10
おひさまが北風をおっぱらうようにしてあらわれて、森にあたたかな光がふりそそぐ。大地をおおっていた雪が少しずつとけて、すきまから青い草がひょっこり顔を出す。冬眠から覚めたくまが巣穴からのっそりあらわれて、かわいいこぐまをつれてのしのし湖へ向かう。春が、近づいているのだ。
まだひんやりとはなをくすぐる風を受けながら、僕はひとり森を歩いていた。
いつもの時間をすぎても僕の家にお客さまは来ない。好奇心おうせいなアンジェのことだから、森の景色がかわっているのをよろこんであちこち歩きまわっているのかもしれないと思って、僕は外に出てみることにした。
「アンジェ、アンジェ――?」
いつものぼる木を探しても、ふたりでつくったぶらんこを見ても、長いこと氷のはっていた湖に行ってもアンジェはいない。透明な牙みたいなつららのできるどうくつまで見にいったけど、どこを見まわしてもいなかった。
もしかしたら行きちがいになったのかもしれない。そう思って小屋にもどってみたけれど、だれかが来た様子はなかった。
「……おかしいな」
アンジェが森に三日も来なかったことなんてなかったのに。だいたいいつも一日おきにやってきて、たまに「せんせい」のご用事で二日あくことはあったけど、それだって前から知らせてくれていた。どうしたんだろう。僕は首をかくんとまげてうでを組んだ。
そうだ、ここのところあまりに風がすごかったから、ひょっとしておやしきから出られなくなってるんじゃないか。今日はこんなにあたたかだけど、昨日までは嵐みたいに強い風が吹いてて、外に出たらそのまま風と一緒に吹きとばされてしまいそうなくらいだったんだ。森のほうが西にあるから、アンジェの住むおやしきはもしかしたらまだ風になやまされているのかもしれない。森の外は広い畑ばかりで風をさえぎるものがないらしいから、きっとたいへんだろう。大丈夫かな。
僕はひとりで紅茶をいれて、窓際にすわって青い空を見あげた。
空は、真冬のどんよりと重くたれこめた灰色でもなく、こおるような寒々しい青でもなく、ふわふわとやわらかそうな雲の浮かぶまろやかで優しい青だった。
はやくアンジェと一緒に森を散歩したいな。雪がいなくなってすっかりかわってる森を見たらアンジェはどんな顔を見せるだろう。雪にうもれて見えなくなってた木の根っこを見て、あたらしく出てきた芽を数えて、僕らのいつものぼる木をちょろちょろはいまわるりすたちと遊ぶんだ。そうして上から森をぐるりとながめて、冬のあいだにすっかりひきこもってた子たちを見つけてはひさしぶりだねとあいさつして、手をつないでまわるんだ。
――楽しいね、エディ。
――うん、アンジェ。
そんなことを考えて、僕はうとうとと窓辺で目を閉じた。
❁
「春が来ーたー春が来ーたーどーこーにー来たー」
アンジェに教えてもらったうたをくちずさみながら、あちらのたんぽぽを、こちらのすみれを、むこうのやぐるま草をつむ。
「山に来ーたー里に来ーたー野にもー来たー」
そうして色とりどりのかれんな花々を集めると、僕は白つめ草とクローバーの花畑にこしをおろした。くきの長めなのをつんで、花と花をひっかけるようにくきをまわして、じくにするくきにくるくるまいていく。ところどころに先につんでおいた色のある花を編みこんで、くるくる、くるくる。
黄色と黒のしまもようの小さなはちがみつをもとめてぶんぶん羽根を鳴らしてる。白や黄色のちょうちょがはなびらのようにひらひら舞う。ぽかぽかとあたたかな日だまりで、僕はひたすら花を編んでいた。
――ほら、もうこんなにお花が咲いたよ。アンジェが見たがってた野ばらも白つめ草もたくさん咲いて、森にはお花のじゅうたんがあちこちにできてるよ。森には赤ちゃんがたくさん生まれて、うんとにぎやかになったんだよ。ねえ、アンジェ――
となりにいないアンジェに話しかけながら、僕はアンジェのための花のかんむりをつくる。かんむりができあがったらつぎは首かざりを、それもできたら指輪を、足輪を……
気づけば、僕のまわりは花輪だらけになっていた。見あげた空は赤く、おひさまは木にじゃまされてもう見えない。そのままおいておくとしおれちゃうから、湖に持っていって浮かべることにした。運ぶためにためしにかんむりをのっけてみたけど、アンジェのためにつくったものだから僕にはちょっと小さかった。
