第21話 序の口
シンは珍しく焦っていた。今日は夜7時に朱美と名古屋駅で会う約束をしていたのだが確実に遅刻する時刻となっていた。
「ああぁ、久しぶりのデートでしかも朱美の誕生日だっていうのに……ヤバいなぁ……くっそぉ」
遅刻をしない主義、人を待たせるのが嫌いなシンは遅れているわけでもない地下鉄がなかなか来ないことに苛立ち、右足のつま先は小刻みにタップし続ける。そして繰り返し見る腕時計。
今回シンは名古屋駅へ向かうために普段は使わない地下鉄を使った。そのことで乗り換えに手間取ってしまったのだが、そこに輪をかけ名古屋駅とは逆方向の地下鉄に乗ってしまうという大きなミスを犯してしまい、気づいたのは乗ってから2つ目の駅を出発する瞬間であった。
そしてシンが今いる場所は気づいてすぐ降りた3つ目の駅、車道の名古屋駅方面行きのホームにいた。そのためこの散々をやらかしてしまい遅刻の原因を作った自分自身への腹立たしさを感じていたシンに落ち着く余裕はなかった。
するとそこへジャケットの内ポケットにあったスマートフォンが振動した。
(朱美かな?)
スマートフォンを取り出すと案の定、そこには朱美の名と冗談ぽくキスを迫る朱美の動画が写し出されていた。それを目にしたシンは軽く顔をしかめ電話に出た。
「もしもし」
『あっ、シン? もしかして遅れそうって感じ?』
間髪入れずに来た朱美の声。シンはこの少しキーの高い透き通った声が好きだった。だからこの声はシンにとって心地良いものだ。
「ごめん。正解。ちょっと電車に乗り遅れちゃって」
弱気な小声で応えるシン。
『ねぇ、シン。なんか私に隠してなーい?』
朱美はいたずらっぽくリズミカルな口調でシンへ続けて聞いた。シンは朱美の声から表情が容易に想像できた。そして自分がほぼ家出中という話を伝えてないことを聞き出そうとしていることもだ。
「え? いきなり変なこと言うなぁ」
『だってさぁ、シン、家にいなかったでしょ?』
的中だ。シンは朱美に黙っていたことに悪気を感じたが後で会って話そうと思い誤魔化す事にした。
「え? ごめん、電車の音でよく聞こえなかった。もう電車乗っちゃうからまた後で聞くよ」
何が味方したか良いタイミングで地下鉄がやってきた。シンは人ごみに押されるようにして地下鉄に乗り込むと同時に言い放つようにして電話を切った。スマートフォンに表示された0分32秒の通話時間と朱美の繰り返すキスの画面を眺めシンは小さな溜め息と共に「やっぱり隠し事は良くないよな」とぽつり口にした。
シンはようやく名古屋駅方面行きの地下鉄に乗り、名古屋駅二つ手前である丸の内駅を出発して間もなく、不意をつく急ブレーキがかかった。シンは吊り革を握っていて耐えられたがスマートフォンやフィルムノート(フィルム型電子端末)を手にしていて不用意な状態だったいくらかの乗客たちはそのまま倒れ込んだり、周囲の乗客に寄りかかったりするような形となった。
時間も夕時かつ名古屋駅方面へ向かうと言うこともあり混み合っていた車内は動揺と緊張の世界に支配されていた。そしてややぎこちなくも淡々と言葉を口にする車掌の車内アナウンスが流れた。
『ええー緊急停車しまして大変申し訳ありません。車内のお客様へ連絡します。只今入りました情報で、現在名古屋駅にて大規模な火災が発生したとの連絡が入りました』
この車内アナウンスに乗客は一斉に声をあげた。
『しばらくそのままお待ちください。先頭車両と後尾車両のドアより順次列車を降りていただき徒歩にて丸の内駅まで戻っていただきます。またお怪我をされた方などいましたらドア付近にある緊急ボタン等で乗務員へお知らせください』
ここまで固唾を飲み耳を澄ませていた乗客たちは溜め息と唸り声のハーモニーになっていない合唱を始めた。
シンはスマートフォンに表示される電波の繋がっていない状態に不安が募る。
「名駅で火災って……朱美は?」
スマートフォンの待ち受け画面一杯に映る朱美の笑顔。今年の夏休みに行ったディズニーランドでの写真。朱美はそのバカ笑いしすぎの写真を嫌って少し澄まし顔の画像を送り付け「これに変えてよ」と言っていた。しかしシンにはこの天真爛漫な笑顔がとてもお気に入りで今でも変えずにいた。なんだかここから朱美の声が聞こえるようで。シンは今日の失敗を強く悔やんだ。そして今ここに、手で触れられる距離にいない朱美が恋しく、そして彼女の状況が分からないことが不安で堪らなかった。
*
その頃、陽光は朱美、シンへと交互に電話を入れるが一向につながらず、その都度舌打ちをしては「ダメだがや」と声に出しまた電話と繰り返していた。
エミリィは陽光の様子を心配そうに黙って見つめていた。
