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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
あのとき、とそれから
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あのとき、とそれから◆10

 ユングベリ伯爵邸に”男爵”から予告が届いた直後、この邸を保有するユングベリ伯爵の後継者である管理人は、ただちにスウェーデン警察を通してあらゆる捜査機関に捜査と保護を依頼した。

 そして施設設備を新調し、セキュリティ面に於いては最新鋭のシステムを導入するなど、金に物を言わせるやり方で当日に備えた。

 しかし、元々古い自家発電やオイルランプに頼っていた施設に手を加えた事が逆に仇になり、当日は例の如く照明は全て”男爵”によって落とされ、敷地の広大さによって警備自体に穴が空いた。

 不測の事態に対応するには限界のある中、館内を警備していた了は、真っ先に予告された品が保管される部屋に走った。配備されてから数日。目を瞑っても歩けるほどにこの館内くまなく歩き回った事が功を奏し、通常の警備に当たる人間では絶対知らない裏道や、館内を短時間で移動出来る道順を得ていた了が保管部屋のあるフロアまで階段で上がったその時、”男爵”が向かいにある保管部屋から出て来たのだった。

 この館は一階が中央付近が吹き抜けになった構造をしており、二階以降はコ型になって、横に長い廊下が並行に二本走って、その先で繋がっている。”男爵”から見て右、了の左側がその方向になる。廊下には外側に部屋が並び、途中に階段は一切ない。そして、廊下が繋がる側は崖に面していることもあり、警備は手薄。逃げるには最高だった。

 ”男爵”は了を見るなり右手へ走り出した。了も即座に追う。

 二人は、お互いをじっと睨み付けながら、ほぼ同速で全力疾走で廊下を走り抜けた。

 廊下の全長は、二〇〇メートル弱。

 月明かりだけが頼りの暗闇の中、不思議と誰一人昇って来ないこのフロアを、”男爵”と了は走った。動きがスムーズである事から、”男爵”も了と同様にこの館内を熟知していたに違いない。

 それが出来るのは、了と同様に警備に当たっていた人間だけだ。

 つまり、予告状があって捜査員が召集された時から、”男爵”はその中に紛れ込んでいた事になる。

 そんな事を考えながら、目を離せば見失うという恐怖から、了は真っ直ぐに、闇の中に溶けながら走る”男爵”を睨み続けた。

 了にとってはこの時、目の前にいるのはただの窃盗犯などではなく、エルシ・バークレイだった。

 エルシを止めたかった。

 ”男爵(エルシ)”を収める視界の端に、やっと端が見えた。次いで、自身のいる廊下の端に立つ柱も見えた。了は柱に手をかけ、一気に”男爵”の方へ曲がった。”男爵”も同じように了の方へ曲がってきたが、若干”男爵”の方が速かった。

 直角に曲がり、体にかかるGを手で支え、それ以外の動作が困難な了に向かって、”男爵”が飛び掛った。

 そのジャンプ力はすさまじく高く、最高点は了の頭上を越えた。その高さによって、下に避ける空間を見出した了が、即座に体を仰け反り飛びかかる”男爵”を避けると、そのまま柱を掴む手に力を入れ、一気に体の向きを変えた。しかし、その直前に着地していた”男爵”は、同じように反転し、ナイフを手に了に襲い掛かった。

 了は勢い余って側面にぶつかった反動を利用し、今度は前方に屈み踏み込んでナイフを避ける。耳元でナイフが風を切った。そこで了が再び反転しようと体を捻ったとき、”男爵”が了を後方へ押し倒した。

 了は脚が絡んで倒れ、”男爵”がその上に馬乗りになる。そして左手で了の右腕を押さえると、ナイフを振り上げた。了は唯一自由だった左腕で”男爵”の右手を押さえにかかる。が、上から振り下ろされる腕の力に負け、十分な阻止も出来なかった。

 ナイフは頚動脈に傷がつくほどの深さで了の首を裂き、柔らかく分厚い絨毯に刺さった。

 腕で阻止しなければ、死は免れなかっただろう。そのとき”男爵”の腕に引っかかった左手が、”男爵”の衣装を掠めた。了が”男爵”のタイピンを見たのは、この時だった。

 血の噴出す首に手をあて、了はそれでも”男爵”を睨み付けた。

 ここで死ぬ訳に行かなかった。

 エルシを呼ぼうとした。だが、声が出なかった。

 ”男爵”はそんな了の顔に自分の顔を近付け、ふっと微笑んだ。

 その時、きらりと灯りが射した。その灯りはほんの一瞬だがエルシの瞳を照らした。

 その瞳は、とても綺麗な緑色で、うっすらと赤茶の濁りがあった。

 そして、その瞳の色を見た瞬間、”男爵”が素早く立ち上がり、廊下の端にある大窓から崖へと飛び降りた。崖下は深く緩やかな川になっており、しかしこの暗闇では、捜索は困難な場所だった。

