三、動き出しました
「カケル。そなたを もらいに来た」
一人の護衛も伴わず突然現われた美貌の王子の言葉に、自分の目と耳を疑うしか 為す術がない。
子どもの頃からのあだ名「真昼の月」そのままに、ぼうっと立ち尽くすばかりであった。
向き合った二人は正反対だった。
あくまで美しく華麗なクロウに比べて、カケルの容貌は、どこまでも普通だ。
何をするか分からない変人のクロウに対して、カケルは極めて常識人だった。
カケルが宮廷に上がってから昨年退官するまでの間に、儀礼的な挨拶を何度か交わしただけの関係である。
クロウの言葉は理解を超えていた。
「恐れながら、殿下は、私が退官した経緯をご存じないと存じます、私などが殿下のお役に立つことはございません」
一見して平凡そのもののカケルは、しかし有能な官吏でもあった。
若手の中では、群を抜いて有望視されていたのだ。
しかも 有能なだけではなく、その人物も評価されていた。
何事も自身で考え、大勢に付和雷同することなく いつも冷静であったが、頑固とか傲慢とは無縁であり、誰の意見でも良く聞いて、事に当っては柔軟に対処する。
しかも、他人の手柄を横取りすることが決してなかったため、安心して付き合えた。
有能さをひけらかすことのない謙虚な男だが、媚びへつらう事も、圧力に屈することもない。
大きな後ろ盾は無くとも、末は大臣になるに違いないと 誰もが思っていた。
国を任せて これほど安心できる人物も、他にいるまいと……。
しかし、それを望まぬ者が一部にいた。
カケルは、嘘も不正も許さなかった。
しかも、それを見抜く確かな力があった。
ある者から見れば、非常に煙たい人間 だったのだ。
ありていに言えば、はめられた。
事件をでっち上げられ、蹴落とされた。
カケルは有能ではあったが、ある意味純朴で、策謀を以って他人を落としいれようとする人間に無知だった。
若さゆえに そういう経験にも乏しかった。
カケルを信頼している人たちが救おうとしたが及ばず、罪一等を減じるにとどまった。
結果、投獄は免れたものの 謂れのない罪を着せられ、王宮を追われる羽目になったのだ。
罪人の烙印を押されたままの自分が かかわっては、迷惑になる。
断る以外に道はない。
「それは私が決めることだ。そなたは仕返しをしたくはないか」
壮絶な美貌が目の前に来た。
堪らず目を伏せたが、言葉はしっかりと返した。
「確かに口惜しい思いを致しましたが、それも 私の未熟さが招いたこと。防ぐことも 私のなすべき事でした。やすやすと追い落とされたことこそが、失敗でございます」
「合格」
クロウの手が差し延べられてカケルの顎にかかり、顔を上向かせた。
信じられないほど間近に美貌が迫り、カケルは、めまいを起こしそうになる。
「そなたが欲しい。私のものになれ」
カケルは 呻いた。
意味が分からず、言葉の返しようがない。
役者が違う。あらがう術を 知らなかった。
さらに迫ってこられた拍子に、耐えられなくなって、わずかに首が縦に動く。
「決まりだな。では迎えに来るまでに髭を伸ばしておけ」
「ひ、髭をですか」
「そうだ。ボウボウにしろ。人相が分からなくなる。私でさえ 無精ひげを生やしたら、気付く者がいなかった。あっ、頬かむりもしたがな」
カケルは クロウの無精ひげを想像しようとして、失敗した。
考えたくもなかった。
いったい この人は何をするのか、検討もつかない。
もしかしたら、大変な面倒に巻き込まれているのではないだろうか。
不安がよぎるが、もはや後の祭りだ。
やがて、クロウが一人の男を雇い入れた。
濃い髭が顔中を覆い、合わせるように髪の毛もぼさぼさなのが、宮中では異例である。
正式な官吏ではないため下官というわけにもいかず、個人的な下僕という扱いに収まった。
「執務室で動物を飼うのは駄目だ といわれたが、これなら犬の代わりになる。趣があって良い」
とは クロウの弁だが、犬というより熊に近い。
変人王子のすることは よく分からないが、この程度であれば、と さして気にする者もいなかった。
何事もなく無事に戻ってきたことだし、予想に反して おとなしく見えたことに安心し、変人といっても 省の長官ともなれば、無茶を出来ないのだろう。
新しく入れた下僕が髭男だということくらいは、なんでもない。
見た目はともかく、髭男が、口数も少なく穏やかな人物であることも、更なる安心の種だった。
ともすれば愚鈍に見える人の良さで 周囲にも程好くなじみ、愚痴も黙って聞いてくれる 聞き上手。
というより ほとんどしゃべらなかったから、なるほど犬の変わりになる、と警戒する者は どこにもいなかった。
この下僕が来てからは、裏で何をしているかはともかく、表向きクロウの奇行も すっかり影を潜めた。
公私にわたってこき使われているらしい髭男が、宮中をまめまめしくうろつくようになり、クロウは人前に姿を見せなくなった。
「そろそろだな。新官吏の登用試験も近づいたし、人が動く時期でもある。安心してボロを出してくるだろう。まずは 全部証拠を集めることだ。仕上げは私が指示する。それまでは早まるな」
これからが、クロウの目論んだ 大掃除の本番であった。
宮中に巣食って 私服を肥やす魑魅魍魎の 一斉退治。
各部署の掃除は、準備の小手調べに過ぎなかったのだ。
髭の下僕カケルが、さらに綿密な調べを続けていった。
