あのとき、とそれから◆4
どのくらい詫び続けただろう。
不意に肩を叩かれて、振り返ると、少し小太りの女性が、了の肩に手を添えて心配そうに覗き込んでいた。
女性は了の顔を見るなり苦笑して、小さく一つ頷いた。
了にはそれが合図に思え、のそのそと立ち上がり、少女をちらりと見、和室を出た。
廊下では、少女の叔父が了を迎え、女性と同じように小さく頷いた。
夫婦だろうか、細身で長身の叔父と、小太りで背の低い女性は、あまりにアンバランスに見えた。
叔父に促され、玄関を出ると、了は叔父を振り返り、頭を下げた。
「このロケット、暫く預からせていただけませんか…。
事件が、解決するまで…。」
了が事件と言った事で、すべてを理解した叔父は、少し困惑した後、微笑んだ。
「…わかった。
預けよう。
でもそれは僕のものではないから、全て終わったら、あの子に返してやってくれないか。」
閉めた玄関の扉の向こうを見るように、叔父は微笑んだまま扉を見つめた。
「”悠璃”だよ。何度でも輝く宝玉。その名前の通り、明るさだけが取り得というくらいの子だったんだ…。
キミが、”戻して”やってくれ。」
このロケットを返す時。
少女に笑顔も還す。
この日から、それが了の生きる使命となった。
了は爆破事故に絡めたバークレイの単独捜査を始めた。
あの日の記憶を頼りに、バークレイの手から香ったフレグランスまで、職人に発注し作ったりもした。
なにが何でも、どんな情報でも、欲しかった。
だが、当たり前な話、バークレイに関する情報に限らず、どうやっても県警の捜査結果以上の情報も証拠も見付からなかった。
調べるにも、了の立場では限界があった。
それでも可能な限りの情報を集めた。
単独行動だったし、一歩間違えれば国際問題になり兼ねない。
周囲には何度も止められたが、確信した事を棄てる訳に行かなかった…。
並行して、了のいた部署で、既にフランス警察によって”四二二号”と命名された、後の”男爵”の捜査を行う事になった。爆破事故から、一年が経過していた。
爆破事故の単独捜査と、”四二二号”の公式捜査。
権限の行使の力加減に戸惑いながらも、捜査を続けていたある時、不意に、あの日のラジオのニュースを思い出した。
正確には、そのときのバークレイの態度だ。
妙に気になった…。
もしかしたら、何か知っているのかも知れない。
日付も、ニュースの流れた時間帯も、チャンネルもはっきり記憶している。その記憶を頼りに、ラジオ局へ問い合わせ、当時の情報を入手した。バークレイに繋がるなら、どんな情報でも良かった。
調べてみて初めて、あのニュースが”四二二号”による犯行だと知った。
改めて、手元にある”四二二号”の資料とニュース内容を見比べ、そして当時のバークレイの態度を思い出す。
そんな事を繰り返し、さらに二年。徹底的に調べた。
”四二二号”、あのニュースの被害者、バークレイとの接点の有無…。
だが、いくら調べてもバークレイと被害者の接点はなく、”四二二号”については山程の容疑者が浮かんでは消えて行き、何の進展もなく時間だけが過ぎて行った。
そして、限界が来た。
単独捜査の事実を知った大使館から、これ以上の、バークレイの捜査を禁止する通告があった。
情報は規制され、新しい情報を手に入れることが出来なくなった。
それでも、古い情報を洗い直した。
そして、道しるべは偶然に、突如として現れた。
何度も読み返した資料の中に、”四二二号”が一番最初に盗んだとされる”黒い薔薇”の製造経路が書かれていた。
そこに、”バークレイ”の名前を見付けた。
「シリシ・バークレイ。
バークレイの妻、クレア・バークレイの母親の名前だ。」
”黒い薔薇”の元々の所有者は、シリシ・バークレイだった。
シリシの死後、バークレイは”黒い薔薇”を何故か手放した。
実際には、手放されたシリシの遺品はこれだけではなく、宝飾品の殆どが一度解体されただの宝石として売り払われ、そしてどれもこれもが、再加工して別物に姿を変えて、また手放され、贈与されていた。
”四二二号”の捜査では、盗難品についてはその殆どが、加工業者や宝石店、贈与元の特定のみに留まり、宝石の仕入れ元などまでの調査をおこなっていなかったのが、結果として各機関がこの事実にたどり着いていない理由だった。そもそも、それ以前に、現物となる前に宝石をどこで入手したかという証言を取った形跡がなかった。意図的にと言うより、捜査側は聞かなかった、捜査対象は言わなかった、という単純な構図の結果だった。後に解った事だが、その裏には、宝飾品に使われた宝石のどれもが、国際法に抵触する寸前の活動をする宝石商から買い取られたもので、それを転売、加工された姿が、盗難にあった宝飾品だった事実もあった。
シリシの名とて、たまたま加工業者が証言した話の一行だっただけで、資料も他にはなく、然して重要視されていなかった事を物語っていた。
糸口は一つ見付かった。
だが、もう新しい情報は手に入らない…。
悶々としながらも、シリシの名前を見付けた日の深夜、了は、同僚がみな帰り、誰もいない警視庁の自部署で、照明を消し、机上灯だけを灯して資料を読み耽っていた。
この辺りは夜になると車通りは一気に減り静まり返る。官庁の多い周辺の建物には灯りも灯っておらず、都心にしては随分と濃い暗闇に包まれる。