花束をつくって、お花のかんむりをつくって。
アンジェの好きな花を集めて、僕は森に天使が来るのを待っていた。
❁
つめの先の白いとこをたくさん集めたような花が広がって、元気なく風にゆれる。いきいきと緑のじゅうたんをつくっていたクローバーは、森をさんさんと照らすおひさまで日焼けしてかわいてた。もうすぐ暑い夏が来る。白つめ草の季節ももう終わりだ。
湖に浮かべたかんむりがいたむたびに花をつみに来て編んでいたのだけれど、こんなにしょんぼりしたお花じゃかんむりにしてもあんまりすてきにはできなさそうだ。このままじゃ、アンジェにプレゼントできないまま春が終わってしまう。
――どうしよう……
僕は白つめ草の中にしゃがみこんで、骨のあたるほっぺたを手のひらでおおった。色とりどりの落ち葉をひろいながら、白い雪につつまれた森をふみしめながら、春が待ちどおしいねとつぶやいていたアンジェ。僕はどうしてもお花のかんむりを見せてあげたかった。花の咲きみだれる森を見せてあげたかった。
いつもアンジェが遊びに来てくれるばかりで、僕は待つばかりだった。
アンジェが来られないなら、僕から会いにいこう。
日かげのほうのまだ元気そうな花を選んで、できあがったばかりのかんむりを頭にのせて、僕は森をぬけだした。
ふくろうの鳴き声と草をゆらす僕の足音だけが響く森の外は、どこまでも広がるような満天の星空だった。細い枝にもかくれてしまう小さな光をじゃまするものはうす布のような雲のほかはなにもなく、青い、赤い、白い星が、どこを見てもまたたいている。まるで金平糖を散らばしたみたいだ。
前に、アンジェが小さなびんづめの星を持ってきてくれたことがあった。手のひらいっぱいのあわくて甘い砂糖菓子に、僕はただただ見とれていた。
――エディは本当にかわいいものが好きね。
そう言ってアンジェは、折りまげた人さし指をくちびるにあてて、はやく食べないと手の熱でとけちゃうよと、少しこまったように首をかしげた。かわいいだけじゃなくきれいな音楽も生んでくれるのよ、としゃらしゃらと透明なびんをふりながら笑っていたっけ。
金平糖の浮かぶ紺の空の下では、見わたすかぎりの草原がしっとりと夜に染まっていた。森の深い緑とはちがうあざやかな草たちは、ひそやかな風にさらさらゆれる。僕はうっとりと息をついて、星明かりをたよりに歩きだした。
湖をのぞきこんでしまうまでは、ごくたまに森の外に出ることもあった。こどもたちが遊んでるのを木かげから見たり、森にはない野菜のなる畑の中を歩きまわったり、時間とともにかわっていく広い空をながめたりしながら散歩を楽しんでいた。
でも、暗くなると森にもどっていたから、夜の外ははじめてだ。夜にとけだしていってしまいそうなはちみつ色の月は森を照らすのとかわらない。だけど、さわやかな草原や、青に染まる黄金色の小麦の海は森ではけっして見ることのない色と大きさでもって僕にせまってくる。ひさしぶりの外はやっぱりきれいで、切なくなるほど広かった。
ささやかな風がやみ、稲穂たちのおしゃべりさえも聞こえなくなった。見あげると、森にいるときよりも空が遠く、天と地がはなれているようだった。なににもさえぎられることなく広がる風景の中で、動いているのは僕だけ。ふと、この道をいくら歩いてもどこまでも草原があるだけで、生きているのは世界でたったひとりなんじゃないかと、急に心細くなった。
でも、僕はアンジェに会いに行くのだから、ひとりじゃない。
僕のたったひとりの友達は、今どうしているのだろう。
アンジェは村で一番おっきな、雪みたく真っ白なおやしきに住んでるって言ってた。畑をつくったりしてる村の人とは全然ちがう家らしいから、きっと見たらわかるはず。この道の先では、月に照らされてあわく光るお城で緑の瞳の天使が眠っているんだ。
「男の子ってなにでできてる?ぼろきれやかたつむり、子犬のしっぽ、そんなものでできてるよ。女の子ってなにでできてる?お砂糖やスパイス、すてきなことぜんぶ、そんなものでできてるよ……」
アンジェと一緒にうたった外国の歌を、僕は緑の天使を想いながらたどたどしく歌う。優しくかわいらしいアンジェ。ときたま、強い言葉をつむぎ強い視線をよせるアンジェ。すてきなことでできている女の子にたいして、男の子がぼろきれでできている、というのはいかにも僕とアンジェに似つかわしい気がした。
