22話
「……ここ、何処?」
目を開けたら視界は靄がかかったようにボヤけています。頭を上げようとしたら、後頭部に痛みが走りました。動かすことはよした方が良さそうです。頭を動かせないので、少し体勢を変えながら辺りを見回してみます。
そこは何処かの部室みたいでした。
灰色のコンクリート作りの天井に這うように組まれた無骨な鉄骨が見え、蜘蛛の巣がそこら中に張り巡らされているのが見えます。横には古ぼけた机やいすが乱雑に置かれていました。
あまり掃除されていなかったのでしょう。埃と湿気を含んだ気持ち悪い空気が鼻を刺激し、制服のワイシャツは砂埃で白が灰色に変わるほど汚れていました。
何でこんなところにいるんでしょう?
私、荒瀬伊冬は頭の中にそんな疑問が浮かびます。
確か、いつも通り朴月さんたちの部室で待っていたら、優く……宿木優成が突然入ってきたんでしたっけ。そして、そのまま今までの事件が全部自分がやったと暴露して、そして問い詰めている最中に姿月さんが飛び込んできて……。
と言うか、あの口ぶりからすると、姿月さんは宿木優成と何処かで会ったのでしょうか? 後で問い詰めないといけませんね。
姿月さんが入ってくると、宿木優成は友達にでもあったかのように挨拶してそのまま二人の会話にもつれ込みそうになりました。その時まではなるべく感情を表に出さないようにしてたのを、わざと声を低くして話を戻したんでしたっけ。
そして、後から入ってきた人たちの前で、改めて自分が犯人であると暴露。案の定、姿月さんたちは声を上げられない様子でした。
いや、姿月さんだけはすぐに我に返えりましたけど、そこから続く宿木の暴露に同じようにかたまってしまいましたっけ。そして、その暴露を聞いていく内に私は悟ってしまった。
『もう、あの頃の彼は居ない』と言うことを。
それを悟った時、顔の筋肉が次第に緩んでいくのを感じました。恐らく、あの時の私の顔は酷かったでしょう。
その後、宿木優成は私を貶し始めました。いや、正確には昔の彼を―――――私の目標を。
その直後のことはあまり覚えていません。頭の中が真っ白になり、それと同時に怒りが吹き出しました。もうなにも考えられない、あの時真っ白だった頭に唯一あったことは、『この男』の口をどう抑え込むかだけでした。
結果的に、私は宿木優成の顔を殴っていました。本気で吹き飛ばそうと思ったぐらい、私の全力を彼にぶつけました。まぁ私の細腕なんかじゃそんなことできませんけど。
第二十四条、『生徒間での揉め事は話し合いで解決すべし』って言いましたっけ。初めて校則を破ってしまいました。風紀委員の風上にも置けませんね、私。でも、今思えばそんなことなどどうでもいい話です。
『宿木優成を更生させる』と言う目標を失った今、私が風紀委員にいる意味などないのですから。
「悔しいな……」
自然と、私の口からその言葉が零れました。そして頬を伝う涙が、薄汚れたワイシャツの襟を濡らしました。
今まで掲げていた目標が一瞬の内に崩れ去ったことが、こんなにもやるせなくて、こんなにも悔しくて、こんなにも……――――
「悲しいこと、だったんだな……」
恰好良くて、たまに格好悪くて、乱暴で、でも優しくて、意地っ張りで、時たま素直で、勇気があって、怖いもの知らずで、心配をかけられて、心配をかけて、憧れで、目標で、何より……――――
「好きだった」
あの頃に……もう、戻れない。
「やぁ荒瀬、気が付いたんですね」
不意に聞き覚えのある声が聞こえきました。それと同時に、何者かに身体を掴まれます。
しかし、今の私に抵抗しようと言う意思はありません。されるがままに上体を起こした私の前に、黒い影が掛かったので、ゆっくりと顔を上げました。
「に、錦……木……さん?」
「おはよう」
