4月28日◆9
館長室での宣戦布告から、何だかんだと様々な確認やら手続きやらがあり、家に着いたのは二〇時を回っていた。
遅めの食事を済ませ、風呂から上がってすぐに自室に篭る。
明日から仕事を本格的に開始する。
そして何故か、集合時間が匠の事務所に六時と言われた。
自慢ではないが、迷子スキルの高さと並んで、朝が弱い。
しかし、やっと匠に仕事をさせて貰えるのだ、弱音は吐けない。
「取り敢えず、探偵たる者、まずは情報整理!」
ユリは独り言を言いながら、一冊の手帳を開いた。
この手帳は、ユリが匠の事務所で働くと決めたときに買ったもので、それから約一年、何にも使わず、この時のためだけにとってあった手帳だ。
初めてのメモが、世界的に有名な”男爵”に関する事件のメモになるとは、ユリ本人も驚いた。
「まずは…、事件についてね。
財団法人 大鳥純忠会が運営・管理するフォーラム”純・フォーラム”の中にある”純・美術館”に、昨日未明届けられた一通の予告状が発端…、と。」
内容は、今話題の”男爵”と名乗る怪盗が、近々”純・美術館”で開催される”シリング王国・財宝展”で展示される目玉美術品、”紅い泪”を盗む、というもの。
予告時間は、開催初日の〇時ぴったり。
その時間は、シリング大使や、財団・美術館関係者が集まって、セレモニーが行われている。
さらにその時間、”紅い泪”は、最近導入したばかりの”超密閉型地下倉庫”に保管されている。が、セレモニーの参加者で、見たいという人が現れれば、パーティ会場へ持ち出される可能性がある。
「予告状については、叔父さん曰く『本物』。
悪戯の可能性は低い。
…このくらいかな。」
丸や四角で囲んだ単語を矢印で結びながら、まとめる。
「次に、”男爵”…。
今世間を騒がせている世界的な怪盗。
怪盗って、今時古臭いかしら…。
でも強盗って言うのとも、ちょっと違うんだよなぁ。」
新聞やテレビで騒がれ、一躍大怪盗として有名になった最初の事件は、二年前のイギリスでの事件だったと記憶している。
大英博物館に保管されていた宝飾品が盗まれた。
前々日に、今回美術館に届けられたものと同じ”赤い紙に白インクでトレードマークをプリントした予告状”が届けられていたが、大英博物館が悪戯と判断して対応したなかった事が、当時のニュースでは大きく取り上げられていた。
その後も、各国の美術館や博物館に予告状を送っては、まんまと盗み出してる。
盗んだものが、その後どうなったかも、”男爵”の正体も不明、という事だ。
「”男爵”については、明日叔父さんたちに聞いてみよう。
次は…、菅野館長さん。」
”純・美術館”の館長。今回の依頼主でもある。
シリング大使とは古くからの友人で、その縁で今回の”シリング王国”の展示会が開催される。
”男爵”が狙っているのは、展示会の目玉”紅い泪”。
警備責任者の飛澤の話だと、既に亡くなっている、現国王の奥様に纏わる装飾品で、今回一番重要な国宝だという。
何故、数ある国宝のうち、”紅い泪”を狙うのか。
国宝の最たるものだからか。
それとも、何か理由があるのか。
”男爵”という名前が出たことで忘れられがちだが、個人的な因縁や恨みの可能性は、決して〇ではない…、と思う。だが、
「館長さん自身は、とてもおっとりしていた印象だわ。
特に人に恨まれたりっていうのは考え難い感じ。
でも予告に関しては、警察に相談したり、探偵を雇うくらい心配していると見える一方で、飛澤さんには私たちの事もちゃんと説明していなかったり、何だかちょっと理解出来ないところもあるけど…。」
「何か考えがあるのかも…。」と声に出しながら、その言葉自体をメモする。
「関係者としては、飛澤さんの事もメモしておかないとね。」
”純・美術館”の地下にある、セキュリティ・ルームの責任者である。
美術館の職員ではなく、警備会社からの出向という話だった。
その警備会社には十年ほど勤務しているらしい。そして、
「美術館の担当になる前は、シリング大使館の担当だったらしいけど、これは大使館の推薦があったらしいって、飛澤さんが言ってたわね。」
さらに、地下倉庫のセキュリティシステムや、あの”小部屋”の導入を薦めたのは、飛澤の警備会社だという。
「因みに、導入は今年の初め。」
飛澤自身は、豪快な性格で、見るからに体育会系な印象だった。
「気のいい人だから、きちんと対応すれば、きちんとそれに答えてくれそうな印象だわ。」
とメモして、ふと思い出す。
「そういえば、”小部屋”の話しのとき、あいつが館長に変なこと聞いてたわね…。
館長も”これでやっと〇地点で並んだ気分”とか言ってたけど…。
何の事かしら…。」
飽く迄も、事件を前提に、だが、何の変哲もない会話のようではある。
が、何となく違和感も残る。
会話以上に、了のあの”笑み”が気になるのだ。
絶対、何か考えての発言に違いなかった。
が、考えたところで、解る事ではない。
「今のところは、このくらいかしらね。」
そう言って、ユリはペンを仕舞いかける。
「…関係者って言えば…。」
正に、今考えていた了も関係者ではある。
「思い出しただけでも腹が立つわ!
