第8話 シンと朱美
朱美は緊張感漂う気まずい雰囲気のダイニングへ意を決して踏み込んだ。
「こんばんは……」
仰向けで倒れているシンの上に陽光が跨いでいる姿が朱美の目に入る。その状態に思わず朱美は体が強ばり息を飲む。
シンと陽光のにらみ合いの中に朱美の声は小声ながらもよく通った。シンと陽光は同時に声の出所へと顔を向けた。
「あ、朱美……」
シンはとんでもないところを見られたとひどく気まずい気持ちが湧き立ち慌てた。
陽光の方は朱美を確認すると表情が急変し、年季の入った笑い皺いっぱいの顔になった。これを見た朱美はさっきまでの思いが意外にも簡単に消えた。シンの父親であろうその男性の笑顔は言葉と声からはかけ離れた温かな笑顔すぎた。
「おっ、シンの女か? なんだて、女がいるならいるって何で俺に紹介しねぇんだっつーの、このクソ田分け」
陽光はそう言ってシンの額を人差し指で弾いた。
「痛っ!」
「すみません、勝手に入ってきちゃって……何度もベル押したんですけど……中から怒鳴り声が聞こえて……」
ペコリと頭を下げる朱美。
「で、もうヤったんか?」
陽光は親指の指先をシンへ見せて言う。
「はぁ?」
シンは額のジリジリした痛みを気にしながら陽光のくだらない言葉に顔を大きく歪めた。朱美は陽光の喋りの粗雑さはシンから聞いていたが、あまりの率直な言い方に自分がストレートに顔が火照ったのが分かった。
その朱美の反応が陽光には初々しく感じ面白がった。かまととなのは承知の上だが。
「そうかそうか。健全な男と女はしっかりヤらなきゃいかんぞぉ! 結局、お前は俺の息子なんだよ。ははははーっ! 今日は家を使って良いぞ。俺は外に飲みに行くからよぉ」
そう言い放つと陽光はスッと立ち上がり「じゃあな」と言い残してあっさり出ていった。
シンは天井の一点をぼんやりと仰いだまま大きく溜め息を出した。
そこへ視界を遮る朱美。その顔は笑っていた。
「ねぇ、さっきの人ってシンのお父さんでしょ?」
「ああ。で、何笑ってんの? 人の喧嘩が面白い?」
シンは疲れた気持ちの勢いで意地悪く聞いた。
「違うよ。初めて見たからさぁ、シンのお父さんを。宝くじに当たるくらいの確率じゃない? シンのお父さんと会えるなんて?」
「まぁ、たしかに」
シンはそう言ってゆっくり起き上がろうとすると朱美が手を伸ばしシンに肩を貸した。
「怪我はない?」
「ああ。大丈夫」
「いつもお父さんとあんな感じでケンカするの?」
「まあね。まぁ、今日はいつもよりヤバかったけど」
軽く笑ってシンは言うと、ひどく荒れたダイニングを見渡した。
「あーあ。これ片付けなきゃ」とシンが大きく溜め息を漏らす。
「手伝うよ。あ、いいよ。私が全部やるから。シンは気にしないで勉強して」
「いいよ、いいよ。あ、やっぱ手伝って。二人でやれば早いから」
「うん」
効率的に事を成すことに長けているシンの意見に口を挟む必要のない朱美は素直に従う。
「で、何で傘なんか持ってるの?」
「え? ああ、もしかして泥棒でもいるのかと思って」
「ははは。朱美は勇敢だなぁ」
朱美は照れ笑いを見せるとそそくさと傘を戻しに行き、すぐ戻ると少し興奮気味に話した。
「最初シンのお父さんの声を聞いたときはホント怖かった」
朱美の反応に軽く笑ってシンは言った。
「ヤクザだと思った?」
「うん、そんな感じ。でも話の内容でシンのお父さんだと思って興味の方が強くなって、怖さなんてすぐ吹き飛んだけどね」
朱美は自身チャームポイントと思っている大きな口を開けてカラカラと笑った。この笑いがシンは小さな時から好きだった。自分ではそんな笑いをする事がない。少なくとも自分の記憶に残っている母親がいた時代からは。
「興味かて?」
わざとらしく朱美へシンは突っかかるように問い返した。
「だって話しか聞いたことない人がいるって分かったからさあ。じゃない? なんか伝説の人物が本当にいたんだみたいな」
朱美はそう言ってまた口を開けカラカラと笑う。
「大げさに言うなぁ」
シンはこんな状況の中でも朱美の遠慮のない話し方が嫌いではなかった。お陰でさっきまでの熱くなった嫌な感情も穏やかに落ち着くことができた。独りでいたらこうも簡単に落ち着き払うことはできなかっただろう。シンは朱美との波長は合っているんじゃないかと感じていた。
これは朱美も同じだった。はた目、神経質じゃないかと思うシンの言動や行動が時々あったりもするも朱美には良い刺激と思わせていた。自分もしっかりしなくちゃと。
「あ、その割れた食器は触らないで。俺がやるから」
「ありがと。じゃ私、洗い物やるね」
「ああ、助かる。ありがと」
「当たり前じゃん」