錦木さんはいつもの柔らかい笑みを浮かべてそう言うと、ゆっくりと近付いてきました。いや、いつもと違います。浮かべている表情は、纏っている雰囲気はいつも通りではあります。
だけど、目が全く違いました。
いつもの柔らかいもの言いの中で、目だけが不自然に冷たく、見透かせないほど濁っていました。
「錦木さん、本当にやっちゃっていいんすか?」
そんな怪しい目の錦木さんに、一人の男子生徒が興奮気味に問いかけています。いや、男子生徒なのでしょうか? 彼のその姿に私は首を捻ざる負えません。
改造し放題で原型を留めてないですが、彼等が着ているのは間違いなくうちの制服です。金、赤、青、緑と明らかに染めている髪に、何故原形をとどめておけるの疑問になるほど付けられたピアスやタトゥー。今ざっと見ただけで三十個は校則を破っています。
「こ、校則違反です……。すぐ戻しなさい……」
自然と、私の口から洩れたその言葉は、途中でゲラゲラと言う複数の下品な高笑いによって掻き消されてしまいました。
錦木さんに一番近い男子生徒をよく見ると、その後ろに彼と同じような格好をした男子たちが同じように笑っていました。いや、その中にはしっかりとした制服を身にまとった生徒もいました。しかし、そのような恰好のものの左腕にはもれなく『風紀委員会』の腕章が付けられていました
目測でおよそ15人前後、と言ったところでしょうか。
「先輩、今の状況で校則云々言ってる場合です……?」
不意に横から呆れた声が飛んできました。振り向くと、私と同じように制服を汚して地面に転がっている比佐久さんが呆れた顔で見つめていました。その身体は縄みたいなもので縛られています。
「比佐久さん……ど、どうして」
比佐久さんの姿に、私も自分の身体を確認します。やはり、彼女と同じように縄できつく縛れています。自分では身動きが取れそうにないです。
「出て行った先輩に追いついて慰めていたら、こいつらに襲われたんです」
襲われた……? えっと、私が部屋を出て行った時のとこですよね?
確かあの時、宿木優成を殴った後、真っ白だった頭が急に冴えてきましたっけ。そして殴られたのに何もしてこない宿木優成に何だかやるせなくなって、あの部屋から逃げるように出ていきました。
いや、正確にはあふれ出てくる涙を隠すために出て行ったんでしたっけ。
部屋を飛び出した私はがむしゃらに走って、誰もいないであろう階段の踊り場でしゃがんで涙を堪えました。でも、涙が止まることはありませんでした。
目から溢れ、頬を伝って床を濡らす涙は、今までずっと心に秘めていた想いを溜め込んでいたのでしょうか。涙が枯れたときには、何もかもどうでもよくなっていました。
そして、背中を触れられる感覚と共に伝わる他人の体温。振り向くと、比佐久さんが微笑んでいました。そして背中をやさしくさすってくれました。それに枯れたはずの涙が溢れてきました。
でも、その彼女の後ろに黒い影が現れたのを覚えています。
そして何かを殴る音が数発、後頭部に走る痛みによって、私の意識は刈り取られていきました。
「……って、アイツ」
私が記憶の糸を手繰り寄せていた時、ボソリと比佐久さんが男たちを睨みつけながら呟きました。彼女の視線を追うと、錦木さんの後ろに控える人たちの中で頭一つ飛び抜けた大男へ注がれていました。
「そうか、やっぱりあんたが裏で……」
「ひ、比佐久さん。な、何が『そうか』なんですか?」
一人で考えて納得し、何故か錦木さんを睨みつける比佐久さん。まったく話についていけません。
「あいつ、昨日あたし達を襲ったヤツです」
「え!? ちょっとそれはどういうことで――」
「そして」
比佐久さんの発言に狼狽える私の言葉は、彼女の他に話すことを許さないとでも言いたげな重い声に掻き消されました。
「錦木が、今回の黒幕ってことですよ」
……へ? 黒幕? 誰が? 錦木さんが?
