30話
「終わったぁ~」
ようやく、明日分のテスト勉強が終わった。
あたしは今まで握り続けていたシャーペンを放り出し、ぐーっと伸びをする。すると、腰の辺りがパキポキと軽快な音を上げた。まぁ同じ姿勢だったから仕方がないか。そう思って机に広げたノートをしまう。
これで明日は大丈夫かな? 解けなかった問題もないし、不安要素も全部潰すことも出来た。全部、アイツに教えてもらってのことだけど。今日の手応えを見るにしても、アイツに見てもらえたからテストに関しては問題なさそうだ。
まぁ、次に大きな夕食を作るが待っているんだけどね……。
「な~んであんなこと言ったのかな~……」
その事を考えると、無意識にため息が溢れてしまう。
今考えても理不尽ないちゃもんだったけど、今日は楓が夕食を作る手筈に――否、そう仕向けることに成功した。これで後顧の憂いもなくテストに集中出来ると思ったのに、アイツのお陰で計画がご破算になってしまうし……。
てか、何故かアイツはあたしの肉じゃがを要求してきたの? 楓が居るんだから、あたしが作るよりももっと美味しいモノを出してくれるでしょ。
まして、アイツが『不味い』って酷評した肉じゃがを要求する辺り、何か裏にあるとしか思えない。
何が目的? 楓にも食べさせて更に酷評させるの? それとも楓とのレベルの差を見せ付けたいの? それとも楓に手解きを貰えとでも言いたいのかしら……。
『不味いってだけで、お願いしちゃ駄目なの?』
黒々とした理由を考えてると、ふとアイツの言葉とその顔を思い出した。
あの時の不安そうな顔。そして、近くで聞いていたから分かった若干震えていた声。それは、昨日泣きながら肉じゃがを掻き込んでいた時の雰囲気に似ていた。
「っ……」
その瞬間、またもや胸を締め付ける圧迫感に襲われる。胸をギュッと押さえてみると段々と小さくなっていくが、いつまでも燻っている炎のようにも消えることはなかった。
これは『アイツの泣き顔を見たくない』と言う感情が引き起こしている。原因は分かっているのだが、どうしてそのような感情が芽生えているのか、どんなに考えても分からない。
何で分からないって言われても、今までこんなこと体験したことなかったのだから仕方がないとしか言えない。むしろ、こっちが聞きたいくらいだ。
『この感情は何?』って。
「だぁー!! 考えるのやめやめ、っぇ!?」
悶々とした頭を空っぽにするために伸びをしたまま倒れこんだら、何か固いものに当たってしまう。その痛みに変な声を上げると、同時に頭上で何か固いものが倒れる音がした。
どうやら、側にあった机にぶつけてしまったみたい。痛みが走る腕を庇いながら、ゆっくりと身体を起こして机の上を見る。
そこには備え付けの電気スタンドの足元にデジタル時計と、古ほけた写真たてが前のめりに倒れていた。たぶん、机にぶつかった際に倒れたのはこれらだと思う。
今時、写真たてで写真を飾るなんて珍しいわね。スマホとかで撮るから写真を現像するなんてあまりしないのに。
そんな写真を写真たてに入れて机の上に飾るってことは余程気に入っているのか、大事な人が写っているのかな。
まぁ、このまま倒しておくのも忍びないし、直しておこう。そう思って、写真たてに手を伸ばした。
―ドダッ!!―
その瞬間、ものすごい音ともに床が揺れた。突然のことに地震かと身構えたが、それ以降音も揺れも来ることはなかった。それが分かり、安堵の息を漏らす。
てか、下でものすごい音が聞こえたってことは、アイツと楓の仕業かしら?
「何やってんだか……」
ため息をこぼしながらアイツの部屋を出て、1階に降りるために階段へ向かう。すると、1階からドタドタと走るような足音が聞こえてきた。
階段から1階を見下ろすと、ちょうどアイツが2階に上ってくるところであった。
「すごい音したけど、何やったの?」
「なぁ~に、ちょっと楓がヘマやらかしただけだよ」
ヘマやらかしたって、楓は確か夕飯を作ってるんだっけ? 夕飯作るときに何か失敗したのかしら?
「心配しなくて大丈夫だよー。それより、そろそろ時間だから肉じゃがの用意よろしくね~」
アイツはそれだけ言うと、足早に階段を駆け上り自分の部屋に入っていった。
……何か、妙に白々しいわね。まぁ、楓にでも聞いてみようかしら。そう結論付けて階段を降り、楓がいる台所へと向かった。
「ん、比佐久か?」
台所に入ると、エプロンをつけた楓がことこと煮える鍋の前に立っていた。その傍らに置いてある器には綺麗に盛り付けられたほうれん草のお浸しが鎮座している。……普通に美味しそうなのが癪だわ。
「失敗した訳じゃないのかぁ……」
「お前は何を期待してたんだよ……」
無意識に漏れた言葉に楓は顔をしかめる。まぁあれだけ豪語したんだし、これくらい出来て当たり前か。でも、さっきの音は何だったのだろう?