はじめは こそこそした調査は苦手だったカケルも、次第に要領を得て 成果が着々と上がっている。
大物もいれば小物もいて、様々な悪さの証拠が揃いつつあった。
中務卿の執務室に訪れる者は めったにいなかったが、二人きりであっても、話をする時、クロウはカケルを傍に引き寄せた。
たいていは「もっと近くに」とでも言うように腕をつかんで、間近に目を見ながら話す。
カケルは慣れることなく、毎回どぎまぎすることになる。
離れようとすれば さらに引き寄せられるので、何とかしたいのだが出来ずにいた。
「は、はい。クロウ様の覚書が みな良い所を衝いているようで、大変助かっています。私の件を持ち出さなくても、遠からず一網打尽に出来るはずです」
クロウが さらに近づいた。
「何故 自分の件を持ち出さない。無実が晴れれば 名誉を回復できる。官吏に戻ることも可能だ。そなた一人では無理なら、私が また 無精ひげを生やして動いてもよいぞ」
顔がくっつきそうな近くから、目を覗き込まんばかりに見つめられ、息を吸うのが困難になる。
無精ひげは やめて欲しかったが、声が出ないので首を横に振った。
「…………」
不意に黙ったクロウの瞳に射すくめられて、身動きもかなわないカケルは、ささやかな違和感を覚えた。
クロウは、言おうとした言葉を飲み込んでいる。
非常に珍しいが、何かを我慢していた。
しばらく無言のまま見つめられ、窒息してしまうかと思った時、やっとクロウが離れた。
思わず 大きく息を継ぐ。
何を我慢しているのだろう。
それまでに知り得たことを総動員して考えてみたが、皆目 検討もつかなかった。
そして、クロウが予想したとおり、宮中の魑魅魍魎が動き始めた。
カケルが無口を通したのは、声から正体が知れるのを恐れた為だったが、それが意外な効果を発揮した。
まともに口もきけない愚か者に見られ、ほとんど犬並みにしか関心をもたれなかったのだ。
都合のよい仮面に隠れて、不正の証拠は 次々と簡単に手に入ってきた。
時には、棚からぼた餅が落ちてきたかのように簡単に。
すべてをクロウに報告したが、動かない。
訳が分からなかった。
不正を働いた官吏の証拠は 充分なはずだ。
このために、カケルを連れてきたのではなかったのか。
ここまで慣れないことに頑張ったというのに、ただの気まぐれの 遊びだったとでもいうのか。
(私は……弄ばれたのか……)
少々ずれた焦燥が、心を焦がす。
さらに三月。
それでもまだ続けろ としか言わないクロウに、カケルは逆らえないでいたが、もう限界だった。
「大掃除の仕上げは まだなのでしょうか。私の働きが足りませんか」
思えば、カケルのほうから積極的に話しかけたのは、初めてのことだった。
クロウは 例によってぐいと引き寄せ、カケルをひたと見据えて答えた。
「まだだ。そなたの件について確たる証拠が足りない」
「それを持ち出さなくても、他の件で不正の証拠は有り余ってございます。充分一網打尽に出来ます」
初めての明確な反論を聞いて、クロウは また何かを堪えている風に、しばらく押し黙って見つめていたが、ややあって、強い口調で 言い聞かせるように返答を返した。
「私が暴きたいのは、カケルの濡れ衣なのだ。ケチな贈収賄事件ではない。そんなことも解らないのか」
カケルは 何故だか 胸がどきんと鳴った。
それまで、己を保つことに苦心を重ねてきた。
いつでも冷静な判断が出来るようにと、工夫や修行を欠かさなかった。
ここに来て、それらが無駄になったような気がして しかたがない。
クロウの前に出ると、己を保つことも、冷静でいることも、難しくなった。
殺風景なほどに整理整頓された執務室の中で、カケル一人が どんどん取り散らかっていくようで、情けなかった。
「続けろ。命令だ」
顔がくっつきそうなほどの距離で念を押され、
「はい」
消え入りそうな声で返事をしてしまう自分が、悲しかった。
カケルは 調査の続行を命じられたものの、
具体的な当ても思いつかず、行き先も決めずに宮中を歩いていると、後から声をかけられた。
「落ち込んでいるようだが、どうかしたのか」
それ以上出世しそうにない 小役人だった。
中務省ではない。公園の管理をしていたはずだ。
自分では、いつもどおりに振舞っているつもりだったが、思った以上に落ち込んでいたらしい と気づいた。
つまらないことで人目を引いては任務に差し支える。
気をつけなくては と気を引き締め、ゆっくりと頭を振った。
「そうか。わたしが中務卿に直接お会いすることはないが、噂では 変わったお方だと聞いている。おまえは よくやっているようだ。他の者なら、とっくに逃げ出している頃だろう。気に入っておられるに違いない。気落ちせずに頑張りなさい」
カケルは 複雑な思いで、ゆっくりと頭を下げた。
その官吏は、調査対象に入っていた。
たいした職ではないから、はたらく悪事も些細な収賄だ。
ちょっとした便宜を図る見返りに、付け届けを貰う程度であるが、立派に規則違反であることに変わりはない。
優しい男のようだが、優しさは長所にもなれば 時に短所にもなる。
流されやすく、目上には逆らえない。
カケルは、内心でため息をついた。
うんうん と一人頷いて去って行く官吏の後姿を見送って、あれっ、と思った。
向かった先が不思議だ。
何故 あんなところに用があるのだ。おかしい。
しかも 心なしか そわそわしている。どうもきな臭い。
カケルに目的が出来た。