テンポよく流れるシンとの会話に朱美は考える。もし、二人で生活を始めたらどんな感じで毎日を過ごすのだろう? 互いに気持ちのいい話のキャッチボールができるのだろうか? 時々一緒に食材の買い出しにも行ったり、時には寝泊まりもして半同棲と言ってもおかしくないような関係ではあったがきっとこの先もっといろんな想像もしないような問題が起きたりするのだろう。まだお互いの知らないことがたくさんあるはずだから。
そんな二人の将来の事を考えると朱美はワクワクする。
「そういえばさぁ、シン。外にでかい車、工事現場で見る働く車が停まってたんだけど?」
「働く車……? ヘヴィ・ワーカーか?」
「って言うの? オレンジ色したデカイの。あれってシンのお父さんの?」
「ああ、ウチの前に停まってたんだったらそうだわ」
「へぇー、あれを動かす仕事やってるんだ?」
「ああ。あれ? 知らなかったっけ?」
「うん。仕事の話は聞いたことなかった」
「そうか。でも別に親父の事、細かく知らなくてもいいだろ?」
「ええー!? シンの事をもっと知りたいからお父さんのことだって知りたいよ」
朱美の回答にシンは愛想笑いを出す。無意識ではあるが。
「ありがたいけど、あんまり聞かないで欲しいな。実は俺もよく知らないんだ。親父のこと」
「あんまり喋らないの? お父さんと?」
「知ってるだろ? あんまり帰ってこないし、帰ってきたって酒飲んですぐ寝ちまう。朝起きたらもういなくなってるって」
「うん」
「だから、話をする時間なんて無いよ。実はさぁ、さっき親父に初めて受験の話をしたんだ。そしたら言い合いになっちまったってわけ」
割れた食器を折り畳んだチラシですくい集めているシンは手を止めて朱美へと軽く笑って応えた。
「ええ? なんで?」
「親父は勉強するの嫌いなんだよ。勉強したって役に立たないって言ってさ」
「そうなんだ……」
朱美はそういうことで親子喧嘩ってなるんだと知った。そして勉強しないことを薦める親がいるというのにも驚いた。
朱美は親といざこざを起こしたことが一度もない。一人娘の特権であろうか? 父親は優しくしてくれるし、母親とは友達のようによく一緒にショッピングだってするし、シンの事もちょっと話たりする。そして母親はもちろん、父親もシンとは彼彼の関係だと知っている。面識もある。シンに対してとても好印象を持っている。だからいつもふらふらとシンの家に行くことも認めてくれている。
冷静に考えると気持ちの悪いくらい物分りが良すぎる、私を甘やかしている親なのかもしれない。普通は少しぐらい衝突があっていいのかも。朱美はシンの話を聞いているとそんなことを考えたりもする。
朱美は食器を洗いながらシンの話を受けて考えているとシンが後ろから慌てた感じで声をかけてきた。
「朱美。さっき外にヘヴィ・ワーカーが停まってたって言ってたよな?」
「うん」
朱美の返事を聞くなりシンは玄関へとすぐさま向かった。
「……?」
朱美はやや太くも整った眉を八の字にして首をかしげた。
ドアを勢いよく開ける音を耳にした朱美は気になり自分も玄関へ小走りで向かうとドアを開けたまま立っているシンがいた。
「ねぇ、どうしたの、シン?」
シンの背中越しに見えるオレンジ色のヘヴィ・ワーカー。シンは「やっぱり……」といって大きくため息をついている。
「何がやっぱりなの?」
朱美はシンがどこを見て言っているのかよくわからず、シンの横から回り込んでシンの目線を追っていくとそこにはヘヴィ・ワーカーの運転室でよだれを垂らして寝ているシンの父親の姿があった。
「あらま。こんなところで」
「親父、飲みに行くとか言ってこいつできっと行こうとしたんだ。馬鹿だから。アルコール反応で動かせるわけないのに。それでそのまま寝ちまったんだよ」
「家で寝かせてあげれば?」
「そんな気ぃ使わなくて構わないよ。この中は別に寒くないし、それに中で寝てた方が駐禁から逃げられるだろうし。前、ここで駐禁取られたんだよ」
「そうなんだ。でも毛布ぐらい……」
「甘やかしてたらきりがねぇよ。いい大人が勝手にやってるんだ。放っておくよ。ごめんね朱美に気をつかわせて」
「そんな、特別な気をつかってるわけじゃないからいいよ」
「さ、片付け済ませなくちゃ」
「うん」
朱美は少しだけ後ろ髪引かれたが、気持ちよく寝ている顔を見て大丈夫だなと思いシンに付いてダイニングへと戻った。
(シンはお母さん似なんだな……)
陽光の顔は角ばっていてしっかりとした眉毛を持った男々した感じだったが、シンは面長であごの線が細く眉毛も陽光ほどではない。朱美は陽光と出会ったことでシンのお母さんはどんな人だったんだろうと淡い興味心が湧いた。