の感触が足の裏を刺激するのが心地いい。一歩一歩、砂を踏みしめ、また来た方向へ一人歩き出した。浜に寄せては帰る白波。その音とさっきよりも主張の激しい潮の匂い。大自然が僕の五感に働きかけてくる。太陽は傾き始めていた。少しずつ橙色に染まり始める空と雲。青空との境界線。あの色はなんて言うんだっけ。忘れてしまった。ただその色が凄く好きで僕は移り変わる空の表情をぼんやりと眺めていた。



 ふと人の気配を感じて周りを見渡すと少し遠くに君がいるのが見えた。なんだ。君もいたのか。声をかけようと君の元へと歩き出す。君も僕と同じようにただ宛もなく海を眺めて歩いているようだった。ゆっくり歩く君の隣を僕も同じようにゆっくり歩を進める。君の歩幅は僕よりうんと小さい。隣にいる君は本当に小さく感じて今にも消えてしまいそう。しばらく黙りながら歩き続ける僕と君。出逢った時の沈黙とは違う。気まずくて話せないのではない。この沈黙は心地よい。言葉はなくとも通じ合う。少し言い過ぎかもしれないけれどそれくらいの気持ちだった。多分それは君も同じなんだと思う。


「なんて海はこんなにも綺麗なんだろう。」


 君が言う。しみじみと、優しく、深い声で。


「なんでだろうね。でも確かに本当に綺麗だ。」


 自分の語彙の乏しさを恨む。僕はこの美しい光景を表現するのに堪える言葉は持ち合わせていなかった。


「……風も気持ちいいし、そこまで暑くないから今日は散歩日和だなぁ。」


「そうだな。ラッキーだった。」


「……ずっとここに来てみたかった。」


「言ってくれればよかったのに。」


 ゆっくり、ゆっくり、間を置きながら言葉を交わす僕と君。いつものおしゃべりな君とは違う。君は落ち着いて優しく、丁寧に言葉を置いていく。


 君が鼻歌を歌い始める。僕の知らない歌だった。最初は鼻歌だったけれど君は少しすると小さな声で歌い始めた。


 疾風忽ち波を吹き、赤裳の裾ぞ濡れ潰じし。病みし我は既に癒えて、浜辺の真砂、愛子今は。


 童謡かな。なんとなくそんな気がした。僕には意味は理解できなかったけれど切なくてもの寂しい気持ちにさせる、そんな詞とメロディーだった。か弱い君のか細い歌声が海に吸い込まれていく。ふと君の顔を見るとその目には涙が浮かんでいた。


「どうして……泣いているの?」


 僕は答えを待つ。君は答えない。沈黙が再び訪れる。俯きがちに歩いていた君がすっと上を向く。目に浮かぶ涙がその場に留まることができなくなっていた。君の頬を一滴の涙が伝う。


「……もうさよならなんだね。」


 君がぽつりと呟く。


「さよなら……?どういうこと?」


「……もうあそこに戻らなくていいんだ。」


「あそこ?僕の部屋のこと……?」


「……長かったなぁ。」


 僕の質問に一向に答えようとしない君。何かがおかしい。噛み合わない。いくら抜けてる君とはいえ、いつもならこんなことはありえない。ただ自分の世界に入り込んでいるだけには見えなかった。違和感を感じた僕は試しに素っ頓狂なことを聞いてみる。


「ねぇ、リンゴって何色だっけ?」


「……嬉しいような。……悲しいような。」


 僕の勘は正しかったようだ。やはりそこに会話は存在していなかった。僕は君の顔をわざとらしく覗き込む。しかし何の反応もなく君は僕の体をすり抜けていく。しかし、いつもとは違う感覚。そうそれはまるで、君じゃなくて僕の体が無くなった感覚。僕が君をすり抜けている感覚。もしかして、君には僕が見えていないのだろうか。


 話しているつもりだった隣の君はどうやらずっと独り言を呟いていたらしい。僕の声は届いていないようだった。たまたま君の独り言と僕の言葉が少し噛み合ってしまった。そのため僕は話しているものだと勘違いをしていた。初めての感覚。当たり前か。君にすら見えることのない僕。僕はどうなってしまったのだろう。死んだのだろうか。そして君のように幽霊になってしまったのだろうか。分からない。けれども君の側は離れたくなくてそのまま僕は君の隣を独り歩いた。

