第3話 親心。子心。(おやごころ こごころ)
真珠は今から一年ほど前、カイルと知り合った頃から外出時には色の濃いレンズを持った大きなサングラスをつけるようになっていた。それは陽光に感情を引きずられ自分を見失わないために。そして冷静でいながらもカイルに対する乙女心的ときめきを周囲に悟られないために。そして醜い男を直視しないで済むようにと。
しかし真珠は今日のような出来事が起きる度にサングラスをしていても周囲の目が気になって仕方なかった。陽光にのせられヒステリックになってしまう自分をも見世物になっているかのようで。しかしそれもあと半日で終わらせることができる。そう思うと真珠は自然に笑みがこぼれると共にサングラスの中の瞳は潤んだ。
化粧室で独り思い馳せる真珠。この時そんな事など知ること無く息子のシンと戯れているのが陽光であった。
*
シン達を乗せたリニア新幹線“みらい”は東京都心部へと近づき速度が新幹線並みの巡行速度になっていた頃、シンを釘付けにしてきた窓からの景色は超高層ビルの数々が建ち並び、真夏の太陽の光をやかましいほど反射させ輝き放つ世界へと変わっていた。この首都東京を象徴する眩しい世界にシンはアニメの世界に自分が入り込んでいるかのようで、ひとつひとつ目新しいものを見つけるたびに「わぁ」「おおぉ」と感嘆の声を上げていた。
「しかし東京っちゅう所は窮屈だなあ。アホみたいに高いビルばっか並んでよぉ。しかもこんな線路沿いにマンションかよ。住んでるヤツらの気が知れねぇわ」
と陽光が言う『気が知れないヤツら』が住んでいる線路沿いのマンションの一つにカイルの家はあった。真珠は横目で見苦しい陽光の頭越しに窓の外を見ていた。そしてカイルの住むレンガ色をした高層マンションを見つけると静かに目を閉じた。
(もう少しの辛抱だ……)
真珠の胸の内には陽光は勿論のこと息子の存在などなく、完全に独りの女と化していた。目を閉じているとマンションからの瞬く夜景とカイルとの甘く濃厚に過ごした時間がフラッシュバックする。
明日の私は新しい自分になっている――
もう過ぎた過去の自分は自分じゃない――
シンが窓に貼りついて見ていた東京の街並みがトンネルに入り消されると今までのCGによる景色とは変わり、東京観光案内の映像と乗り換え案内の情報が現れた。そして車内アナウンスが流れた。
『本日はJR東海リニア中央新幹線をご利用いただだきまして有難うございました。間もなく終点、品川へと到着致します。東京上野方面へ向かわれる方は……』
「ここで乗り換えるのかい?」
「そうよ」
「やっぱ面倒くせぇな」
陽光のこの言葉をきっかけに真珠は下車の準備を黙って始めた。
今回は一泊二日の旅行という事になっている。普段なら一泊二日といえども比較的大きめでゆとりのある旅行鞄を用意している真珠だが今回は日帰り旅行並みの手持ち鞄である。実のところ、この手持ち鞄の中身は陽光とシンの着替えのみである。真珠は必要最低限の化粧道具や貴重品だけをショルダーバックへ詰め込んで持ってきており、服や宝飾品など自分のものはすでに宅急便を使ってカイルの家へと送っていた。
そしてさきほどの陽光の独り言扱いされていた言葉にシンが応えた。
「ぼく、めんどうくさくないよ。つぎはどんな電車に乗るの?」
「ここからはね、電車じゃなくてバスよ。シャトルバス」
真珠は言葉こそ柔らかいが口調は単調で5歳児向けとは思えない淡白さでシンの質問に答えた。
「うわぁぁ!」
シンは真珠の口調を気にすることなく声になっていないような声で驚きを表した。
リニア新幹線からの景色や車内販売のお姉さんから父親が買ってくれたアイスクリーム(ただし半分以上陽光の口へ)と初体験続きの中、今度はシャトルバスに乗れると言うのだ。いきんだ声でシンは聞いた。
