錬金術!
薄汚れた木の洗面台に煤けたクローゼット。
この世界は衛生面に関して、とても進んでいるとは言えない。
毎日風呂に入れるのは、ほんの一握りの上流階級のみで、水浴びすらまともにできない人が殆どだ。
そんな中、裏手に井戸が併設され、自由に水を使えるこの宿は、かなり快適な部類に入るだろう。
『ヘル様、さっきから何をしてるんですか?』
自室の真ん中で木桶と睨めっこする私に、藍色チョウが不思議そうに尋ねてきた。
「人造魔法の練習よ」
正確にいうと私が凝視しているのは、木桶に張られた水の表面だ。
視線だけで全ての熱を奪い去る。
意識するのは、分子レベルの先の原子レベル。
神経を研ぎ澄まし、魔力を以て振動を弱める。
「凍れ!」
ありったけの念を込めて叫んだ。
しかし、水面には何の変化もない。
「なーんで、上手くいかないのよ!」
私が力任せに水面を叩くと、突然、右手に焼けるような痛みが走った。
熱っ⁉
肌の表面から白煙が上がり、ゆっくりと溶け出す。
「かぁ!」
声にならない悲鳴を上げた私は、そのまま床に倒れこんだ。
『ちょっ、ヘル様!大丈夫ですか⁉︎ 』
右手が肩口から解けだし、複数の金色蝶に分裂する。
天井付近を旋回した金色の蝶が、再び肩口に戻ってきた。
痛みが引いた腕を抑え、何とか立ち上がる。
「もー、どうなってるの?」
息絶え絶えの私が、水面に顔を近づけると、ツンと鼻をつくような刺激臭がした。
ん?これは酸?……何でこんなことが……。
私が生み出そうとしていたのは、虫魔法の弱点である熱や炎を克服するための魔法だ。
熱の正体である原子の振動を元から絶ってしまおうという大雑把な考えの元で試行錯誤を繰り返してきた。
その結果がこれだ。
「水が酸に変わった?これは……原子転換?」
私が天井を仰ぎ、ブツブツと呟いていると、階段を登る激しい足音が聞こえてきた。
「ちょっと、物凄い音がしたわよ?大丈夫?」
勢いよくドアを開け、一人の女性が飛び込んでくる。
宿屋の娘のリンダだ。
「あっ、リンダさん。煩くしてすみません」
謝る私の両肩をリンダがガッと掴んできた。
「あなた最近、危険なことに手を出していないでしょうね?ここ数日、変な男が出入りしているみたいだけど」
真っ直ぐに瞳を覗き込まれ、ゆっくりと目をそらす。
「いや、そんなことは……リックさんは良い人ですよ。私がケムルスに来る時には、馬車に乗せてくれたし……」
リック・ジェイル。
数日前から私の元を尋ねてきている男。
かつて、野盗に襲われて全てを失った彼に、魔法製のケミカルドラッグを手渡した。
「ふーん、まぁ良いけど。あんまり危ないことはしちゃダメよ?ここら辺は物騒だから」
「はーい」
私の快活な返事を聞き、リンダが部屋を出て行く。
その後ろ姿を見送り、深くため息をついた。
「やっぱり、宿内で魔法の練習をするのは無理があるかぁ」
『それはそうですよぉ〜』
「でも、人造魔法の練習は人目につく場所では出来ないのよねぇ」
木桶に溜まった酸性の液体を静かに見つめる。
卑金属から貴金属を生み出す錬金術。魔法が実在するこの世界でも未だ誰も成し遂げていない。
もし、成し遂げることができたら巨万の富を築けるだろう。
蜂蜜に魔法の粉。
お金になる要素は既に揃い、着実に軌道に乗っている。あと必要なのは時間だけだ。
しかし、私の周囲を取り巻く状況には未だ無数の不安要素が存在している。
正体不明の蛇人間に競争相手の姉たち。神然教徒の不気味な動きも。
……やっぱり、いざという時の切り札は必要よねぇ。
錬金術はとても一朝一夕で完成させられるような代物ではないが、幸いこれから時間だけはたっぷりとある。
……糸口は掴めたし、案外なんとかなるかもしれないわね!