 君は変わらず呟いていた。


「……やっとこの生活も終わりかぁ。」


 僕はもう言葉を発することをやめた。ただ黙って君の呟きに耳を傾ける。この生活も終わり。どういうことだろう。


「……ずっと縛られてきたからなぁ。」


「……最後くらいは運命に抗うことにするよ。」


 縛られる。最後。運命。重く苦しい言葉が並ぶ。君の横顔には涙と共に何か強い覚悟が感じられた。

 気づくと日は完全に落ちていた。空には月と星が一面に溢れんばかりに瞬いている。都会では決して見ることのできない夜空。その光は美しくもあり、同時にほんの少しの悲哀の色を見せていた。


 ずっと波打ち際を歩いていた君がその歩みを止める。君は哀しげな目で海を見つめた。その目にはどんな風にこの世界が映っているのだろう。とても、とても、哀しそうで切なさに満ち溢れた君の後ろ姿。その僕より一回りも二回りも小さな背中が、いつもよりもさらに小さく見えた。君は履いていたサンダルを脱いで素足になる。そしてそれを綺麗に砂浜に踵を合わせて並べて置いた。君は海と向かい合う。そして一歩ずつその広く深い闇へと進んでいく。一歩。また一歩。押し寄せる波に逆らいながらゆっくり君は歩く。


「……ただ愛されたかっただけなのに。」


 これは君の過去。僕はようやくそれを理解した。そう、そしてこれは、君が死ぬ時の記憶。青色の記憶。哀しさと切なさが入り乱れた淡く灰色がかった青色の記憶。小さな君は一歩ずつ沖へと進んでいく。僕はそれをただ砂浜から見ていることしかできない。僕の声が届くことはない。そんなことは分かりきっていた。それでも僕は……僕は叫ばずにはいられなかった。


「僕が君を幸せにする。死んでも君を僕が心から愛そう。だから君は……。」


「僕を、色がない人間を探せ。」


 届くはずのない僕の声。しかし君は確かにこちらへ振り返った。その瞬間、大きな波が君を飲み込む。真っ白な君の姿が再び水面に現れることはなかった。



 君の小さな足跡だけが残る砂浜。そこにぽつりと咲く一輪の白い浜梨の花。花言葉は


『哀しく、そして美しく。』




 秒針の音が部屋に小さく響く。その無機質な一定間隔の音が、君と私の間の止まっていた時間を取り戻した。

 気がつくと目の前に君が立っていた。私をじっと見つめるその両の目には涙が浮かんでいる。私の視界に映る君もぼやけていてはっきりとは見えない。泣いていた。君も。私も。


 全部思い出したよ。私がどうしてこの世を去ったのか。そして、今、ここにこうしていられる理由。君だったんだね。私をこの世に引き止めてくれたのは。私に死んでからこんなにも楽しい日々を送ることを許してくれたのは。どうして今まで気づくことができなかったのだろう。何回も、何回も、頭の中で繰り返し続けたあの声。ずっと、ずっと、頼りにし続けてきたあの声。その声が君だったって。

 辛く、苦しかった、生前。生きた心地のしなかった十数年。それを君はほんの少しの時間で鮮やかに、そして明るく暖かな色に塗り変えてくれた。幽霊になった私にこんなにも愛を注いでくれた。生まれて初めて心から愛してくれる人を私は見つけることができたよ。この表現はもう私は死んでしまっているから少し可笑しいかな。生きているうちに君に巡りあえたらどんなによかったことだろう。そうすれば普通に君に恋をして、もっと二人で居られたのかな。そんな虚しい願いを私は少しだけ胸に抱く。


 目の前の君を見る。それと同時に君が浜辺で叫んだあの言葉が鮮明に私の頭の中で木霊する。どうして今を生きているはずの君を感じられたのか。そんなことは分からない。どうだっていい。ただ君が私のことをあんなにも想ってくれている。その事実だけで私には充分だった。

 でもさ、凄く嬉しいのだけれども、よくしゃあしゃあとあんなキザなこと言えたよね。今時、少女漫画の男の子でもあんな事言わないんじゃないかな。読んだこと無いからよく分からないけれどね。とにかく思い出すだけで背筋がぞわぞわする。言われたこっちまで恥ずかしい。一人で勝手に気恥ずかしくなった私は君をからかって気を落ち着けることにした。