「やっぱ我慢できん。ちょっと行ってくるわ」
突然陽光は椅子を倒す勢いで立ち上がって言った。
「え? どこへ?」
「悪ぃエミちゃん、今日はつけといて」と陽光はエミリィの心配げな表情をまともに見ることなく言い放って店を飛び出した。
「ちょっと、轟さん! もう、つけぐらい別に今に始まったことじゃないけれど……でも一体どこにいくつもりよ?」
エミリィは目を丸くして陽光が飛び出して行った姿を見送ると炎に包まれた名古屋駅周辺と、早口で緊張感ある口調で話すアナウンサーを映すテレビを眺めた。無性な不安感を胸に……。
居酒屋エミちゃんを飛び出した陽光はそのまま駆け足で交通量の比較的多い通りまで出ると辺りを見渡し空車タクシーを遠くから向かって来るのを見つけるとすぐさま車道へ飛び出し両手を挙げ「ここだぁーっ! 止まれぇ!」と叫んだ。
タクシー運転手はライトの向こう側にいきなり現れた男の姿に言葉が出ない驚きで渾身の急ブレーキをかけると同時に目を瞑った。
「自分は何も悪くない。大丈夫だよな」と運転手はそう信じて力強く閉じられた目をゆっくり開けた。
「!」
期待虚しくそこに立っていると思っていた男はフロントガラス越しにはいなかった。
「ちょ、ちょっと勘弁してくれよぉ! まだ一年も経ってないのに人身事故って……勘弁してくれ……」
50代前半のこの男はなんとか普通2種免許を取って正式採用になった矢先の出来事に今にも泣き出しそうに声を震わせながら確認するためドアをそっと開けようとした。
「おお、運ちゃん、尾張建設まで頼むわ! 急いでくれ!」
「うおわぁぁ!」
背後からの馬鹿でかい声に運転手はコントでもしているかのような大袈裟な驚きの表情と大声をあげ、そしてドアを押し開けるようにして車外へと転げ落ちた。
「おお、悪い悪い。大丈夫かい? ちょっとマジ急いでんだ。早く動かしてくれ」
陽光は後部座席から覗き込み運転手へと言った。すると運転手は落とした制帽を拾い頭に被せつつ陽光に向かって大声で返した。
「お客さんっ! なんて危ないことするんですかっ! てっきり轢いてしまったかと思ったじゃないですかぁ!」
「悪ぃって謝ってんだろ! こっちは急いでるんだ。早くしろっ!」
間髪入れず陽光の口から出た音圧力ある声に運転手はあっさり「はい」と応えると体を小さくしながら運転席へと戻った。
(こいつは嫌な客を拾っちまった。ヤクザか?)
と思いつつ運転手はちらちらとバックミラー越しに陽光へと尋ねた。
「あのぉ、で、どちらまで?」
「尾張建設まで頼むわ」
陽光から漂う酒臭さと知らない名前を聞かされた運転手は少し顔を歪ませ聞いた。
「尾張建設? それはどこですか?」
「オマエ、尾張建設も知らねぇのか? 俺の職場だがや」
「いや、それはちょっと……すみません。地名とか何か目印になる建物とかを……」
「ったくしゃあねぇ運ちゃんだなぁ。ナビあるだろう。ナビ。ちゃっちゃと使って検索しろよ」
陽光は言い終わるや否や後部座席からそそくさと降りて運転手の隣へと座りタクシーに備え付けのナビゲーション装置に向かって「尾張建設まで行ってくれ!」と叫んだ。ナビゲーションシステムはその声に反応し『尾張建設、目的地に設定されました。しばらくこのまま直進です』と言葉を発した。
「ほれ、あとは頼むわ」
陽光はそのままシートを少し後ろへ倒すとすぐに尻のポケットからスマートフォンを取り出しいじり始めた。
タクシー運転手は横目で陽光をチラリと目にして(世の中色んな人がいるものだ)と感心とは違う感慨を抱きつつ車を走らせた。
「あの田分け。いい加減に出ろっつうの」
運転手の隣で叫ぶ陽光に(この酔っ払いが)と悪態を胸の中で呟きながらラジオから流れる名古屋駅での火災情報がよく聞こえるように音量を上げた。するとそこへすかさず陽光が入ってきた。
「おお、運ちゃん。火事はどうなってんだい?」
「いやぁ、もう聞いてる限り手のつけられない広がりらしいですよ。森林火災みたいな」
「おいおいマジかて。朱美ちゃん大丈夫かなぁ? おい急いでくれ運ちゃん」
「え? もしかして知り合いが今名駅にいるんですか?」
陽光の言葉に素直に運転手は驚いた。
「おお、そうなんだわ。ちょっとマジやばい感じだからな。助けに行かなくちゃ」
「お客さん! それならそうと早く言ってくださいよ。一大事じゃないですか! すっ飛ばして行きますわ」と運転手は陽光の酒臭さのことなど一気に吹き飛ばしハンドルをしっかりと握り直した。
「頼むわ。早く助けんとな」
陽光の真剣な眼差しと口調に運転手は(尾張建設って救助隊と関係あるのだろうか?)とわずかな疑問を抱きつつアクセルを踏み込んだ。