貴女はなに言ってるのですか? 錦木さんが今回の事件の黒幕? そんなことがあるわけないですよ。理解できません。
「そ、そんな、有り得ません!!」
私は噛み付くように彼女に怒鳴りました。いや、怒鳴ろうとしました。
「ッアハハハハハハハハハハ!!!!」
私の声は、突然現れた高笑いによって掻き消されてしまいました。その笑い声を上げたのは、紛れもない錦木さんでした。
「ッハハ……ハハッ……アハハッ……いや~あの時にも感じましたけど、彼女は本当に察しが良いですね~」
笑いを堪えながらそう比佐久さんを称賛する錦木さんの顔は、先ほどの柔らかな笑みから狂気に満ちた邪悪な笑みへと変わっていました。あれが同一人物なのかと疑問に思うほど、その代わり様は異常です。
「……しかし、『黒幕』と言うのは人聞きが悪いですね。私は学校の治安を守るためにこうしているんですよ? それをさも悪いことの様に言うのは、些かいただけませんね」
そう言って、錦木さんはワザとらしく肩を竦めます。その反応に比佐久さんは周りに聞こえる様に舌打ちをして、彼を睨み付ける眼光を更に鋭くしました。
「……襲わせることが『良いこと』なんて馬鹿なこと言わないでよね?」
「『襲わせている』なんてとんでもない。彼女たちには、正義のために必要な『尊い犠牲』になって貰っているだけですよ」
「よ、よくもそんなことを抜け抜けと!!」
比佐久さんの質問に、錦木さんはさも当然の様に答えます。それに比佐久さんは縛られたままの状態で錦木さんに飛び掛かりますが、すぐに近くにいた男たちに取り押さえられてしまいます。
「近年の治安の悪化に伴い高い治安水準の実現をと切実に叫ばれる今日に、これだけ高い治安水準を実現、そしてここまで保ってきたんですよ? たかが女子生徒を数人ぐらい、どうってことないでしょう」
錦木さんのその言葉、その周りに居る異常な格好の男子たち、そして今回の事件の概要を思い浮かべたとき、私の中で滞っていたパズルが一気に嵌り、比佐久さんがあれだけ声を荒げる理由が分かりました。
その瞬間、全身から血の気が引いたのは言うまでもありません。
「か、会長……ま、まさか治安維持のために……彼らに女子生徒を襲わせていたのですか?」
「ああ、そうだよ。どうだ、画期的な方法だろ?」
私の質問に、錦木さんは悪びれもなく答え、あまつさえそれに賛同を求めてきました。そして、彼の周りにいた居様な姿の集団、そして風紀委員会の腕章を付けていた生徒――――風紀委員も、当たり前のように頷き始めます。
その瞬間、この人が風紀委員会の委員長、そして周りにいる委員が、今まで共に頑張ってきた仲間と同一人物であると言うことが一切信じられなくなりました。
いや、信じたくなかった、と言う方が適切でしょう。
「昔から、何かを得るためにはそれに代わる何かを渡すか失うの当たり前でしたよね? それと同じです。平和をを実現し、そしてずっと維持するためには、それ相応の代価が必要と言うわけです。それで彼らと幾多に渡る交渉の結果、月に二、三人ほど我が校の女子生徒を襲うことを黙認することで、私の要求を飲んでくれることになったのですよ。そこで、私は学校にとって悪影響しか及ぼさないであろう女子生徒を何人かピックアップして、彼女たちに『尊い犠牲』となっていただいたんですよ。勿論、途中でやめると言う条件付きですけどね」
錦木さんは自らが導き出した答えを、まるで良い点の取れたテストを親に自慢するような無邪気な表情でペラペラとまくしたてます。しかし、その答えのどれ一つとしても、共感できるものはありませんでした。
「治安を崩しかねない勢力を互いの利益に見合う条件で抑え込み、校内に蔓延る目の上のたんこぶを同時に処理できると言う、まさに一石二鳥な方法なんですよ。そのおかげで、私たちの校区は難しい高い治安水準の実現、そしてもっとも難しいとされる高い水準を安定に維持できたのです。こればかりは、『尊い犠牲』となってくれた彼女たちに感謝ですね」
「どうせ、あのときあんたに突っかかったあたしみたいな、自分に都合の悪いヤツらでしょ、っう!?」