ゆっくりと追いかけてくる月をふりかえりながら小麦の海をたゆたっていると、足もとになにか重いものがぶつかった。
「きゃああああ!」
「うわああああ!」
闇をつんざくさけび声におどろいて、僕は目を見ひらいてさけんだ。
……心臓が空まで飛んでいっちゃいそうなくらいおどろいた。どくどくおどる胸をおさえながら畑のさけめを見ると、小さな女の子がしりもちをついていた。その後ろからは、どうしたの、なにがあったの!と橙色の明かりが近づいてきている。
――しまった。夜だからだれもいないだろうと思って油断してた。
顔を見られないようにしなきゃ――でも、ころんだ子を放って去るのはいけないんじゃないか――そんなことを考えているあいだに、燃えさかるたいまつは僕の顔をまぶしく照らしだしていた。
「ばけものだ!」
「いたっ」
するどい男の子の声とともに、ぐあんと頭に重い衝撃が走った。頭がへこんじゃったんじゃないかってくらいのいきおいに首がたえきれず大きくゆれて、目の前がいっしゅん暗くなる。
「ばけものめ、村から出てけ!」
「やくびょう神め!」
ひゅんひゅんとつぎつぎに飛んでくるものをよけながら、僕はふらふらとゆらぐ世界の中、わけもわからないまま走った。
❁
「ひっく、ひっ……」
とめどなくあふれる水をそででぬぐいながら、僕は湖へ向かう。頭からつたう血を洗い流すためだ。石をぶつけられたであろうところから出る血は首をつたって服にまでしみこんでいた。服を傷に当たらないように慎重にぬいで湖にひたして、手のひらで水をすくって体を洗う。傷口に水がふれると、思わずびくりとゆれてしまうほどだった。
「いたい。いたいよう……」
僕、なにもしてないのに。
ぶつかってきたのはおたがいさまなのに。
びっくりしたのは僕もおんなじなのに。
どうして石なんか投げられなきゃならないの。
アンジェのためにつくった花のかんむりは、走っているうちにどこかに落としてしまった。真っ白の花にはきっと僕の血がべっとりついているだろう。今年最後の白つめ草だったのに――
頭がいたい。心がいたい。
悲しい気持ちがおさえきれなくて、僕は湖のほとりで泣きつづけた。
❁
はなびらが落ちる。
傷んで茶色くなったはなびらが、みずからの重みにたえきれず、音もなく落ちる。
春のはじめにつんだばらのつぼみはすっかりひらききって、花びんのふちにだらりとこうべをたれていた。アンジェが家に来たときに見せようと思ってつんだばら。アンジェがけがをしないようひとつずつとげをとったばらの花。真白のおくにほのかに桃色ののぞく可憐な花は、ひとつ残らずしおれてしまった。
細くとがった月の下、僕は背中を丸めて窓辺にすわりこむ。
――嫌われたのかしら……?
抱えたひざこぞうのあいだにうずもれて、アンジェと最後に会った日のことを思い出す。
あの日はたしか、小屋の前につもってた雪で雪だるまをつくったんだ。ふたりべつべつに雪玉をころがしてそれぞれの雪だるまをこさえて、どんぐりをうめて鼻にしたり、木の枝で手をつくったりした。
――こっちのおっきいのがエディで、ちっさいのがわたしね。
――じゃあ、こっちの子にはアンジェとおそろいにリボンをつけてあげようか。
――それじゃ、こっちの子にはぼうしとえりまきね。
動いているうちに暑くなって木にかけておいた深緑のマフラーを雪だるまにくるくるまいて、アンジェは楽しそうに笑う。すべてが白にそまる中、こしまでのびた金の髪がまばゆくゆれていた。なめらかな髪にはらはら雪が舞いおちて、白いちょうちょがとまってるみたいだった。
ううん、僕たちはいつもどおり遊んで、お話をして、あの大きな木の下でダンスをおどったじゃないか。いつもどおり、仲良く、楽しく――。そして、いつものとおり日が暮れる前にまた明日ねと手をふった。けんかも言いあらそいもしてないし、そんなはずはないはずだ。
……でも。
かべにかくれながら、こっそりと窓の外を見あげる。ねこのつめのように細い月は夜をおおう天幕のかぎざきだ。幾億の星がきらきらまたたく中で、月はさやかに暗い森を照らす。夜の空に凍りついた白い月は、細くうっすらと、冷たく笑っているように見えた。僕はひざをかかえて、外の世界から目をそらす。
――だって、僕はばけものだもの。




