第12話 けなげ
やる気の萎えたこんな時は迎え酒がいい。今日はのんびり適当に過ごすか。
陽光はヘヴィ・ワーカーを降りるとそのまま地下鉄へと向かった。しかし雪がちらつき始めたことに気づくと陽光の体は駅前で客待ちしていたタクシーへと吸い寄せられそのままコンビニ経由でシンの家へ。この時間、誰にも邪魔されることなくくつろげるいい場所だ。
家に入ると予想通りシンは留守で静かだった。しかし食べ物の臭いと暖かい空気は残っていた。きっと少し前までシンが居たのだろう。何と言ってもまだ朝8時を過ぎた頃だ。
ひとまず陽光はリビングのこたつに潜り込んだ。案の定こたつの中には熱が残っていた。
「うーん幸せ」
手足を炬燵へ深く潜り込ませ天板へあごを載せてこたつの温もりを満喫する。すると目の前にみかん盛りを発見。
「やっぱ日本の冬にはこれだな。シンもなかなか分かってるねぇ」
みかんを手に取り皮を剥くと一口で半分を食べる。
「一つじゃ物足りねぇや」
と言ってもう一つ。最終的には中ぶりのみかんを四つ食べて満足すると陽光に心地好い眠気がやって来てそのまま横になると買ってきた缶ビールを開けること無く一瞬にして眠りについた。
陽光はすっかり熟睡してしまい目を覚ますと外は薄暗くなっていた。
「あ、そうとう寝ちまったか?」
そう言って陽光はむっくり体を起こすとぼんやりとしたまま時間を知りたいと思い辺りを見渡す。しかし時計がどこにあるか分からない。小さく溜め息を出すと自分の尻をまさぐりポケットからスマートフォンを取り出した。
「おっと、もう4時回ってるじゃねぇかよ。こりゃ寝すぎだわ」
寝起きのぼやけ声を出して起き上がると陽光はよたよたと冷蔵庫へ向かった。
「腹減ったなぁ。なんかねぇか?」
冷蔵庫を開けてみるとバラエティーにとんだ食材が並んでいる。
「おい、何かそのまんま食えるようなもん置いてねぇかよ」
陽光は冷蔵庫の中身に文句を言い放って少しだけ周囲を見渡すとそのまま外へ出た。
そしてすぐ家に戻るとコンビニで買ってきた缶ビールとおでんを炬燵に広げ再び温もりを満喫する。
「たまにはこういう日もいいわな」
そう言って陽光が大根おでんをふうふうしている所へシンの尖った声が入って来た。
「良かねぇよ。なんでこんな時間に親父がいるんだよ?」
陽光を見下ろし睨みつけているシンが陽光の目に入る。
いつのまにか帰って来ていたシンであるわけだが、陽光はシンの突然の登場に驚きはしなかった。しかしシンの口振りと態度に気分をぶち壊されたと頭にきた陽光はシンを睨み返し低い声を響かせた。
「あ? 休みだ」
自分の父親の態度に苛立ちが増したシンはさらに挑発的に返した。
「珍しいなぁ、休みにウチにいるなんて」
陽光は妙なところがマメで未だかつてメール無しで帰ってくるようなことはシンの記憶に無い。それにウチで休日を過ごすようなことも記憶に無い。
「そうか?」
陽光はいちいち意識して連絡をしていたわけではないので本気の確認だ。
「珍しいどころじゃないな。初めてじゃねぇか? 盆も正月もウチに居た事もない人間がよぉ」
陽光を見下ろしたままのシン。二人の中の空気が一瞬固まった。
陽光には今さらシンと言い合いする気はない。子供相手に言い合いする事はつまらないし面倒くさい。疲れるのが関の山だ。陽光はシンを無視して大根にかぶりついた。
「なんでわざわざあんな所で犯人は告白してんだ?」
テレビでは平成時代のサスペンスドラマがクライマックスを迎えようとしている。
シンを無視して独りドラマにケチつけている陽光を黙ったまま見つめていたシンは息を大きく吸い込み、そしてゆっくり言葉を吐き出した。
「なぁ、親父。聞いてんのか?」
「……」
「なぁ、なんでここに居るんだよ?」
(ったく……くどい野郎だなぁ、このクソガキが)
と陽光はシンのしつこさに呆れて炬燵に潜り込んだ状態は維持でちくわを咥えたまましぶしぶ応えた。
「俺が休みの日に家にいちゃあダメなんか?」
「気持ち悪ぃんだよ」
シンは蔑み顔で陽光を挑発する。くどい上に生意気なシンの挑発に陽光はやる気が湧いてきた。
「なんだぁ?」
そう言って陽光は横目を使ってシンを見上げるとシンは叫んだ。
「気持ち悪ぃんだよ!」
シンの力強く吐き捨てた言葉を陽光は耳で拾うと半分まで口にしていたちくわを一気に口の中へ放り込み二、三度噛むと缶ビールで体内へ喉を鳴らして流し込んだ。そしてテーブルに缶を置くと目を閉じて得意の低いしゃがれ声を使った威圧攻撃へと出た。
「おい、シン。もういっぺん言ってみろや……」
「気持ち悪ぃって言ってんだろ!」
もうシンにはそんな威圧に対しては免疫が出来上がっている。目には目を。威圧には威圧だ。この使えない親に平和的解決など不要だと信じている。
陽光は首をゆっくり回しながら立ち上がり吠えた。
「あぁん? 俺に向かって気持ち悪ぃだぁ!?」
そして言葉が言い終わるよりも早く陽光の体は動いていた。立ち上がると同時に右手の拳をシンの顔へと向かわせていた。
しかしこの時のシンは陽光が自分に向かって来ることは承知済みであった。若く反射神経が優れているシン。陽光は酒を飲んで酔っている。陽光としては瞬発力ある俊敏な動作のつもりでいたが現実はさほどでもなかった。シンは陽光の拳を体ごと簡単に避けた。
陽光の攻撃は気の毒なほど大きく外れ、自分の作り出した勢いを止める事ができずにシンの目の前へ倒れ込む惨めな姿となった。
シンはその自分の父親の姿を見て悲しくなった。
言葉を交わしたところで進展がみられない自分と父親の関係。何か子供に突っ込まれれば怒鳴って暴力を振るう。シンはこんなとき思った。
――自分がもし女として生まれていたらどうだったんだろうか?
