あの日の景色
京都―端の端。
元気な子供の笑い声が黄金色の小麦畑に響き渡る。
「サトシくーん!はやく、はやくっ!」
「待ってよー!いま行くからー!」
舗装もされていない砂利道を、子供二人が駆け抜けている。
「わっ!」
と、先を走る彼が砂利に躓き、転んだ。
「あっ、大丈夫タケルくん?」
「いたたたた……。だ、大丈夫だよ。」
そう言いながらもタケルと呼ばれた彼の膝からは、鮮やかな赤が滲み出ていた。
「これ、ほっといたらバイ菌入るよ?」
「大丈夫だってばこれくらい。ほら、行こう?」
「うん……。」
だがタケルの方はそんな事どこ吹く風である。まるで膝の怪我など無かったかのように、また駆け出して行った。
時が流れすぎ、子供たちはいつしか顔から笑顔を失っていた。
――タケルを除いて。
「なあ、おい。サトシ……、お前――」
「黙ってくれよタケルくん。僕は、僕は進学しなくちゃならないんだ。」
二人は受験生になっていた。もっとも、受験と言える受験をするのはサトシだけだ。タケルは、この村の小さな高校へ進学するのみ。サトシは――この村を離れる。
「サトシ……本当に行っちまうのかよ……。ここを、離れるのかよ……。」
サトシは煩わしそうに答える。
「ああ。だってこんなところにいたって仕方がないじゃないか。」
「な……なんで!」
「逆にさあ、タケルくん、考えないの?この村にいて、本当に幸せになれるか否かって。」
「……!おいサトシ……本気で言ってんのか……!」
「だってだよ?こぉんな辺鄙な、端くれみたいな村にいて幸福を得られると思う?」
――気付けば拳を振るっていた。
「……っざけんな!何が……何が幸福だ!何が幸せだ!お前は……いや……お前『ら』……何でそんな風に……っ!」
タケルは薄々感じていた。この村全体が、何か大きな力による『催眠』にかかっていることに。
でもそれはあまりにも強大で、あまりにも大きすぎて――何なのか分からなかった。
殴られたサトシは全く動じた様子を見せず、スッと立ち上がるとそのまま行ってしまった。
「何で……!何で分からないんだよ……!」
さて――幸福とは、一体何ぞや?
年月はあっという間に流れ去り、気付けばタケルは夕暮れ、東京のビル街に立っていた。
タケルはとっくに四十路を迎え、衰えも感じつつあった。
あの村で培ったやんちゃな経験と無鉄砲な性格がとても合わないと、猛反対した親を振り切って東京へ来たが――あまりにごちゃごちゃしていた。
京都で就職していれば少しは違ったかもしれないが、親から離れたい一心だったタケルにとってはそれは少し近すぎたのである。
それに――サトシの事もある。
サトシとはあれ以来連絡一つ無く、そのまま卒業、就職へと繋がった。
聞いた話によると、サトシは京都で大きな会社を経営しているらしい。大学を出てすぐに起業し、一気に大企業へと成長したそうだ。それが――幸せなのか?
タケルは未だ、真の幸せを探せないでいた。それでも――今は楽しいから良しとしている。
家に着き、ポストへ手を伸ばすと――嫌でも目に止まる、赤い色をした封書が入っていた。
なんだろうか。そう思いながら封を開けると――
「『地下都市計画』のお知らせ……?何だこりゃ……?」
内容を見ると、にわかには信じ難いものが書いてあった。
「近年の日本の自然災害を鑑みた結果、議員共々地下へ都市を移設する事が最善策だと見ております……?はぁ……?」
そんなバカな事があるのか……?