 体の自由になった了は、まだ血の溢れる傷口を抑え、首元に違和感を感じた。

 鎖がない。

 あのロケットの鎖がない。

 ナイフによって切れてしまったようだった。

 了は朦朧とする意識の中、焦っていた。

 あれだけは失う事は出来ない。

 何とかうつ伏せになり、顔を上げると、血溜りの中に落ちるロケットを見付けた。

 出血しすぎた。腕を動かす事さえ、息をする事さえままならない。了が腕を勢いをつけて動かすと、手は運よくロケットの上へ被さった。

 震える手で、ロケットを握り締める。

 シャラと小さな切ない音を立てて、ロケットは了の手中へ納まった。

 そして、了の記憶は途切れた。


「…あの暗闇の中、あいつも狙いを定められなかったんだろう。

 急所を僅かにずれて、命だけは助かった。」


 その直後駆けつけた、灯りの主である捜査員の手によって救助された了は、ただちに緊急手術を施され、一命を取り留めた。

 一時昏睡状態となったが、一週間後、何とか意識を回復し、日本に帰国するや否やリハビリを始めた。

 一週間寝て過ごした体は、自分のものではないくらいに自由が利かなかった。

 力をどこに入れれば歩けるのか、指をどう動かせば物を握る事が出来るのか。

 頭では理解してそうと命令しているのに、体が従ってくれなかった。

 歩き、簡単な動作以外は、初歩からやり直さなければならない状況の中、了はひたすらリハビリを続けた。

 筋力トレーニングから始め、階の上下には階段を使い、箸を持つという動作すら、左右の手に教え込んだ。あらゆる状況に備え、利き手が使えなくなったとき、補完出来る技術が欲しかった。

 たった一週間で失ったものを取り返すのに、数週間かかった。

 だが、約一ヵ月後、退院した時には、周りが驚くほどに体も鍛えられていた。


「そんな、危ない目に…。」

 了の話の区切りを見付けたユリが、呟いた。

 この病室に来て、”男爵”の話を聞き始めてから、何となく責任を感じていた。

 泣きそうな顔をするユリの心中を悟った了が、苦笑した。

「…海外での仕事は、こんなもんだけどな…。」

 だが、この言葉は何の慰めにもならなかった。

 ユリを巻き込んだと思ってしまったと了は思っているが、ユリにすれば、了を巻き込んでしまったのは自分や家族だった。そして、巻き込んだばかりか命まで危険に晒してしまった。

 それも二度もだ。

 例え、大元はユリに全く関係のない事でも、ユリにとって責任重大な事だった。

 そして、いつの間にか寄りかかっていた了という存在が、もしかしたら今日、こんな風に笑えなかったかも知れないと思うと、心臓が締め付けられた。

 もう二度と、こんな事がないようにという思いは、今はまだ叶わない。

 ならば、自分の願いはただ一つだ。

「……ねぇ。」

「ん?」

「…まだ、追うでしょ?

 ”男爵”の事。」

 ユリが問うと、了が笑顔をすっと仕舞った。

「…ああ。」

 了が頷くと、ユリは思った通りの答えが返って来た事に満足し、背筋を伸ばして、ロケットを握る手を了に突き出した。

 そして匠や父がやったように、指の力を抜いた。指の隙間からは、ロケットが零れ落ちた。

 ロケットは何度か跳ねた後、捻れたチェーンに誘われ、くるくると踊った。

「なら、これは了に預けるから。」

 ユリが了を見据えた。

 確信と、信頼を込めたその表情をするユリは、了が出会ってから一度も見た事のない、凛としたユリだった。

「…。」

「お守りよ。

 こうして、一度は私の手に戻ってきたんだもん。

 きっと、お父さんとお母さんが、了を守ってくれるから。

 持って行ってあげて欲しい。」

 ユリに言われ、まだ微かに揺れるロケットに目をやる。

 どんな言葉を発するのが適切か、ユリの思いを受け取り、遂げる力が自分にあるか。今までだって戸惑いがなかったわけではなかった。だが、今までは自己の思いだけが自分を突き動かしていた。その分、楽と言えば楽だった。

 だが、これからはユリの思いも背負う事になる。

 覚悟がないとは言わない。が、その力が自分にあるのか。

 もう二度と、笑顔を失わずに済むのか。

 不安がない訳はない。

 どのくらいの時間か、二人で押し黙った後、ユリが俯いて呟いた。

「…もう…、嫌なの…。」

「?」

「嫌なの。

 私の知らないところで誰かが傷付くの。

 ちゃんと帰って来て欲しいの。」

 そう言って、ユリが顔を上げた。目は、今度は了を睨みつけていた。

 だが、憎しみなどというものはなく、あの一週間で見慣れた、いつものユリの怒り顔だった。

「死ぬんだったら、私の前で死んでよ。」

 その言葉に、了が吹っ切れた。

 それが望みなら、叶えられるだろう。

 了は頷いて、手を伸ばし、ユリの手にぶら下がるロケットを優しく指でつまんだ。

「わかった。約束する…。」

「絶対よ。」

 ロケットを媒介にして、心が通ったかのように、二人は暫し微笑み合った。

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