あのとき、とそれから◆7
何度も何度も読み返せば、またシリシ・バークレイの名を見つけた時の様に、何か、何か見つけられるかも知れない。そんな思いから、了は何度も資料を読み返した。
そして、搭乗者名簿の中で菅野を見付けた。何故見落としたか、というより、当時この資料を入手した頃は、菅野の存在など知らなかったから、気にしなかっただけだった。
菅野はあの飛行機の搭乗者名簿に名前があった。それだけでなく、あの日、三枚のチケットを予約したのは、菅野だった。だが、あの日、菅野は乗っていなかった。
だから、事故を免れた。
だが、その事実は、爆破後、早いタイミングでバークレイの耳にも入った筈だ。しかし、バークレイがその後、菅野に対し何がしかの行動を起こした気配はない。
そして同時期に、シリシ・バークレイの調査を終えた部下の情報に基いて、王妃とシリシ・バークレイは同一人物だという結論を導き出していた了は、即座に仮説を立て直した。
「あの爆破で殺したかったのは、菅野ではなかった。」
標的の一人として菅野は挙がっていただろう。もしかすると、当初の目的は菅野ただ一人だったかもしれない。
バークレイの目論見は外れたのか、菅野は乗っていなかった。
しかし、菅野よりもっと優先順位の高い標的が現れた事で、そのどちらかが消えれば、取り急ぎ目標は達成出来たのではないだろうか。
ならば、その対象は誰だ。
当然考え得る人物は、菅野がチケットを取った研究者二人だった。
研究者が消えれば、バークレイの目的の多くは達成されたのだろう。
管野の搭乗は、重要度としては高くなかった。
「遺伝子工学研究者に、毒物死に詳しい毒物研究者。
遺伝子工学研究者は…、名を”芳生 貢”と言う。」
了の言葉に、ユリが息を飲んだ。
「お…お父さん…!?
じ、じゃあ…もう一人の研究者って、まさか…。」
ユリを直視出来ないのか、了は俯いたまま、続けた。
「毒物研究者。
名は”芳生 奈津子”と言う。」
「…そんな…。」
父と母。
ユリは、両親の職業を聞かされていなかった。
何かの研究をしているとは聞いていたが、何かまでは、両親は頑なにそれを語る事を拒んでいた。
ユリにすれば、両親の職業がなんであれ、彼らは両親以外の何者でもなかったから、知らないままでもよかった。
「匠さんから、キミは両親の職業を知らないと聞いていた。
だから、ずっと匠さんと、この事について告げるかで揉めていた。
あのクレアが取り乱した夜も…。」
言われて、思い出す。
”親殺しの犯人”。今わかった。
あれは、自分の事だったのだ…。
「匠さんは告げるべきだと言ったが、俺は告げたくなかった。
これ以上、キミを傷付けたくなかった…。」
その言葉に、ユリははっとした。今なら、あの一週間の、匠の色々な言動が理解出来た。事件について持論がころころと転がる理由も、ユリを守るためのものだったのだろう。匠の意思との間で揺れ動いて、結局ふらふらとぎこちなく説明するしかなかった状況は、解ってしまえば想像に難くない。歯切れの悪い言い回しさえ、納得が行く。
「…ごめん…ね…。
気を遣ってくれてたのね、ずっと…。」
「いや、謝るのは俺の方だと思う。
こんな事になるなら、始めから…、キミが美術館に来たあのときに、全てを話して、キミが拘るのを阻止した方がよかったんじゃないかと、ずっと思っていた。
匠さんには、この捜査経過を伝えていたから。”男爵”の予告が来た段階で、匠さんも事の裏事情は知っていたんだ。
知らなかったのは、キミとクレアくらいだ。」
どんどん、疑問に思っていた事が繋がって行った。
「だから、妙なところで話が通じてたりしたのね…。」
「すまなかった。」
了が謝ると、「ううん」とユリが首を小さく振った。了がやっとユリを見ると、表情には仄かに微笑が浮かんでいた。
「…謝ることじゃないわ、きっと。
なぜか解らないけど、全然堪えないの。
まだ実感がないからかもしれないけど、でも、お母さんとお父さんが死んだ事の真実が、少しでも解るのは、有り難い事なのよ。
本当よ。
どんどん、現実になって、改めて哀しみになってくれれば、そのあときっと、本当に立ち直れるわ。」
ユリが了を見た。直視されると、怖い。
何度も思った視線。射抜かれ、心を見透かされている感覚を覚える、真っ直ぐな瞳。
困惑した表情でユリを見る了に、ユリはもう一度笑った。
「ね。
そう、そして?