「『死んでから君を僕が心から愛そう。』だっけ?」

 できるだけキザに、大袈裟に、全く似ていない君の真似をする。相変わらず君も私も零れる涙は止まらないのだけれど精一杯におどけてみせて。ずっと泣いていた君の顔がみるみる赤く染まっていく。文字通りの赤面だった。暗く沈んでいた二人の空気が徐々にその明るさを取り戻していく。

「どうして都合よくその部分だけ聞こえてるんだよ……。」

 君は自分の言動を後悔しているようだ。顔を隠して凄く恥ずかしそう。こっちを見ないでください、と言わんばかりのオーラが全身から漂っている。いじられたり怒られたりするのはいっつも私。でも今日だけは形成逆転だ。急に強くなった気分。なんだか楽しくなってきたぞ。

「知りませーん?愛の力じゃないんですか?」

 私は面白くなってひたすらに君をからかう。語尾にまるでハートマークが付いているかのような甘えた声で君を嬲る。こんな声が出るなんて自分でも驚きだ。やめろと言いながら恥ずかしがる君の顔はこれまでで一番赤かった。どんどん君が小さくなっていく。楽しいぞ。こんなやり取りを君とできる。間違いなく死んでからの私は幸せだ。


 ただ人に愛されてみたかった。それが生前の私の願い。死んでから満たされたよ。充分すぎるほどに。これがきっと私の現世での未練。ここにいられる理由。

 私は立ち上がってそっと君に寄り添う。恥ずかしそうに縮こまって座っている君と背中合わせになるように座る。体温を感じることはできないはずなのに、君の私より一回り大きな背中からは温もりを感じる。そんな気がした。今なら君に素直に言えるかな。ちょっと恥ずかしいけれども君に比べたらよっぽどましだよね。

 私は小さく息を吸い込む。そしてそっと君に聞こえるか聞こえないかくらいの大きさで呟いた。

「君に出逢えて本当によかったよ。ありがとう。」


 その瞬間、私の周りで光が弾けた。




 君は恥ずかしくて縮こまっている僕と背中合わせに座った。触れることのないその小さな背中。そこからは少しの温もりとたしかな切なさが伝わってきた。

 君がとても小さな声で呟いた感謝の言葉。ありがとう。僕はちゃんとその言葉を聞き取っていた。その響きに少し僕は照れて俯いた。

 その時、突然まるで蛍が飛び交っているかのように小さな光の粒が次々と君の周りを漂い始めた。その数はどんどん増えていく。触ろうと試みたが触れることはできない。何も無い空間から現れるその小さな粒たちはとうとう僕の狭い部屋一面に広がった。そして次の瞬間、一粒の光が弾けた。連鎖的に小さな粒たちが小さく音を立ててゆっくりと弾ける。その一つ一つからは温かい柔らかな光が溢れ出してくる。何が起きているのか僕には分からない。君も焦って慌てふためいている。こんなことは初めてだ。ただこの柔らかな光と小さな粒に包まれた君の姿はまるで、それはそれは美しい天使が僕を迎えに来たようであった。

 光の粒が次々と幻想的に弾けていく。弾けるときに鳴る音たちが徐々に音色を奏で始めた。とても優しい音色。初めて聞くメロディー。この世のものとは思えないその美しい旋律に僕は心が踊った。その音たちは鮮明に僕の頭の中に絵を描く。春の桜。夏の海。秋の月。冬の雪。四季折々の光景が目に浮かぶ。そう思えばとても賑やかな街並みが、田舎のあぜ道が、そうやって次々と音は表情を変えていく。光の粒が奏でる音楽は僕と君とを祝福しているかのようにも聞こえた。


 しかし僕はその時、あることに気がついてしまった。光が弾けるのと同時に君が少しずつだが透けていっているということに。君はまだそのことに気がついていないようだ。しかし確かに君の向こう側がうっすらとではあるが、透けて見えるようになっていた。今までそんなことは一度も無かった。僕の目には君がはっきりとこれまでは映り続けていた。僕は直感的ににある思考に辿り着いてしまう。必死に考えまいとするけれど僕の頭からその考えは離れようとはしてくれない。