「なあ、親父。少しは自分のやってる事を恥ずかしいとは思わねぇのか? 自分の子供に説教されるわ、それで腹立ててキレるわ。で、暴力かて?」
「『いかにも』な事を言うつまらんクソガキだなあ。俺が一番嫌いなタイプだわ。言い方は俺似で言う事はアイツ似だな。クソ笑えるぜ」
相変わらずの事を口にして嘲笑する陽光はシンの話す言葉の中身は理解していない。理解したくないから右から左へと聞き流しているのだ。それは冷静沈着な風に見せて理屈をこねる姿が兄や親たちを見ている気になりそうでそんな癖が身に付いていた。
シンに軽々避けられた陽光の怒りの衝動は収まらず、一発で黙らしてやると企んだ。
ひとまず起き上がると自分を睨むシンへと倒れ込むように近づき胸倉を掴んで様子を伺う。
シンは陽光の睨みに寸分の怯みを見せず睨み返している。そしてシンの放った言葉。
「酒臭ぇ」
そう淡白にシンが言うと陽光はシンに向かって息を吹き掛けニヤリと笑みを作り言う。
「何か飯つくれ」
「は?」
「腹減った」
シンはこのクソ親父を殴り倒そうと意気揚々としていたところに意味の理解出来ない要求に困惑した。
「何言ってんだ?」
「腹減ってオマエとやり合う力が湧かねぇんだわ」
「おかしいんじゃね? 何であんたとやり合うために俺があんたの飯作んなきゃいかんの? 戦争中に敵に弾が無くなったから弾を作って分けてくれって言ってるようなもんじゃねぇか」
「上手いこと言うがや」
陽光は笑顔で言い終わると気の緩んでいたシンの腹へ向かって右膝を強く押し上げた。
陽光の容赦ない不意討ちにあったシンは腹を抱き抱えたまま膝から落ちた。
「悪いが俺の勝ちだな。ってことで飯頼むわ」
腹を押さえたままうずくまっているシンは考えた。
――仮に親父がアル中でキテレツな行動を起こすなら納得はしないが理解はできる。しかしこいつはそうじゃない。
――ガキのわがままなら可愛いものだ。ガキは素直に聞くときは聞くし、叱るということができる。
――ここにいるのはガキのようでガキじゃない。大人の顔したガキ?
――自分を俺の父親だと抜かし気ままに帰ってきて好きなことをやっている。そしてほどほどに金は入れている。路上生活することなく俺は人並みに家の中で生活している。
――それだからこいつに頭下げて、そして召使いのごとく言うこと訊かないといけないと言うのか?
――違う。
――おかしい。
――間違ってる。
――俺が?
――じゃない。こいつが。
――なあ、誰か俺に賛同してくれよ。
――なあ……
――誰かこの大人まがいのインチキ野郎を折檻してくれ。俺じゃ歯が立たない
シンはこの目の前にいる人間にごめんなさいを言わせたくて仕方なかった。口にガムテープを貼り付け、手足を縛り執拗な拷問をしてでも言わせたかった。ごめんなさいと心の底から言わせたかった。
言っても無駄だから力でねじ伏せる。これで済むなら今のシンには十分陽光に勝てる自信があった。きっと拷問を簡単に超えて殺すことができるだろう。しかし気力がそこまで沸き立たなかった。陽光から受けたニーキックの痛みと苦しさもあるが、そうしたことで解決することが社会正義だとか道徳心というものではなく、シンの心根にある彼自身の感覚的なものが『諦める』という選択が最良なのだと悟らせた。一言で言ってしまえば単なる勘でしかないが。そしてこの人間から逃げ出すことが目標としてより明確になる。実現しなければならないものとして。
実際、シンはすでに金沢にある大学を目指していた。これは朱美にも言っていない。朱美には地元の大学だと言ってある。それは言ってしまうと二人の関係がどうなるかがわからない事への不安に父親との確執問題を上乗せした状況に今は耐える自信が無いからだ。
とにかくあと数ヶ月を耐え凌ぎ、この生活から脱け出す事だけに気持ちを集中させたいという思いに結果たどり着き、シンの反抗心を萎えさせた。
シンは腹の痛みに耐え息苦しいながらも陽光へ言った。
「カップ麺がそこの戸棚の中に買い置きしてあるからそれで我慢してくれないかなぁ、親父。俺、今からバイト行かなくちゃ行けねぇから」
「なんだこんなところにあったのかよ。インスタントもんが無いのはいくらシンでもおかしいと思ったぜ」
陽光はシンの対応に満足げになり早速カップラーメンを戸棚から取り出すとやかんに水を入れ鼻歌交じりで湯を沸かし始めた。
シンは腹を押さえたままゆっくりと立ち上がり陽光を見ることなく無言で家を出た。