向かい側の芥川
そうしてそこから、得体の知れない朗な心もちが湧き上って来るのを意識した――『蜜柑』/芥川龍之介
栃木県の宇都宮市には駅が二つあって、僕が頻繁に使用する東武宇都宮線には、一般的に知られている宇都宮駅とは違うもう一つの駅がある。別に僕がその東武宇都宮駅を使用するわけではなく、その駅がどういう構造を取っているのかは分からないのだけど、知名度の薄い東武線を説明するときは、大体こういう話を始めるのが僕流だった。定期券の関係上、僕が乗るのは西川田と言う駅までだった。貧相な駅のつくりが連なる東武線の中では大きめのプラットフォームと、駅前のロータリーにコンビニがあることくらいしか特筆することもない駅だったけれど、通学の関係上、その駅を使用する人の数は多い。県内でも数少ない医療系の県立専修学校があるということで、朝や夕方はよく込み合うのだ。
その専修学校に入学して少し経った頃には、電車で通学することも慣れ切っていた。最初はその環境に中々順応しきれず、交通手段の面から学校を辞めたいとも思ったけれど、今はその気持ちすらどこかへ飛び去ってしまっている。確かに大学から講師として来ている有名(と言われている)な教授の授業はちんぷんかんぷんで、専門用語の羅列とも解釈できる教科書の内容は確かに難しいことだらけだけど、クラスメイトとの間に壁を作っていることもないし、コミュニケーション能力に乏しい性格というわけでもないから、今のところは普遍的な生活を送ることができている。
新しい生活の中で、僕が「彼女」と遭遇したのは、入学月の週末のことだった。
委員会の都合と、友達とのカラオケの後ともなると、帰宅時間は余裕で夜中の八時を回っていた。どちらかと言えば広い駅だって、この時間帯になれば利用客は周りにほとんどいない。閑静なプラットフォームには白熱灯のぼんやりとした光が蔓延していて、終えたばかりの冬風がひどく冷たい。薄地のコートで身を引き締めるように体を縮めたところで、僕は年季の入った電車に乗り込んだ。
四両編成の車内は、乗客の姿もまばらだった。中には、缶ビールを片手につまみの裂きイカを口に放り込むサラリーマンの姿もある。談笑に耽っている客の影は無く、大半が携帯電話の画面に入り込んでいるか、口を半開きにして寝ているばかり。僕は車内特有のぼやけた空気を吸い、入り口付近の端の席に腰を下ろした。
自動扉が閉まり、徐に車体が動き出したところで一息ついた僕は、鼻の先に座っていた一人の女の子の存在に気が付いた。マーブルカラーのリュックを膝の上に置き、ハードカバーの本に耽っていた彼女は、一心不乱に小説の世界に瞳を落としている。社内ではよく見かけるはずの光景なのに、何故か彼女の存在は、神聖なものを帯びていた気がした。短めの髪はストレートに伸びていて、少し茶色に染まっている。鋭いフレームのメガネに対して、レンズの先に見える瞳はまだ高校生らしい容貌を残していた。
気づけば僕は、その小さな体に何か不思議な感情を覚えてすらいた。
理由は分からない。クラスを探せばどこにでもいそうな印象すら感じるけれど、微妙に違う印象が、列車内の見えない壁をすり抜けて僕の瞳に飛びかかってくる。色落ちしていない、真新しいジーンズと、紫色のショートカットスニーカーの相性の良さに何か惹かれたのか? 機微ななまめかしさを持つうなじや手首に惹かれたのか? 僕も正直なところ、よくは分からない。
ただこの時からすでに、僕は彼女に惹かれていたのだ。
「看護科の辺見だろ、それ」
昼休みの学生ホールで、僕はその話を二年の仁科先輩から聞いた。チェーンのネックレスが恐ろしく似合う先輩は、ほぼ毎日のように電車の中で見かける彼女のこともすでに熟知していて、聞けば聞くほど彼女に関する情報が入ってきた。
「うちのクラスメイトと同じ高校だったよ。佐野の方から来てるってな。俺らの間では結構注目株の新入生なんだけど、目がいいな」
「いやあ」
曖昧な返事をこぼしつつ、僕は昼食のカレーを口に含む。
「うちの学科はあんまり可愛い女子いなかったからな。まあ辺見くらいになると結構狙う男も多いんじゃねえか? まあ、そこまで一年の事情には詳しくないけど」
陽気な笑みを浮かべた先輩は、リングをはめ込んだ指を泳がせながらそう言った。狙う男か。響きはよくないけれど、確かにそれは否めないかもしれない。
学生ホールの隅の方には、その辺見さんが、クラスメイトであろう女子と談笑を交えて朝食をとっている。ガラス張りの壁から注ぎ込む光が、彼女と共鳴して、そこらへん一帯を不思議な輝きで満たしていた。カレーを食べている場合なんかじゃない、とまで言えるくらい、彼女は神聖で、恍惚さを持っていた。けれど、自分があんな子にこういった情動をもつこと自体間違ってるんじゃないかって、自虐が思わず零れる。
