第7話 上甑町朱美(かみこしきまち あけみ)
上甑町朱美19歳(2059年9月現在)。地元の短大保育学科へ通うごくごく普通の女子である。
好きな食べ物はパンケーキ。パンケーキはよく自分で色々アレンジして作る。そんなことで名古屋駅にあるパンケーキショップでアルバイトもしている。将来は可愛い子供たちと一緒にパンケーキを作って暖かい時間を過ごすこと――
朱美はシンと付き合い始めて1年半ほどになるがシンとの出会いに早くも“これは運命の出会いだ”と強い思いを抱いていた。
朱美とシンの出会いは随分と遡る。朱美が小学三年生でシンが小学一年生になった時だった。シンと朱美は家が近所であったことから朝の分団登校はいつも一緒だった。
朱美のいた分団はシンが入ってくるまで自分が一番下であったため、やっと自分の下が入ってきたと大喜びし一人っ子の朱美はシンを弟のように可愛がった(お節介なくらいに)。シンも母親が居なくなった事の寂しさを埋め合わせてくれるような家族的存在として朱美を慕った。
しかし朱美が中学生となると当然のように二人は家が近所といえども疎遠になった。
ひとつ付け加えると、シンが四年生になった頃から同級生から「いつも上級生の女とイチャついてる」とからかわれていて、それが嫌でシンの方から朱美との距離を次第に置くようになっていたことも疎遠となる理由としてあった。
そして時は進み、朱美が高校三年になって間もなく、朱美に運命的と思わせる出会いがあった。彼とケンカ別れをし、自分は受験に全てを注ぐぞと決めた矢先のことである。
「あれ、シンちゃん?」
「あ、あみ姉ちゃん?」
学校帰りの校門で二人は再会した。偶然にシンも朱美と同じ高校に入っていたのだ。
因みに朱美は“あけみ”と言う響きが可愛くないと言ってシンには“あみ”と呼ばせていた。シンが朱美の本名を知ったのは最近のことで、朱美のIDカードを見たときだ。
そして二人は登下校を共にするようになり、わずかな時間で抱き合う仲となった。
その中で朱美はシンの母親が失踪していた事を初めて知った。この世の中にそんな無責任な母親が本当にいるのだと強い衝撃を受けた。
そしてシンはいつもほとんど独りで過ごして来たこと。シンの迎いに住んでいた一人暮らしのお婆ちゃんがシンのことを気にかけ色々と親切にしてくれたこと。そのお婆ちゃんはシンが小学六年生の時亡くなってしまって独りで大泣きしたこと。そして父親の奇行。
すべてが朱美には驚くことばかりで、それを知らずに一緒に遊んでいた自分はなんて鈍い人間だっただろうとさえ思った。たとえその時の自分が小学生の子供だったとしても。今までのシンの苦労を聞いた朱美は自分でもハッキリと分かる母性本能がシンを受け止める力を強くし、シンを心の底から支えたいと思っていた。
二人が愛し合うようになってからの二人の関係はより熱く強固なものとなり、順調に時を共に過ごしてきた。朱美は無事志望大学に入学。そして今現在シンが受験に向けて頑張っているところである。
*
朱美はいつもふらっとシンの家に遊びに行く。勉強の邪魔は良くないよな、と思いつつも差し入れだとか、夜食を作ってあげたりだとか、部屋の掃除をしてあげたりだとか……何か理由をつけて。
ただ、シンにはまったくのお手上げというほど家事の類はきっちりとやってしまうので自分の出番がないよなぁとも思っている。それでもシンの邪魔にならない程度には役に立ちたいし。しかし本当はシンに抱いてもらいたいという下心の気持ちで会いに行っていた。いつも家にはシンしかいないから……。
今夜はというと、これといってやっぱり理由はない。家が歩いて10分もかからない距離だからちまちまとメールのやりとりは面倒なので会いたい気持ちだけでシンの家へと向かっていた。朱美としては同棲したいくらいだったが親が許すわけないので今は我慢している。しかし自分が社会人になったら家を出ようと思っている。そうしたらシンの家で一緒に生活しようと独り計画していた。
シンの家の近くまで来ると、シンの家の前に大きな車が停まっていた。
「何、あんな人の家の前に停めちゃって」
遠くからは暗くはっきり分からなかったが、よく見ると工事用の特殊車両であった。
「何これ? なんでこんなのここに停まってるの? 玄関の真ん前じゃん」
朱美はぶつぶつ独り言を言って特殊車両と家の隙間に体をすべり込ませ玄関ドアの前へ来るとベル・ボタンを押した。
「……」
反応がない。もう一度ベル・ボタンを押す。
「……」
反応はない。
「あれ? いないのかな?」
もう一度ベルを鳴らしてみて反応がなければ電話してみようかと思い、朱美は再びベル・ボタンを押した。
今度は扉の向こう側から扉を振動させる鈍い音が朱美の耳に聞こえてきた。そして何か怒鳴り声のようなものも聞こえる。
「え、何?」
朱美は一旦ドアから少し身を引き、きょろきょろと辺りを見渡した。そしてドアへそっと耳をあててみる。
「……!」
シンが叫ぶ声。そして聞いたことのない低く鳴り響く迫力ある男の声が聞こえた。
(やだ、まさか泥棒とか?)
朱美は少し怖かったがシンの身に何かがあってはという気持ちの方が強く無意識にドアノブに手をかけていた。
「開いた……」
朱美はドアにカギがかかっていないことで更に不安と恐怖心が湧き起こった。しかし、そのまま静かに家に入る決心をした。非常時にも冷静さがなかなかなのが朱美という女性である。ドアを開け家に入ると見慣れたシンの靴以外にもうひとつ男物の汚れた靴が綺麗に並んでいるのを見つけた。
(もしかしてお父さん?)
朱美の感は鋭かった。滅多に帰ってこないと聞いていたシンの父親。おかげでシンにこの家で甘えることができていたのだが。
朱美はシンから父親の事を色々と聞いていて酒癖も悪いとも聞いていた。そこから察して親子喧嘩はアリだと思った。しかし、断定はできない。下駄箱の横に置いてあったシンの傘を手にすると、忍び足で光が漏れているダイニングへと近づいた。
「アンタのだらしなさが全てだろうがぁっ! 俺はアンタらに望まれて生まれて来たわけじゃねぇんだろ? 俺だって望んでアンタらを親に持ったわけじゃねぇんだ!」
シンの今まで聞いたことない怒鳴り声が朱美の耳に届いた。その声を聞いて心臓が一瞬怯えた。
(シン……)
シンの声に続いて低いしゃがれ声が聞こえた。
「子供っちゅうのは皆ヤッちまったから生まれてくるんだ。理屈じゃねぇんだよ。好きだとか愛してるなんてそんなキレイな言葉で片付けるようなモンじゃねぇんだ。だから頭使うヤツはダメなんだ。すぐあれこれ理屈をつけたがる。ったく顔だけじゃなく性格まで真珠そのものだな」
(シンのお父さん……?)
朱美の推察は正解である。初めて聞いたシンの父親の声。朱美は率直に怖いと感じた。暴力団かと思うような威圧的で音圧のあるしゃがれ声で、しかもその内容は悲しいものだった。シンの今までの話と重ね合わせると胸の締まる思いに包まれた。