第15話 少し変わってるだけの普通の人
クオーレはため息をつく。
「相変わらず困った人」
「厳しそうな人を想像してたから、こっちとしてはありがたいよ」
「他人事みたいに言って。ヒロも当事者だってこと忘れてない?」
クオーレの恨めしい視線から逃れるため、グリーンの相手をしながら暇を潰した。
しばらくして、部屋に最初に入ってきたのはヴィエイールではなかった。まだ十歳くらいの少年が、危なっかしい足取りで、茶と菓子を乗せたお盆を運んできた。
青い宝石のネックレスをかけた少年は、クオーレと容姿が似ている。兄弟だろうか。そう聞こうと思ったが、クオーレは絶句していた。ただならない様子だ。
少年は茶と菓子をテーブルに置いていく。頼りない手つきで、落とさないように注意しながらだ。
「ありがとう」
終えた少年に声をかけた。少年は、恥ずかしそうにぎこちなく頭を下げた。
後ろで見ていたヴィエイールが、軽く拍手した。
「よくできました。さあ、そこに座って」
「その子は?」
「気になる?」
少年を向かいのソファーに促したヴィエイールは、楽しそうに笑い、クオーレへ視線を向けた。
「もう事情を話したの?」
クオーレはうなずいた。それくらいの反応しか返せないようだった。
「この子は、男の子のクオーレ。クオーレのために作り上げたもう一つの体」
この人は何を言っているんだ。
「本当は誕生日の贈り物にしようと思っていたけれど、今日はクオーレが特別な人を連れてきた記念すべき日。ずっとクオーレは暗い顔で過ごしていた。それが最近は少しずつ生き生きとしてきて、昔に戻ったよう。私も何かしてあげたくなって、連れてきちゃった」
冗談ではなさそうだ。
「どうしてこんなことを」
「わからない? 想像してみて、なりたい自分になれるとしたらと。もちろん飽きたら元の体に戻ることだってできる。素晴らしいと思わない?」
正気とは思えないが、正気を失っているようには見えない。これがヴィエイールという人なんだ。
クオーレが震える声でつぶやく。
「やめてって言ったのに……」
「クオーレ、自分の可能性に目を向けて。あなたは何にでもなれる。マーメイドになって大海原を旅することだって、ハーピーになってエリクシアまで羽ばたくことだって夢じゃない。だから−−」
「やめて! ……あ……」
水しぶきがテーブルに落ちた。叩きつけたクオーレの手の衝撃が湯のみを倒してしまった。
静まり返った場で、青色の宝石が揺れた。悲しそうな少年が必死に掃除しようとしている。だが、おぼつかない手つきでは布巾で拭くことさえままならない。
「ごめんなさい」
自然とこの場の全員で手伝った。
掃除も終わり、残りをガツガツゴクゴクと平らげたクオーレは、キッとヴィエイールを睨んだ。
「私はおばあ様とは違います。私は私でいたい。もうこんな真似はしないでください」
ヴィエイールも譲らない。
「何にでもなれる、それがあなたでいいじゃない」
「変わり続けたなれの果てになどなりたくはありません」
「私はあなたの恐れるような結末にならないと信じてる。他の誰も真似できない経験を、知れば誰もが羨むような経験を、一度も体験しないなんて。あなたは愚かな選択をしようとしてるのよ」
「違う、私は……」
クオーレは唇を噛んだ。
自分でいたい。以前の俺とは真逆だ。前世では、俺は自分でいたくなかった。変わりたかった。もしもあの頃にこんな話を聞けば、すがりついてでも頼んだかもしれない。
違う形ではあるが、俺は変わった。今ならわかる。もう変わりたくない。例え時間を遡って人殺しの事実を消せるとしても、このままでいたい。シロを悲しませたくない。クオーレにも大切な何かがあるのだとしたら。
「あの……」
思わず口を挟んでいた。俺なんかが何を言えるというんだ。でも、クオーレを放ってはおけない。
「もうやめませんか」
「あなたは関係ないでしょう。何様のつもり?」
ヴィエイールの目は冷ややかだ。
ごもっともだが、引く訳にはいかない。何様にもなってやろう。
「クオーレ、今日は帰ろう」
ヴィエイールはムッとしている。
「帰ろう? 帰りたいなら一人で帰ればいい。言っておくけれど、あの家はあなたの家ではないことは覚えておきなさい」
言い方がまずかったか。とにかくここから連れ出したい。その一心だった。
クオーレは、立ち上がって俺に微笑んだ。
「そうだね、行こう。
おばあ様、お話はまた後日ということで。今日はこれで失礼します」
「クオーレ……」
驚くヴィエイールを尻目に、クオーレは俺の手を取って歩き出した。
「……待って」
ヴィエイールは息を吐き、落ち着いた声で言う。
「二人とも、ごめんなさい。強制するつもりはなかった。こんなに強く拒絶されるのは初めてだったから、つい熱くなってしまった。
ヒロ君、こんな祖母は気にせず、クオーレと仲良くしてあげてほしい。お願いします」
「いえ、こちらこそ。失礼します」
グリーンを連れて、クオーレと一緒に部屋を出た。
クオーレの手はずっと震えていた。湖のほとりまで歩いてくると、クオーレは息をはいた。
「ついに言ってやった。おばあ様には返しても返しきれない恩があるのに」
クオーレは俺を見つめた。
「ヒロがいてくれたおかげ」
「何もしてないよ」
「いてくれるだけで違う。私の中のあなたは、おばあ様に引けを取らない大物だって知ってる?」
「そんなに買いかぶられると、あとでガッカリしないか心配になる」
引けを取らないのは、ある意味では間違いで、ある意味では当たりだろうか。魂とやらは俺でも、他は賢者製なんだから。そうだ、こう考えればもっと自信を持って行動できるかもしれない。
クオーレは湖を見つめた。その顔は少し影を帯びている。
「もう一度聞かせてほしい。私って、少し変わってるだけの普通の人だよね?」
「もちろん。少なくとも俺よりは」
「ヒロよりはって、なんだか微妙な感じがする。でも、ありがとう」
元気づけられるなら何度でも言おうと思った。