「現在、地下都市はほぼ完成されております。残る問題は国民の皆様の移動だけです。この封書は、地下への移動の際、必要となります。また、場所によって内容が変わっておりますので、決して混在させることのないよう、大切に保管してください。……俺たちの意思は無視かよ……。」
国民を第一に考えているようで、全く相手にされていない。
「この区域の移動日は……明後日の正午。国会議事堂の目の前にて……?仕事はいいのか……。」
今日会社に行っても、特にそんな話は出なかった。……デマか。
「全く誰がこんなイタズラを……。」
そう言いながらも、少し気がかりだ。タケルはその手紙を持ちながら、家の鍵を開けて玄関の棚に封書を置いた。
翌日会社に行くと、皆が口々に例の封書の話をしていた。
どうやら、これは本当の話らしい。現に、ニュースとしても取り上げられている。
「……という事から、地下への移動が如何に重要かを表していますね。」
「ええ、そうですね。これは……世界史に名を残すものとなるでしょう。」
コメンテーターが軽い相槌を打ち、そのニュースはそれで終わりとなった。
だが――タケルの中には何とも言えないわだかまりがあった。
移動日、正午。
集まった近所の人たちや会社の社員が、一心に議事堂を見つめている。そして――中から出てきたのは、鳥居秀満総理本人だった。
おかしい――そんな疑問を抱いているのはもはやタケルただ一人だ。いや……まさか、俺が『おかしい』のか……?
考えると何も分からなくなる。何が正しいのか、誤りなのか。
「では、皆さん。……大きな荷物は後に我々の方で安全に運ばせて頂きます。ご安心ください。え、そして……地下の家の配置は、地上と全く変わりませんので、自らの家であるとすぐわかるはずです。」
鳥居の説明を一通り聞き終わり、人々はゴンドラへの道を歩き、議事堂の横へと移動した。
議事堂脇の草むらから、厳重に閉ざされたハッチが見えるそこを開けると――少しずつ横幅が広くなっている階段があった。
「足下、お気をつけて。」
総理本人が前で先導し、ゆっくりと下る。そしてすぐである。大きな大きな、無機質なゴンドラが現れた。
「で、っけェ……。」
誰かが呟く。鳥居は先に先にと進む。全員が乗り込んだことを確認すると、ゆっくりと扉を閉めた。
地下への道はさほど長いわけではなく、一分ほどで着いてしまった。扉を開いた先に見えたのは――
「……あれ?」
先程とほぼ変わらない景色である。ただ、議事堂の部分はなく、ゴンドラを遠巻きにするような形で建物が立っていた。それはもう――
「……総理、本当に地下ですか?」
鳥居は勿論です、と言う。
「では、私はこれから他の地区の皆様を連れてこなければなりませんので。皆様のご荷物は、後で必ずお届け致します。」
そう言って鳥居はゴンドラに乗り込み、たちまち地上へ上ってしまった。
人々は多少不安がりながらも、それでも淀みない足取りで『我が家』を目指していた。
二週間ほどした頃、政府からたくさんの荷物が届いた。
そのほとんどは日常生活雑貨には関係の無いものだったが、どれも思い入れのあるものだった。
それらに思いを馳せる暇もなく、荷物はざかざかとやって来る。
タケルはまるで質屋の店長のように忙しくものを仕舞っていた。
そして、地上とまるで変わらない生活を送り続けて、二十二年が経過していた。
宮下健、六十四歳のこの日。
平和と幸福という言葉の催眠と誤魔化しに酔いかけていたその時。楠田坰という若者の行動によって、その全てを理解した。
「くっそ……!なんで……!なんでもっと早く気付かなかった!」
街のど真ん中のモニターから離れ、放送局へ走る群集に紛れて健は重い、重い後悔に苛まれていた。
今の話が全て本当なら――両親、仲間、そして――サトシは。
考えるだけでぞっとした。全て嘘であってくれ。だがしかし――
「……くっそ……!」
止まる。その真偽を聞いたところで何も変わりはしない。
健は泣いていた。六十を過ぎた、頭が薄くなった情けない男は、泣き崩れた。
心の底から泣いた。全てを、受け止めて。
そして――懐古の疑問が頭の中で反芻される。
幸福とは――何ぞや。
幸福とは――何気ない全て。煩わしい日常や、忘れてしまいたい思い出。そして――あの黄金色の小麦畑。……形じゃない、何か。
決して……金があっても。安全でも。そんな安っぽいものじゃ絶対にかえられない、それ。
人は幸福を失って、幸福に気付く。
健は泣き崩れたまま、動かなくなっていた。
後から人が見たとき、手には防御用の高圧銃が握られていたという。