 少しずつだが、確かに透けていく君の体。君もようやくその異変に気がついたようだった。自分の手のひらを君は眺めてそれを確認する。その異変をはっきりと自覚したであろう君。しかしその反応は僕とは大きく異なっていた。君は笑っていた。変わらず眩しいほどの美しい笑顔で。だがその笑顔が切なさと悲しみを裏に孕んでいることに気づけない僕ではなかった。きっと君も気づいてしまったのかもしれない。多分、僕と君の頭の中にあるのは同じことだと思う。


 幽霊と呼ばれる既に死んだはずの存在がこの世に留まり続けることのできるその理由。それはこの世に未練が残っているから。君の未練はきっと『他人からの愛情』。君はそれがとっくに満たされていたことに気がついてしまった。僕のあの叫びによって。未練が満たされてしまった幽霊が行き着く道はただ一つだ。それは、帰るべき場所へ、本来いなくてはならない場所へ帰ること。


 一度止まりかけていたはずの涙が再び僕の目からこぼれ落ちる。刻一刻と迫る別れの時。僕は君に何を伝えればいいのか分からなかった。

 まだ君と居たい。馬鹿な会話も、遠くへ一緒に行くことも、君からのイタズラだって、まだまだ足りていない。言いたい事は次から次へと溢れてくるのに口から言葉が出てこない。まるで喉元で言葉が何かでせき止められているようだった。何も言えず僕はただその場で立ち尽くすことしかできなかった。そんな無力な僕の頭をそっと君は撫でた。君は僕よりずっと落ち着いていた。優しく僕に微笑みかけながら君は言う。

「君との毎日はすごく、すごく楽しかった。」

「少しの時間しか一緒に居られなかったけれども、私は幸せでした。私のことはもう忘れて、ちゃんと愛してもらえる人を見つけて、その人を心から愛してあげてください。」

 悲しげな君の言葉に呼応して僕の中に溜まっていた言葉たちが体の外へ飛び出してくる。喉元で僕の言葉をせき止めていた何かはもうどこかへ行ってしまっていた。

「忘れるものか。絶対に君を忘れたりなんかするものか。僕も君と居られて幸せだった。君にたくさん幸せをもらった。君が居てくれたから、こんなにも楽しい日々が送れた。」

 嘘偽りの無い言葉。考えるよりも先に口から出たその言葉。その一言一言がずっと笑顔を崩さなかった君の頬に涙を伝わせる。震えた声で君は言う。

「最後くらいは泣かないようにしてたのに……。君は……ずるいよ……。」

 泣きながら怒る君。それでもなんだか君はとても嬉しそうで。そこは複雑に感情が入り乱れていた。


 こんなやり取りをしているうちにも君の体はどんどん見えなくなっていく。部屋に漂っている光の粒もあれほどたくさんあったのに大半が弾けてしまった。その数は既に数えられるほど少なくなっていた。

 君が僕の目の前に立つ。君の体はもうほとんど透けてしまっていて、向こう側が見えている。それでも君は既にその美しい笑顔を取り戻していた。また一つ、光の粒が弾ける。君は少しためてゆっくりと最後の言葉を紡ぎ出した。


「ずっと、ずっと、大好きだよ。」


 そう言った君は背伸びをする。そっと顔を近づけて君は僕の頬に口付けをした。僕が返事をしようとしたその時、最後の光の粒が弾けた。

 眩い光が部屋を覆う。思わず閉じたその目を開いて映った世界にもう君はいなかった。





 君がこの世を再び去って数週間。君といた夏は未だにはっきりと僕の脳裏に焼き付いている。今でもたまに思い出すと少し悲しくなってしまう。きっと君は僕のこんな姿を見たら喜び勇んでからかってくるんだろうな。それは癪に障るから精一杯明るく生きてやるよ。君にからかわれるのはもうあの一回で十分だ。君が居た頃と同じくらいにいや、それ以上に鮮やかな人生にしてみせる。だから安心して空の上から見守っていてよ。


 僕は筆を取った。一人の少女を描くために。白く長い髪の毛を携えた小柄な少女。白いワンピースを着て裸足で砂浜に立つ色白な少女。少し抜けてておてんばで、だけどとても優しい綺麗な少女。そうだ。砂浜には花を咲かせよう。白と薔薇色、二色の浜梨の花を一面に。絶対に忘れないように。



 音もなく灰色の世界がまた僕を包んだ。そこにはもうあの白はない。しかし空の「青色」だけはその世界でも鮮やかにどこまでも広がっていた--。



「僕も、ずっと、ずっと大好きだよ。」


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