あのとき、とそれから◆9
了が暫し無言になった。
長い語り故、多少なりとも息が切れていた。
「…あの日、大使が病院に行ったのは、その話をするためだったのね…。」
ユリが言うと、ゆっくりと深呼吸を一度して、了が頷いた。
「ああ…。
これは菅野からの調書が取れた。
だが、バークレイとエルシで、目的としているところは同じなのに、エルシはバークレイを誤解していた。
家族を省みない父親としてしか、もう見られなかったのかも知れない。」
一方、バークレイは事の最後の仕上げとして、エルシとの対面を望んだ。
「順を追って話そう。
ただ、これについては証言者がいないから、推測になるが…。」
そう言って、了がもう一度深呼吸をした。
エルシがどこにいるのかも知らず、呼び出す方法も持っていなかったバークレイは、あの夜、予め入手していた菅野のセキュリティカードを使って美術館へ入り、館長質へ向かった。
菅野なら、エルシの居場所を知っていると思ったのかも知れない。
しかし、館長質で菅野のデスクを漁っていたとき、思いもよらず、エルシが現れた。
「恐らくその場で少しは話し合いが行われたんだろうと思う。
だが、長い年月を経て、お互いに歩み寄るなんて出来なかったんだろう。」
エルシはバークレイを刺し、そして…。
「たまたま私に見付かって、逃げた…。」
「ああ。
ただ、バークレイの遺体には、抵抗したときに出来る細かな傷が一切なかったそうだ。
凶器は、俺を刺した時に使ったナイフと同じもの。傷口がほぼ一致した。
恐らく、抵抗する気なんてなかったんだろう。
ここまで来たら、最後まで息子の好きにさせようと思ったのかもしれないな。」
了がそう言うと、ユリがはっと顔を上げ、了に詰め寄った。
「そ、そんな…!
息子を殺人犯にしたいなんて、考えるの!?
普通じゃないわよ!」
言われた了は困惑し、勝手な推測を告げた事を少しだけ後悔した。
「…どうだろうな…。
俺には、わからない。
でも、少なくとも、バークレイは抵抗はしなかった。
それは事実のようだ。」
そして、父を手に掛け、探し物も見つからないまま、最終日を迎える事となる。
「飛澤から”紅い泪”の運搬役として指名されたエルシである”男爵”は、セレモニー開始とともにまず菅野を襲い、しかし…。」
了が意味ありげに言葉を切った。
ユリが首を傾げると、了が真っ直ぐにユリを見た。
「…”紅い泪”は奪わなかった。」
「え?」
「正確に言うと、『奪えなかった』、だ。
”男爵”が菅野を襲った瞬間、”紅い泪”は消えた。」
ユリは呆然とした。
”男爵”が狙っていた”紅い泪”が、”男爵”が手にする事なく消えた。
一体なぜ…。
思い耽って、あの夜の事を瞬時に思い出す。
あの闇の中、紅い光を確かに見た。
「…あっ!
クレア…。」
そうだ。クレアが持っていた。
あの時も、何故と思ったのだった。
了が頷いた。
「そう。
クレアが持っていた。だから奪えなかった。
一方で屋上まで運んだ菅野は、投げ捨てて死なせるつもりだったんだろう。」
だが、その最中で、特別展示室のベランダをよじ登って来た了に焦ったため、中途半端に菅野を投げ出す羽目になった。結果、菅野は、屋根の出っ張りに服が引っかかって、茂みにも助けられ、打撲だけで事なきを得た。
「”男爵”に至っては結局、目的は果たされなかった。
”男爵”にとって初めての、予告失敗。
”紅い泪”は奪われず、”男爵”は消えた。」
御伽話の結末を語るように、了が静かに言った。
そのまま、また無言になる。
ユリも、発する言葉が思い浮かばず、黙っていた。
窓から、少し生暖かい風が吹き込んだ。
もう五月も半ばだ。そろそろ夏になる。
つい先日の、月夜の晩の冷たい風が、記憶から溢れて背筋をなぞった気がした。
「…”男爵”…、エルシは、これからどうするのかしら…。」
了が首を横に振った。
「わからん…。
俺らが手に入れた情報は、まだ各国の情報機関と共有をしていない。男爵がエルシであると断定する証拠がないからな。だから、今の時点でも、エルシは手配されないし、容疑者にもならない。
この状況で、もう一度”紅い泪”を盗むか…。
それとも…。」
それとも。
「諦める…か…?」
「ああ。
俺は、諦めないと思ってるけどな…。」
そういう了の表情は、険しいままだった。
ユリは了の視線から目を逸らし、拳を握り直した。
ふと、手の中がざらついた。
匠から預かったロケットだ。持っていた事を忘れていた。
そしてその瞬間、あの夜の事を思い出した。
バークレイの遺体を見付けた、あの日の事だ。
朝、目を醒ました時に見た、あの…。
「了…。」
ユリが徐に、了の名を呼んだ。
「ん?」
険しい表情を宥め、普段の眠そうな顔に戻った了が、短く返事をした。
「私、クレアのお父さんが亡くなったあの日、了の頚に傷を見付けたの。
その傷の事、聞いてもいい?」
ユリが言い終わると、了が眉間に皺を寄せ、苦悶の表情を見せた。
やはりあの一週間の間に見た、何か苦しい記憶に思い耽る時の顔だった。
言い難いのか暫し黙り込んだ後、了は渋々という感じで、話し始めた。
「…シリングで、医者の話を聞いて、俺は”男爵”がエルシだと知った。」
まだ確信を得たわけではなかった。
だが、自分の知る誰でないにしても、野放しは出来ない。それがエルシなら、感情は少し、変わった。
「エルシを止めてやりたかった。
エルシを止める事で、”爆破事故”の真相もわかるだろうと、そう思ってた。
ちょうどそこへ、スウェーデンのユングベリ伯爵邸に”男爵”の予告状が届いたと報せがあった。
俺は、その捜査に混ざる事が許された。」