「さっきの音? 当麻が勝手に滑って転んだだけだよ」
「え? さっきアイツは楓がヘマやらかしたって言ってたけど……?」
あたしの言葉に、楓はこちらを振り向いて不満そうな顔を向けてきた。甚だ遺憾である、みたいな表情してる。ん? てか……。
「あんた、頬が腫れてるわよ? 何かあったの?」
「何でもねぇよ。アイツが倒れたときに助けようとしたら頬に拳が入っただけだ」
楓はそれだけ言うと鍋の方に向き直り、ことこと煮える鍋の様子を見始めた。ん? 何かさっきよりも身体の角度が違うな。
まるで、腫れている頬を見せないようにしているみたいだ。
「つうか、お前さっさと肉じゃが作れよ。俺は9時ぐらいに帰るなんてまっぴらごめんだぞ?」
「なぁ!? そ、そんなに時間がかかる訳ないでしょ!!」
今は6時を過ぎたぐらい。ここから9時までとかどんだけ時間がかかるって思ってるのよ!! 確かに昨日はだいぶ時間がかかったけども……。
「因みに、今回も手は貸さないからな」
そう言った楓は軽くニヤけながらその場をどき、手でシンクの方へ促してくる。明らかにバカにしてやがるなこのやろう……。
昨日は何年ぶりかの台所で戸惑っただけだし、昨日作ったやつだから行程は分かってるし。大丈夫、昨日みたいに失敗はしない。
そう腹をくくり、側にある包丁を手を伸ばす。そして、自らの覚悟を決めるために高らかに宣言した。
「よろしい、ならば戦争だ!!」
◇◇◇
「……んで、高らかに宣言なされた少佐どのは何故机に屈伏しておられるのですか?」
「うっさいバカ」
机に屈伏していると横から楓のねちっこい声が聞こえた。こいつ、明らかにバカにしてやがるな……。
「な、何かあったの……?」
前方からアイツの声が聞こえた。その心配そうな声色に、大丈夫だと手を上げながら視線を上げる。無論、顎を机に付けてだが。
前には心配そうに覗き込むアイツ、そしてその前に並ぶ色鮮やかな茶碗蒸しとほうれん草のお浸し、そして茶色い大根おろしのようなものがまとわりつく物体Xが鎮座している。
「これはこれは、まっこと見事な牛肉と人参のみぞれ煮でございますね」
「え、これ肉じゃがじゃないの?」
わざとらしくそう宣う楓に、それを訝しげに何故かあたしの方を向いてくるアイツ……。
「あぁそうだよ!! 物体Xはあたしが作った肉じゃがだよコンチクショー!! 」
昨日あれだけ失敗した肉じゃがを教訓に、今日は細心の注意を払って調理に挑んだ。楓のノートに書かれていたことは全て頭に叩き込んでおり、実際に調理中に気付いたことも加味して挑んだのだ。
なのに、出来たものは昨日とほぼ変わらない代物……ようするに失敗したの!! あれだけ大口叩いてキッチリフラグを回収してしまったのよ!! どう見てもあたしには才能がありません本当にありがとうございました!!
くそー!! どうしても調理中にじゃがいもが煮崩れしちゃってドロドロになっちゃうし、牛肉は箸で鍋の中を転がしているうちに丸くなって固まっちゃうし……。スナップえんどうなんか昨日よりもどす黒く変色しちゃってるし。むしろ、熱で熱せられて中身が飛び出してるし……。
あれ、これって昨日よりも失敗してね?
