第1話 異世界へ
俺は他人が怖い。それでも高校卒業まではそれなりに生きてきた。薄い友人関係を築き、休み時間や組になって何かしなければならないときなどをやり過ごしてきた。
問題はその後だ。大学へ行っても、ろくな学生生活を送れずに学費を食い潰してしまいそうで、就職した。しかし、人間関係がネックとなって長くは続かなかった。
二十八歳の現在、警備員として働いている。アラサー、将来が不安すぎる。そんなときは妄想に耽るに限る。
遠い昔に胸に抱き、さらけ出してこっ酷く恥をかいた夢、正義のヒーロー。
「僕は将来、正義のヒーローになりたいです!」
小学校の作文でそう書いた自分をぶっ飛ばしたい。それからあだ名がヒロとなり、いじめとまではいかなかったが、いじられ続けた。軽はずみな言動に気をつけようと反省した。
しかし、まだ心の奥底に憧れが残っているのか、正義のヒーローになる妄想をすると心が落ち着いてよく眠れた。
今日も俺は布団の中で正義のヒーローになる。
……あれ。胸がめっちゃ苦しい、精神的なものではなくて肉体的に。やばい、これ絶対やばい、動けない。何であんな遠くで携帯充電してんだ。いやそれ以前に声が出ない。
もう駄目だ。死ぬなんてもっと何十年も先の話だと思ってた……。
目覚めたとき、透明な液体が満ちる水槽の中だった。助かったのか。そうだとしても、どういう状況なんだ?
ガラスの向こう側に、老いた男と若い女の姿がおぼろ気に見える。
「なぜ今頃になって目覚めたのだ」
俺を観察した男は、納得がいかない様子だ。年の数だけ苦労を重ねていそうなすわった目をしているからなのか、気圧される。
「……まあいい、当の昔に捨て置いた実験体だ、かまけてなどおれん。時間が惜しい、研究に戻らねば。
そいつの世話はお前に任せる。データを取ったら処分しておけ」
男は、女の返事も聞かずに部屋の出口へ歩いていった。
「かしこまりました、マスター」
事務的な声で、女はその背に向かって頭を下げた。
真っ白な髪の女は表情が乏しい。触れれば雪のように溶けてしまいそうな、幸薄そうな女には、あの男との間に何かわけがありそうだ。
いや、人の心配している場合じゃない。俺を見て実験体やら処分やら言っていた。危ない人にさらわれたに違いない。冗談じゃない、なんとかして逃げよう。
……俺の体、どうなってるんだ。まるで赤子のように小さな手だ。体中に管を付けられて見動きできない。
女がモニターを操作すると、水槽の液体が減っていき、管も取れた。
あれ、息が苦しくなってきたぞ。そうだ、呼吸してない。頑張れ俺、息をするんだ……!
泣き叫んだ記憶はあったが、いつの間にか女に両足を掴まれ逆さ吊りに運ばれていた。どうやら本当に赤子になってしまったらしい。夢だろうと何だろうと、痛いのも苦しいのも嫌だ。
この人ぞんざい。頭に血が上って死にそうだ、と思っていたら台上に転がされた。
女はじっと見つめてくる。
「どうしよう……」
そんなこと言わないで、不安になる。
「そうだ、育児の本を探そう」
女はどこかへ行ってしまった。
夢ならば覚めてくれ。そんな願いは叶わず、不幸にも俺の世話係になった女との生活が始まった。