続きを聞かなきゃ。」
ユリが強く言うと、了が額に手を当てた。
「…ああ…。
俺の調子が狂うな、お前のペースは。」
そういって、苦笑すると、ユリが頬を膨らませた。
「……なによ。
毒物研究者と遺伝子研究者。
この二人がシリングに呼ばれた理由を考えればいいのね。」
早々に思考を切り替える。
遺伝子工学研究者と、毒物研究者。
不思議な組み合わせだ。
菅野は、一体なにを調べさせるつもりだったのか。
「あ…。もしかして…。」
ひらめいたユリに、こちらも早々に気持ちを切り替えた了が頷いた。
「多分、アタリだ。
彼らは、”誰か”の死因を調べるために、シリングへ向かっていた。」
「…王妃…。」
「もしくは、シリシだが。
遺伝子研究員がいる事から、恐らく王妃とシリシが同一人物か調べる事も、その一環としてあっただろう。
”爆破事故”当時、既にその情報を入手していた菅野は、それを証明する事で、金の支払いを終わりにしたかったのかもしれないと思った。
一方で、バークレイは菅野の計画を阻止したかった。
何故だ?」
不思議な事に、バークレイが、菅野から送金された金を引き出した形跡はなく、もちろん、それ以外で入金も見当たらず、金はただ、放置された口座に、定期的に送金され、放置されている状態だった。
バークレイの口座については、各国の金融機関の協力を仰ぎ、情報収集をしたが、別の口座でも、不審と思われる金の動きはなかった。
この事から、バークレイが金を要求したのではなく、菅野自らが金を支払っていたのではないかと推測を変えた。
考え難い事ではあるが、バークレイの立場上、要求した覚えはないと言う言い訳は通用しないと思われる事から、この推測の方が、より現実に近いと考えられた。
「王妃とシリシが同一人物だと、バレてはいけなかったのね。」
「そう。
だが、それだけのために人まで殺すだろうか。
何の関係もない人間を大勢巻き込んで、あんな大事にまでして。
爆破してでも、阻止したい事。
恐らく、ほかにあったはずだ。」
どうしても、何かピースが足りない。
そう思えてならなかった了は、シリングに向かった。
向かう先は、王妃の死亡時、彼女の死亡確認をした医師の自宅だった。
彼はバークレイ一家とも交流の深い医師で、シリングの首都郊外に、小さな診療所を設けていた。
最初、医師は頑なに口を閉ざしていたが、バークレイが日本で起きた”飛行機爆破事件”の容疑者である事、その飛行機に、ある日本人と二人の研究員が乗っており、犠牲になったと告げると、案外とすんなり話してくれた。
「アレンは脅されていたんだよ、スガノにね…。」
訪れた夕方という時間帯では、もう診療所を訪れる患者もいないようで、ひっそりと鎮まりかえった診療室の席に座って、医師は溜め息混じりに言った。
「この辺りの国には、昔から、女が男からの婚姻や交際の申し出を断ると、親族や本人によって、恥をかかされた仕返しと称して酸を浴びせる者がいる。
男の権利の方が、まだ強いんだな…。
シリシもそうだった。
美しい女性だったが故、国王がその権力と脅しを振り翳して、シリシを奪ってしまったんだ。
シリシもアレンも、国を出る自由はなかった。
だから、従わざるを得なかったんだよ…。
一方では、国も大事だが、家族の方が大事だ。
だから何もかもを隠し通したかったんだよ。
誰にも、家族を傷付けられたくなかったんだ…。」
菅野は何をきっかけにしてか、シリシと王妃が同一人物だと知っていた。
それをネタに、バークレイを脅迫していた。
だが、菅野がネタにしていたのは、シリシの事だけではなかった。
保険として、金を払いながらも、バークレイにはクレアに対する猥褻行為自体を堂々と告げていた。
「猥褻の事実は、バークレイだけが気づいた事だったが、クレアに知られるのが嫌で、シリシの事とともにずっと黙っていた。
金銭の要求もしなかったが、ただ自分以外には、この事を隠し通して欲しいと要望したらしい。」
だが、菅野は菅野で、企みがあった。
医師の話では、菅野は、自身が勝手に行っていた送金をバークレイに要求されて支払った金と誤った公表しない事と、シリシの正体を公表しない代わりに、シリングの美術品や宝飾品類の貸し出し優遇の条件を出したり、時には金銭要求を行った。
「そして、要求はついに、クレア自身に及んだんだ…。
スガノはクレアを養女にしたいと言った。
目的は、言わずもがなだ。アレンは断っていたが、状況的に限界があった。
それをある日、エルシが知ったんだよ。」
さらにエルシの口から出たのは、知っているとは思いもよらぬ、母に関する真実だった。
「死亡確認を行った私に、エルシはある日言ったんだよ。
『母さんは、毒を飲んで死んだんだね?』とね。
王妃の死が服毒死である事は、その時アレンとエルシを呼んで話したんだよ。
エルシは取り乱しもせずに、クレアには言わないとアレンに言ったそうだ。
そして後日、エルシはある侍女の証言で、宝飾品の中に赤いボトル状のものがあり、シリシがその中に毒を入れて持ち歩いていた事を知ったんだ。心配した侍女がアレンと私に教えてくれてね。彼はそのボトルにとても強く興味を示したと言っていたよ。
アレンは酷く悩んでいた。段々と、内に篭るようになり、他人にも家族にも心を開かなくなった。
そして、エルシがいなくなった。
きっと、アレンの状況を見兼ねての事だったんだと思うよ…。
エルシは、アレンを酷く恨んでいたからね…。国に居られなくなろうが、母を売った父という認識しか、あの子にはなかったんだろう…。
あの子をあんなにしてしまったのは、この国の大人たちなんだよ…。」
家族は父が望まない方向へ、駆け出してしまった。