「シャトルバスって飛ぶんでしょ?」
「んな訳ないだろ。バスが飛んだら怖いぜ」
笑って応える陽光。それに対してシンは興奮の勢いは保ちつつも残念気味に聞き返した。
「スペースシャトルは飛ぶでしょ?」
「お前、よくそんなモン知ってるなあ」
「テレビで見たよ。お空へ高く高く飛んで行っちゃうんでしょ?」
「あれは俺が生まれるとっくの昔にお払い箱になっとるわ。シン。宇宙なんて行ったってどうしようもないぜ。人間っちゅうのはそんなところで生きるように造られてねえからよぉ。あんなもん無駄だ。ムダムダ」
陽光の語る話に耳を傾けていた真珠。夢を大げさに語る男は幼稚で、夢を現実的に実現に向け実直に語る男には魅力を感じていた真珠。陽光はと言うと前者に当てはまるのだが若い時はそんな男も男らしく見え、実際彼はヘヴィ・ワーカーでも最も大きいモンスタークラスを操る日本でも数少ない人材だと言うことは知っている。しかし真珠にとって所詮土木工事は土木工事で、そこでバカでかいオモチャを操っているだけにしか思っていない。そんなオモチャを操っているだけの男が人間がどうのこうのと哲学じみたことを語ることは常に片腹痛くなるばかりであった。
リニア新幹線“みらい”は終点品川駅のホームへと優雅に進入する。薄青みがかかった純白を基調とした車体にヘッドライトからサイドへと伸びている深い青紫色のラインで飾られた流麗な車体は品格をも感じる。それを見たいがためにカメラ片手に集まる人も多い。
そして今日は盆休みシーズンということもあり普段に増して人が溢れかえっているプラットホーム。窓に映ったその人々を見て陽光は叫ぶ。
「おいおい、なんだこの人間の束はっ!?」
「お盆だもの、混んでて当然よ。名古屋もいっぱいだったじゃない。今さら何言ってんのよ。ほらシン、降りるわよ」
半ば義務的に応える真珠は窓に張り付いていたシンの肩を掴んで窓からシンを剥がした。
そんな母親の態度や行動に慣れていたシンの耳にはこの両親の痛いほど冷えた会話は聞こえていない。今はこの先に待ち構えている大冒険に対する気持ちでいっぱいだ。
品川駅のホームにはリニア新幹線の中から見えていた以上に人々でごった返していた。轟家のような小さい子供を連れた家族もよく目立つ。
この頃のシンはこの人ごみ溢れる空間は嫌いでは無かった。しかし不思議に思う事があった。
――なんでみんな笑ってるんだろ?
――なんであの子達はお父さんやお母さんと手をつないで歩いてるんだろう?
この頃のシンには目に付いた家族連れすべてが不思議であった。自分がそれをお父さんやお母さんに言わないからだろうか? そういった疑問として浮かび上がって来たのは小学生になってから。そしてそれが僻みや羨みというものだと気づいたのはシンが変声期を迎えようとした頃の事だ。
そんなシンの疑問はシンの頭の中にぼんやりと浮かび上がるだけのもので、表情や態度に表すことは無かった。そのせいなのだろうか? 真珠はシンの手首を掴んで歩く癖があった。今もシンは真珠に手首を捕まれた状態でリニア新幹線から降りて改札口へと向かって歩き始めていた。
シン達がリニア新幹線の先頭車両の横を通り過ぎようとしていた時、シンはVサインを作ってリニア新幹線を背景にして写真を撮ってもらっている子を見つけた。
お母さんと男の子が並んでお父さんがカメラ片手に「撮るぞぉ。もっとにぃーって笑って!」なんて言っている。その言葉にお母さんはしゃがみ込んで男の子と顔をくっつけるようにして楽しそうな顔をしている。すごい笑い顔。シンはお父さんとお母さんと三人でいる時には母親の笑い顔というものを見たこと無かった。笑っているときといえばテレビを観ている時か真珠の友達といる時ぐらいだ。
(何があんなに楽しんだろ?)