まとめたくないけど、こいつも関係者だから一応まとめないと!」
蕪木 了。警視庁の刑事。…なのだろうか。
「っていうか、あいつ何者なのかしら。
警部とか、巡査とか、階級も聞かなかったわ…。」
歳は、三〇代前半。
「減らず口の減らないヤツ。
減らないから減らず口っていうのよね、きっと。
兎に角一言多い、口の悪いヤツっていう印象しかないわ。」
心象は全くよくない。
ただ、事件に関しては別で、飛澤への態度や、館長との会話で何か含ませるなど、事件について少し考えがあるような行動が多い。
「人間としては判らないけど、刑事としては頼りになる人なのかも…。」
そこまで言って、後悔する。
ああ、でも…。
「最初に会ったときから憎ったらしかったし、すぐ人の揚げ足取るし、兎に角、あの嫌味な言葉遣いと、してやったりみたいな笑顔だけは止めて欲しいわ!」
散々ではあるが、一点だけは、責めるところを知らない。「ちょっと、タイプだけど…」と言いつつ、ユリは、欠点らしい部分を全てメモしながらも、
「なんかアイツの事考えると苛々するわ!」
と、ブツブツ言う。
「明日は朝六時には事務所に集合って言われたし、早く寝よ!」
怒りを忘れるには、寝るのが一番だ。
ユリはガサツに手帳を仕舞い、ベッドに転がった。
部屋を眺める。
何故かツルの絡まる古い洋風の家の外観と、白い細い枠の格子窓に合わせて、家具も白を基調に丁寧に集めたお気に入りの部屋だ。
だが、自分の家ではない。
この家は、父の弟である匠と、妻のカナエ夫妻の家だ。
四階建ての小さなビルで、一階と二階に匠の探偵事務所を置き、三階から四階までを自宅に使っている。
匠・カナエ夫妻には子供がおらず、ユリには両親がいない。
だから引き取ってもらったのだ。
小さな頃から、何か難しい仕事をしている匠が大好きだった。
そして、料理が上手で、少し太ったカナエも。
両親は、そろって海外を飛び回る研究者だった。実は今も、一体何の研究をしていたのか知らないでいる。とにかく多忙を極めた両親が残した財産は多額すぎて、まだ子供だったユリには手のつけようもなかった。
だから、大好きな匠とカナエに、その全てを委ねた。
子供のいない匠とカナエは、ユリを我が子のように可愛がってくれた。それは今でも変わらない。
だから、叔父、叔母ではあるが、親でもある。
匠もカナエも、両親の遺産にはあまり手をつけていないらしい。
もう使わないユリの家は処分してしまい、その金でこのビルの補強をしたくらいで、本当に何も使っていないようだった。
質素な夫婦だったが、ユリにはその在り方が、本当に有り難かった。
だから、少しは役に立ちたいのだ。
頑張っている、と自己顕示するつもりはないが、頑張っていることには違いない。
明日から、予告の日までの数日、ユリにとってどんな数日になるのか、胸の中は好奇心と不安と、何故か感じる少しの哀しみで、いっぱいだった。