ふと、彼女が目線を逸らすと、フレーム越しの瞳が、僕の瞳とリンクした。僕は思考が停止してしまい、何をしたらいいのかすら分からなくなっていたけれど、彼女が瞳のピントをずらさないまま、小さく首を沈めた。
けれど、彼女の目は笑っておらず、氷を打ち付けられたような冷やかさが脳裏を支配した。
「脈なしじゃねえか」
「先輩は黙っててください!」
先輩がそのあとでメンチカツをおごってくれたのはどういう思惑があったのか、よく分からなかった。
一週間が経ち、二週間が経っても、僕は彼女と会話を交わすことがなかった。何故か頻繁に彼女と同じ車両に乗ることが多くなったというのに、それでも社内の微妙な雰囲気に押しつぶされて、簡単な会話すら交えることがなかった。人なんてそんなものだ、とは自覚していたけれど、やっぱりそれはさびしい。話題さえあればそこを糸口に彼女と言葉を交えるのに、それができない自分にも、すっかり嫌気がさしていた。
そう思っていたからなのか、僕は気づけば、本来読みもしない小説を手に取っていた。電車内で辺見さんはいつもハードカバーの本に目を落としていて、そのほとんどが芥川龍之介の本だったのだ。だから、読書家の母親に薦められた本を図書館で借りてきて、時折乗車中にそれら本を読むことにしていた。彼女の向かい側で読むこともまれにあったけれど、そんな僕の姿にも彼女は反応することは無かった。
転機が訪れたのはその一か月後だ。パソコン室でレポートを書いていた僕は、内容に熱中しすぎたのか、いつもよりずいぶんと遅い電車に乗ることになってしまった。蒸し暑い空気が蔓延する街を抜けて、駅のプラットフォームに足を踏み込んだとき、最初は僕一人しか待ち人がいないと思っていた。けれど、プラットフォームを歩きすすんでいくと、その先に、いつもと同じ調子で活字を眺める辺見さんが、ベンチに腰を落としていた。足音を近づける僕に気を配ることもなく、ただ一心不乱に。
軽い勝負に出た僕は、ベンチの端っこに座る彼女とは反対の位置に腰を下ろし、思わせぶりに借りてきた本を取り出した。一か月でやっと三冊目の本は、正直内容が易しくない。もともと小説なんて読まないたちだし、個人的には、それらの作品に根本的な面白味を感じることができない。
けれど、一度彼女が車内でこの本を読んでいたから。だからもしかしたら、何かのきっかけになれるかも、と言える一瞬の考えだけで、僕はこの本を手に取っていた。
(それにしても、難しい本ばかり読むなあ)
彼女はほかにも、文豪と呼ばれた作家の作品ばかり読んでいたのだ。読書量が皆無に等しい僕にはハードルが高すぎる。でも、文章の堅苦しさをなんとか払拭しつつ、僕は文字を追っていく。
「……芥川龍之介、好きなんですか?」
最初は誰がそんな台詞を言ったのかが分からなくて、理解に一瞬苦しんだけど、すぐにその声が、反対側のベンチに腰掛ける彼女の言葉だということに気が付いた。
僕は引きつった声を絞り出して答えた。緊張で、嫌な汗が噴き出る。
「う、うん、まあ」
「どういったものがお好み?」
「一番おもしろかったのは『蜜柑』かな」
そこで彼女は苦笑した。しおりを本に挟み、口を酸っぱくして僕に言った。
「でも、あなたが今まで読んできた龍之介の本の中には、『蜜柑』は収録されてないはずですよ」
しまった、と思った時にはすでに遅かった。蜜柑は高校の授業でやった小説だ。
僕は思わず本を閉じ、急いでカバンの中に仕舞い込み、頭を落としてうなだれた。終わりだ。でまかせばかりの言葉なんて続かないのは当たり前だ。彼女は軽蔑したに違いない。
でも彼女は苦笑しただけで、瞳を細めて、徐に立ち上がった。リュックを背負った彼女は、僕の方へ少しだけ歩み寄ると、意地悪そうにこんなことを口にした。
「なんか、いつもあなたと会いますね」
確かに、と返答した僕の声はかすれていた。彼女はそこで、少しはかなげな表情を浮かべる。
「……迷惑、でした?」
「え?」
それって、どういうこと? と口にしようとした瞬間、プラットフォームにアナウンスが流れた。彼女は柔らかい笑顔を残したまま、のろのろとやってきた電車に吸い込まれて、隅の席に腰を下ろした。僕も同じように電車の中に入っていくと、ほぼ同時に扉が閉まり、彼女は変わりない口調で続ける。
「『蜜柑』よりも面白い小説、教えてあげましょうか?」
僕の中で、何かが高鳴る。
「あなたが、嫌じゃなかったら」
車体が動き始めた時、いつもよりずっと電車の速度が上がったような気がした。
自分でも何を書いたのかよくわからない小説でしたが……←
ちなみに作中に登場する電車はすべて実在します。何を言いたいのかといえば、僕の素性がばれそうで怖いということでry
すっごく短い話だったので、楽しめたのかどうかは定かではありませんが、こんな拙い物語を読んでいただき、ありがとうございました。