「まぁまぁ、取り敢えず時間も遅いしとっとと喰おうぜ」
壊滅的料理スキルに絶望しているのを見かねてか、楓がそう言いながら茶碗を取りだし始める。時間を確認したら7時となかなかいい時間。
……今さら愚痴っても仕方がないか。今回は失敗した。うん、それでいいよもう。さっさと片付けて帰ろう。
「んじゃあ、いただきまーす」
楓からご飯を受け取ったアイツは嬉しそうに顔を綻ばせると、早速箸を付け始めた。嬉しそうだな……。
それを眺めながらお茶をすすっていると、目の前に手が伸びてコトリと蓋がされた茶碗が置かれた。
「……何?」
「お前の茶碗蒸しだよ。腹減ってるだろ?」
あたしの言葉に楓はさも当然のようにそう言ってくる。その言葉を受けて茶碗蒸しを見ると、急に空腹が襲ってきた。
昨日、アイツにご飯を作るってことで頭が一杯で、自分の分を考えていなかったんだよね。結局何も食べずに寝ちゃったから、割りと辛かったのを覚えている。
……考えてるだけじゃ腹は満たされない。ここはありがたくいただこう。
「いただきます」
楓の方を向きながらそう言って、茶碗蒸しの蓋を開けた。
蓋を開けた瞬間、芳ばしい香りが鼻孔をくすぐった。中を見ると、艶やかに光る卵が絨毯のように敷き詰められ、所々鮮やかな朱色の海老、出汁をこれでもかと吸った車麩が顔を出している。
その見た目にしばし呆然とした後、スプーンで掬って口に運んだ。
……文句のつけようがないくらい美味しい。出汁を吸った卵のトロトロと、程よく火が通ってプリプリのとした海老が互いの良さを引き出し合ってる。車麩のフワフワとした食感に噛み締めると溢れ出す出汁がまた何とも言えない美味しさを醸し出す。
普通にお店に出せるレベルだよこれ。プロが作ったって言われたら普通に騙されるわ。何なの? こいつ本当に男子高校生なの? どっかの旅館で修行でもしたの?
この後に肉じゃがを食べられると考えると何か怒りが込み上げてくる。
「ふざけんじゃないわよ、美味しすぎるわこのやろう」
「誉めるか貶すかどっちかにしろ」
素直に気持ちを表現したら一蹴されたでござる。アイツも美味しそうに茶碗蒸しを頬張っているし、憂鬱だな……。
ほうれん草も食べたけど、こっちはシャキシャキとした歯応えにほうれん草の甘味と醤油と鰹節の塩辛さが見事にマッチしてて美味しかった。食べた後に変な文句を言ったら無視されたけど。
とまぁ、そんな感じで粛々と食事が進む。
「……お茶入れるわ」
茶碗蒸しを平らげるにあたって湯飲みが空になったので、お茶を入れるために立ち上がる。他の二人の湯飲みも空になっていたのでついでに回収しておこう。因みに、アイツはすでにあたしの肉じゃがに手を付けているが、何も言っていない。
……何かデジャヴを感じるわ、これ。
そんなことを考えながら、急須にポットからお湯を注ぐ。
「いや~不味いわ~」
後ろからアイツの言葉が聞こえた。無意識のうちに動きが止まるが、しかしそれも一瞬だけであった。
『ほら、やっぱいそうだ』
分かっていたことだ。楓の茶碗蒸しを食べた後じゃそう思われても仕方がない。今さらどう酷評されようが反論する気も起きないわ。
ただ、また泣いてなければいいけど。
「っ……」
その瞬間、またあの圧迫感が襲ってくる。それと同時に、振り向きたくないと言う感情が生まれた。
『アイツの泣き顔を見たくない』からだ。
でも、振り向かなくてはならない。ここで余計な気をかけたくないから。これ以上、惨めな気持ちになりたくないから。
「……不味くて悪うございましたね!!」
自分に喝を入れるためにわざと大きな声を出して振り向く。そのまま、泣いているであろうアイツの顔を真っ直ぐ見据える。
予想通り、アイツは泣いていた。
いや、正確には泣きながら笑っていた。
作った笑顔ではない。目から涙が溢れるも、それを感じさせないほどアイツは満面の笑みを浮かべていた。
そこに、昨日苦しそうに涙を流しながら肉じゃがを頬張っていたアイツの姿はどこにもなかった。
「笑いながら言っても説得力ねぇな」
涙を溢しながら肉じゃがを摘まむ楓が呆れたように呟く。それにアイツは笑顔のまま涙を拭い、再び肉じゃがに箸を伸ばし、口に運んだ。
「うん、やっぱり不味いわ~」
なおも、アイツは言う。その目から溢れる涙は止まることはない。
しかし、その顔には昨日見た苦痛の表情はなかった。
「どうした?」
「……な、何でもない」
アイツを見て立ち尽くしていると、楓が覗き込んできた。何も考えられなかったのでそれだけ言って、動揺を隠すために湯飲みにお茶を注ぎ込む。
アイツの発言に、何も思わなかった訳ではない。むしろ、昨日よりも冷静だったから、文句などいくらでも思い付いた。でも、反論出来なかった。反論するよりも先にまたあの圧迫感が襲ってきたからだ。
いや、本当にあの圧迫感か?
そう自身に問いかけると、無意識の内に手で胸元を掴む。ドクドクと、心臓が脈打っている。しかし、それはいつもよりも幾分か速いような気がした。
それと、胸の奥からじんわりと込み上げてくる暖かさ。それはとても心地よく、胸から身体全体へとゆっくりと広がっていく。
何なの? この感情は?