錦木さんに吐き捨てるように比佐久さんが言うのを、その身体を押さえていた男子が彼女にボディーブローを入れ途切れさせました。
「……そうだよ。平和を実現した私は紛れもなく正義。そして、正義である私の邪魔となるものは全て悪だ。悪は平和のために滅ぼさなければならない。これは必然だろ?」
さも当然のように問い掛けてくる錦木さんに、私はただポカンとその顔を見ることしか出来ませんでした。
『狂ってる』―――――その言葉で頭が一杯で他に考えられない。
「これは私が築いてきた彼らとの信頼と、幾度となく交わされた綿密な交渉とが折り重なってできた素晴らしいシステムなのですよ? 治安維持のためにこれ以上の対策があるのなら、拝見してみたいものです。しかし――――」
そこで言葉を切った錦木さん……いや、錦木は私たちに背を向けて後ろに控える男達の中に入っていきます。それと同じぐらいに、男達の空気が変わりました。
まるで、今まで我慢してきたものがようやく叶う、といったように。
「この方法にも欠点がありました。それは、彼等が毎回寸止めを喰らって多大なストレスを溜めることです。思春期真っ盛りの彼らにこれは負担が大きすぎます。だから―――」
錦木がそこで言葉を切った瞬間、全身に虫酸が走り、それは今まで感じたことのない悪寒へと変わりました。
「貴女達で、発散してもらうことにしました」
「は、発散?」と言いかけた瞬間、錦木の周りにいた男達が狂ったように無数の雄叫びや叫び声を上げながら近付いてきて――――襲い掛かってきました。
「やぁ!?」
「ちょっ!? あんたっ!?」
私と比佐久さんが同時に声を上げるも、そんなことなどお構いなしに男たちは身体中に触れてきます。
顔、首、腕、お腹、足に、虫のように無数の手が這いずり、その度に頭がおかしくなるほどの悪寒と気持ち悪さが襲ってきました。
「喜ぶと良い。君はこの方法の欠点を解消する担い手となったんだ。誇りに思えるだろう?」
遠くの方で錦木の声が聞こえましたが、答える余裕なんてありません。縛られている身体を懸命に動かして抵抗を試みるも、意味を成しません。
血走った無数の目が、私にこの上ない恐怖を植え付けてきました。
「やだ……やめて……離してぇ!!」
必死に声を上げてそう言うも、誰も聞く耳を持つはずがありません。
そして、胸の辺りでプチプチとボタンを外す音が聞こえました。その瞬間、一層暴れる力を入れて抵抗すると、頬に激しい痛みを感じました。恐らく叩かれたのでしょう。
それによって更に恐怖を植え付けられたのか、私の体はピクリとも動かなくなりました。そして、抵抗するのを諦めた、と勘違いした男が血走った目と気持ち悪い笑みを向けてきます。
その瞬間、「優くん」の顔が浮かびました。
私が窮地に陥ったとき、決まって助けてくれるのは優くんでした。とんだ些細なことでも、彼は必ず助けに来てくれました。
正に、私にとって、彼はヒーローでした。
「優くん……」
無意識の内に、その言葉と涙が零れました。それに一瞬男達の動きが止まるも、すぐに気持ち悪い笑みを浮かべます。
「へへっ、残念だがその『優くん』は来な――――」
そこで、男の言葉は途切れました。その顔にドアノブがめり込んだからです。
凄まじい金属音と共に、ドアノブを顔面にめり込ませた男共々ドアが吹き飛んでいきました。ドアは男ごと壁に激突し、耳障りな音を響かせながら床に転がりました。
突然の出来事に、部屋にいた全員の動きが止まりました。そして、その視線はドアが吹き飛んでしまった入り口に注がれています。
そこには、ドアを蹴破った体勢のまま静止する一人の男子生徒がいました。
彼は振り上げていた足をゆっくりと下ろし、1つ息を溢して中に入ってきました。そして、ネクタイの緩めながら部屋全体を見回します。
「てめぇら……もれなく全員ぶっ飛ばされる覚悟は出来てんだろうな?」
そこにあったのは、ここ数年強く待ち望んだ、そして私が窮地に陥ったときに必ず現れる、優くんの姿でした。