煌々と照明が灯る建物は、了のいる警視庁と、隣の警察庁くらいで、あとは少し離れた場所にある企業ビルくらいだった。
そんな闇の中、独り文字を追う了に、突然誰かが声をかけた。
「”カブラギ トオル”ちゃんって、キミ?」
聞き覚えのない、少しおかま染みた口調だった。
声の方を見ると、主は暗闇の中、廊下の切れかけた弱い照明を背負い、了の部署のドアに寄りかかっていた。
逆光だが、その表情がにこにこと楽しそうにしているのは、はっきりと見えた。
「…どちら様?」
突然、面識のない人間に”ちゃん”付けで気安く呼ばれ、連日の徹夜で気が立っていた事もあり、ありったけの不機嫌を声に乗せて問うと、声の主は一層楽しそうににやけた。
「キミが望むなら、キミが手にしたいと願う全ての情報を得られる力をあげるよ。」
その言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。
この一言には、了の存在を掌握し、了の心の底を完全に覗き見、思考を読了しているという意味合いが篭められていると思えた。
了は声の主を闇の中で睨み付けながら、それでも心は、この言葉の甘い香りにぐら付いていた。
三年、猪突猛進してきたが、そろそろ心も軋み始めていたのだった。
「…。」
「決意が固まったら、連絡をしなさいな。」
無言の了に声の主はそう言い、ドアの脇にある背の低い書類棚の上に一枚の名刺を乗せると、かつんという高い足音を響かせながら、闇の中に消えた。
足音が聞こえなくなるまで、身じろぎ一つしなかった了だが、やがて足音の余韻までも完全に聞こえなくなると、ゆっくりと棚に近付き、名刺を手に取った。
僅かな照明の中、名刺を読む。
法務省 特別調査室 室長
第一級検事 高遠 春彦
名刺にはそれしか書いておらず、眉を顰めて裏返すと、小奇麗な字で電話番号が書いてあった。
一目見て、この字が名刺の主である”高遠”の文字だと悟る。
今からちょうど、三年前の事だった。
「特別調査室。
法務省下にはあるが、任務においては如何なる組織の制約も受けない、主に国際犯罪に関する捜査に特化した、完全な独立組織。
国内において銃の通常所持が許され、国際捜査組織と連携しての捜査は組織制約を受けない分、他機関よりもやり易い。
一級検事と二級検事で構成され、通常は一般的な検事と変わらないが、一度特命捜査に入れば、その立場や権限は警察組織は元より、場合によっては内閣総理大臣を上回る。
限界を知った俺には、そこへ行くしか道はなかった。」
了は躊躇わず、高遠を訪ねた。
法科大学での受講実績はあった。警察試験に合格した年、同時に司法試験にも合格していた。
警察機構での実務経験はある。
検事採用はあっという間に決まった。
特別調査室の異種性と、採用までの了の履歴の異例性を鑑み、了には、一級と二級の間の”準一級検事”という、了のためだけに作られた特殊な位の階級が与えられた。
そして、特別調査室へ出向いた初日、既にそれまでの過程で何度か顔を合わせて顔馴染みになっていた高遠は、自分の机に両手で頬杖を突いて、満面の笑みで了を迎えた。鼻の下の髭がダンディさを醸し出している割に、スーツのカラーコーディネートがピンクを基調として、やはりおかまチックだった。
「とーるちゃん、やっぱり見込んだとおり優秀じゃない。」
「その”とーるちゃん”ってやめませんか?」
「なんで? かわいいじゃない。
いいね、”とーるちゃん”。」
「…。」
もう何年も知り合いであるかのように、了と高遠の息は合っていた。
「でね、早速なんだけど、とーるちゃん。」
「…はい…。」
「うち、しばらく”男爵”の捜査をする事になってるの。」
”男爵”については、この頃既に、各国の調査機関内で”男爵”というコードネームが付けられていた。
「もちろん、通常業務はやってもらうよ。
裁判にも出てもらうし、検事調べも行ってもらうし。
でも、最優先事項は”男爵”の捜査ね。」
そう言って、高遠は了に三名の部下を紹介した。
秘書役の女性、情報収集やデジタル情報解析のスペシャリストである男性、五ヶ国語に精通し海外との情報交換を行う男性。
何れも二級検事だった。
「高遠さんは、”男爵”の事件とあの爆破事故には関連があると、最初から考えていたみたいだった。」
だから、予め爆破事件の調査をしていた了は、都合が良かったのだろうと思われた。
高遠の下で海外の捜査組織との連携をしながら、”男爵”の捜査を進めていくうち、非公式見解ながらもシリング王国にたどり着いた。
しかし、物事は繋がるのに、何一つ決定的な繋がりを示す証拠は挙がらない。
「相手が巧かったのか、俺たちがヘボだったのかはわからないが、”男爵”とシリングの蜃気楼を見ながら、結局ここまで捜査が延び切ってしまった。」
”男爵”の事件からシリングへたどり着き、その後ろに見え隠れする”爆破事故”を追いながら、関係者の一人としてバークレイの情報収集も行ったが、そちらでも決定的な証拠は出てこない。
権力はあれど、所詮は証拠なくして解決は見られないのは変わらなかった。
そんな中で手に入れた情報に、バークレイの友人の一人として、菅野の名前があった。
バークレイと繋がりがある。
その当時はそれだけの情報だったが、詳しく調べてみると、バークレイと菅野の間に金の流れがある事が解った。
菅野はバークレイに、約八年強、金を払っていた。
情報を掴んだのは、一昨年の年末の事だった。