「ありがとう~」
お茶を満たした湯飲みを二人の前に置くと、アイツがそう言った。その言葉に思わずその方を振り向くと、アイツとバッチリ目があった。
その瞬間、身体中に広がっていた暖かさが一気に顔に集まった。
「っぇ、お、お礼を言われるほどでもないわ!!」
突然のことに思わず叫んでしまった。呆けた顔のアイツからすぐに顔を反らす。
顔が熱い。たぶん、真っ赤になっている。それに合わせて、鼓動がさっきよりも速くなっている。熱で思考が纏まらない。こんなことになるのは初めてだ。
もう、何か何だか分からない。自分自身のことなのに何も分からないことが腹立たしい。
本当に何なの? この気持ちは。
「そそそ、それに!! 不味いならあたしが食べるわよ!!」
「あっ!? ちょっ!!」
胸に込み上げてきた怒りに任せてそう叫び、アイツが持つ肉じゃがを強引に引ったくる。アイツに八つ当たるのはお門違いだけど、そんなことを考えてる余裕なんてある筈がない。
肉じゃがを取り替えそうとアイツが手を伸ばしてくるのを片手であしらいながら、器にあった箸を掴む。こうなりゃもうヤケだ。どれだけ不味いのか、自分で確かめてやる!
そう腹を括り、投げやりに肉じゃがを口に放り込んだ。
……あれ? 倒れない? 何で? いや、むしろ――――
「美味しい……」
噛み締めた瞬間、無意識の内にそう口から溢れていた。
数年前に家族全員を病院送りにした、昨日アイツに泣くほど不味いと言わしめたあたしの料理。
センス皆無のあたしが四苦八苦しながら作った、レシピノートとにらめっこしながら作った、見た目からして失敗作だと肩を落とした料理。
十中八九不味いとされた料理が。
「普通に美味いだろ?」
器を持ったまま固まっていると、楓は器から人参を摘んで口に放り込んだ。咀嚼しながら浮かべる表情に、『不味い』と言う文字は微塵も感じられない。
楓の様子を見て、確かめるようににもう一口肉じゃがを食べる。しかし、先程浮かべた感想が覆ることはなかった。
「何で……」
「そこは素直に喜ぶところじゃねぇのかな……。てか当麻、これ普通に美味いだろ」
「いや、俺からすれば昨日と変わらないからね~」
肉じゃがを不味いと言い放つことが信じられないと言う顔の楓と、昨日と変わらないから不味い、と誤魔化さずにそう言ってのけるアイツ。
待てよ? アイツが『昨日と変わらない』って言ったよね。
それってつまり、昨日も同じぐらい不味いってこと?
『味だけをひたすら追求したものと、相手のことを想って作ったもんとじゃ、その差は歴然だと思うぜ?』
その瞬間、以前葉月のクッキー作りを手伝った際に楓から言われた言葉が頭を過った。
家族全員を病院送りにした時、あたしは誰が何を食べたいかなどを聞かずに勝手に献立を作り、味や見映えばかりを気にして作っていた。
しかし、今回はアイツへの借りを返そうと、アイツが望むものを作るよう善処した。たとえ、どれだけ見映えが悪かろうが、どれだけ納得のいくモノが出来なかろうが、アイツが望めば躊躇はするものの必ず提供する心積もりだった。
それはつまり、『食べてくれる人の事を想って作った』ということじゃないか。
そう頭の中で整理がつくのと、器を机に置くのが同時であった。
「いや~、不味いなぁ~」
器を置いた瞬間、そんな声と共に横からアイツの箸が伸びてくる。箸は茶色い大根おろし―――グスグズに煮崩れたじゃがいもを掬って、アイツの口へと運んでいく。
運ばれたじゃがいもが口に入った瞬間、アイツは涙を流しながら恍惚の表情を浮かべる。そこに、作り物の空気は感じられなかった。
あたしの料理でも、人をこんな表情にさせることが出来るのか。
それが分かった途端、堪らない嬉しさが込み上げてきた。たぶん、初めて料理を認めてもらえたことへの嬉しさだと思う。
その次に現れたモノは、あの気持ち。
ジンワリと身体を包み込んでくる暖かさ、胸の奥をキュッと締め付ける苦しさ、お腹の底から沸々と沸き上がる熱い何か。
それらは、アイツの顔を見ると活発に動き出す。目が合うモノなら火山の噴火に等しい勢いを出す。
理由は分からないにしろ、アイツが関わっているのは確かだろう。
結局、その後は3人でご飯を食べ、後片付けをした後何事もなく帰路についた。
しかも、昨日よりも更に良く分からないモノが増えることとなり、状況は好転することなくむしろ悪化してしまったから、肩を落としたは言うまでもないだろう。
まぁ唯一良かったことと言えば、次にアイツに料理を作るのが楽しみになったことぐらいかな。