そう思ったのはある春先のこと。
この一年後、私は自らの考えが甘かったことに気づく。錬金術の研究は私が思っていたよりもはるかに困難を極めたのだ。
しかし、その時には既に錬金術の魅力に取り憑かれており、抗うことなど出来なくなっていたのである。
◇◆◇◆
シルク王国には四季が存在する。
それは辺境の街ケムルスも同様だ。
季節は移り変わりは早く、瞬く間に時は流れた。
気づけば私がこの街を訪れてから、三度目の冬だ。
吐き出す息は白く染まり、冷え切った空気が肌を刺した。
「ああ、寒い……」
フードを目深に被った私は、喫茶店の一席に腰掛け、コーヒーを飲んでいた。
真っ黒なローブを身に纏い、待ち合わせの相手が来るのを静かに待つ。
ヘル・レンドルシー、14歳。
この三年で私の容姿は大きく変わった。
頬は痩せこけ、目の下には大きなクマができている。
ここ数年でまともに睡眠をとった記憶はなく、不健康そのものだ。
三年前までは肩口で綺麗に揃えていた髪も今では伸び放題。
背中まで届いてしまっている。
「あの兄弟ほんとに遅いわねぇ……」
私がコーヒーカップの底をじっと眺めていると、店の入り口から二人の男が入って来るのが見えた。
店内を見回し、私を見つけると、大股で近づいてくる。
「よぉ、嬢ちゃん。今日は珍しく機嫌がよさそうだな」
三年前から変わらず太った男、ベン・ネクルがニヤリと笑った。
「まるで、憑き物が落ちたようですぜ?前に会った時とは別人だ」
その後ろを弟のビン・ネクルがついてくる。
ネクル兄弟。
この三年で蜂蜜売りとして成功した二人の装いは以前とはまるで別物だ。
仕立ての良い豪華な服を纏っており、多くの宝石類を身につけている。
二人の事業拡大方法はかなり強引で常に同業者からの反発が後を絶たなかった。
しかし、扱う蜂蜜の品質が他とは一線を画した為、あっという間に消費者の心を掴み、勢力図を広げていった。
今ではケムルスの街だけでなく、その周辺や王都にまで手を伸ばしている。
敵の多い金持ちの典型だ。
「そんなに普段と違く見えるかしら?実は今朝、ここ数年開発に取り組んでいた魔法がやっと完成したのよ」
私がそう言うと同時にベンとビンが揃って辺りの様子を確認した。
「おいおい、嬢ちゃん。魔法の開発とかそんな簡単に口にするもんじゃないぜ?」
ベンが声のトーンを抑えて忠告してくる。
「そうですよぉ。今度また一人、有名な魔女が処刑されるみたいですし、ヘルの嬢ちゃんも気をつけた方がいいですぜ?」
弟のビンも何度も頷き、兄に同調した。
魔女とは神然教の教えで人造魔法を使う女性を指す言葉だ。因みに男性の場合は魔人と呼ばれる。
「また処刑?最近、本当に多いわね……」
「ああ、神然教が力を強めてきているからな。魔法を使うな、なんて馬鹿な教えがここまで浸透するとは思わなかったぜ」
ベンがやれやれと肩をすくめた。
数年前までは神善教一色だったシルク王国だが、ここ2、3年の間に神然教が恐ろしいスピードで広まっている。
その主な原因は間違いなくここ数年の不作続きだろう。
一番の被害を被った農民の殆どが魔法を使えない人々だったのだ。
元々、魔法使いとそうでない者との間には収入格差があったのだが、それが明確に表面化したことで人々の不満が高まった。
その捌け口として魔法使いの存在を否定する神然教は最適だったのだ。
「神然教だけでなく、神善教でも人造魔法は禁忌。処刑を止める者もいないので、奴らやりたい放題ですよ」
兄の真似をして大袈裟に肩をすくめるビン。
「まあ、次の処刑には邪魔が入るという噂ですけどね」
思い出したように言葉を付け加えた。
「邪魔が入る?」
「ええ。捕まった魔女の仲間が、公開処刑を取りやめなければ、街の住民を皆殺しにすると宣言しているらしいですぜ?」
ビンの言葉を聞き、眉をひそめる。
皆殺しなんて随分物騒な話ね……。
「まあ、噂の真偽は分からねぇが、注意するに越したことはねぇな。ゲヘヘ」
腹を揺らしたベンが豪快にワイン瓶を煽った。




