あのとき、とそれから◆3
あれは、六年前の、二月を少し過ぎた頃だったと記憶している…。
当時、警視庁の国際課に配属したばかりの了は、ある日、シリング大使館のバークレイ大使を空港へ送るよう、指示を受けた。
何故警備部ではなく国際課に依頼が来たのかは、今考えてもよく解らないが、了は朝八時半にシリング大使館へ行き、車でバークレイを空港まで送った。
「国際課の蕪木です。
本日、空港までお送りするよう、任を受けて参りました。」
「ご苦労。よろしく頼む。」
社交辞令か手を出され、軽く握手をすると、ふわりと甘い匂いがした。
蜂蜜のような、柑橘系のような、甘い、甘い匂いは、感じたと同時に消えてしまった。
空港までの道すがら、ラジオでは”男爵”のニュースが流れていた。
尤も、当時はまだ”男爵”などという存在は影も形もない頃で、ただの窃盗事件みたいに報道されていたが。
それを聞いたバークレイは、不機嫌そうに「下らない」と吐き捨てた。
平日だというのに首都高は混んでいて、空港に着いたのは、搭乗予定の飛行機の離陸時間直前だった。
しかし出国カウンター手前まで来たとき、バークレイが足を止めた。
「ちょっと、ここで待ちたまえ。」
「…は? あ、でも時間が…。」
引き止める了に振り向きもせず、バークレイは手洗いに行くといって、行ってしまった。
仕方なく、了は荷物番をしながら待った。
空港は珍しい訳ではないが、頻繁に来る場所でもない。何となしにキョロキョロと辺りを見物していると、ある三人の親子を見付けた。
「大丈夫?
困った事があったら、叔父さんと叔母さんに言うのよ。」
「大丈夫よ!
ちゃんとご飯も作れるから!」
「お腹でも壊したら大変だから、カナエさんに作ってもらいなさい!」
「ちょっと! ヒドイ!
たった一年じゃない! 大丈夫だよ」
「落ち着いたら、帰るから。
電話もするからね。」
「うん! いってらっしゃい!」
何気ないやり取りだったのに、何故か気になった。
物心ついた頃から既に母親の記憶がない了には、そのやり取りが羨ましかったのかもしれない。
にこにこと笑うその子が、とても健気に見えた。
その親子は名残惜しそうにいつまでも手を振って、両親が搭乗したあとは、その子は窓辺で飛行機をじっと見つめていた。
気付くと離陸時間が過ぎていた。なのに、一向に飛行機は飛び立たない。
不信に思ってカウンターへ向うと、バークレイがゆっくり手を拭きながら戻ってきた。
あまりにゆっくりと歩くので、了は、バークレイを急かそうと、彼に向かって一歩踏み出した。
その時の事は、今でもスローモーションでしか思い出す事が出来ない。否、その時が既に、あらゆるものがスローモーションで動いていた気がする。
了が一歩踏み出したとき、バークレイは横目でちらりと飛行機を見、そして、微かに口の端を上げて、笑った。
次の瞬間、すさまじい音が響いた。
振り向くと、飛行機が燃えていた。それはバークレイが乗る筈だったジャンボジェット機だった。
燃料を満載した機体は、空気を飲み込んで大きな炎を灯し、真っ青な空に向かって、真っ黒な煙を吐き出していた。
一瞬、空港にいる誰もが状況を飲み込めず、唖然とその光景を眺めていたが、やがて誰かが息を飲んだのを期に、場はパニックと化した。
泣き叫び、職員に怒号を浴びせる人々の中で、了は何故か、必死にあの子を探した。あの子は窓の傍で、ただ立ち尽くしていた。
そんな中、バークレイは一人、冷静だった。
「そのとき、俺は確信した。
こいつが犯人だ、と…。」
バークレイの様子も気になったが、それよりずっと、あの子が心配だった。
混乱する客の中、あの子は呆然と、飛行機を見つめていた…。
「キミ!
しっかりするんだ!
キミ…っ。」
駆け寄り、肩を揺さぶっても、その子の瞳は炎に釘付けで、動かなかった。
了の中で、今まで感じた事のない感情が、沸々と沸きあがった。
説明は出来なかった。
ただ、この事態の真実を、自分が見付けなければならないと思った。
だが、空港は了の所属する警視庁ではなく、隣県の県警の管轄にあり、了がその場で捜査に加わる事は許されなかった。
仕方なく、了はその子の保護を警官に頼み、バークレイを大使館に送り戻し、職場で上司に申し出た。
捜査に加えて欲しい、と。
あらゆるこじ付けをし、なんとか隣県の県警の捜査に加えてもらう事が出来た。
捜査は空港に駐車していた車のナンバーを元にした所有者を始め、空港で使用されたクレジットカード情報から辿ったカード所有者のアリバイ確認、可能な限りの、防犯カメラから採取された映像に映り込んだ来場者の特定と、そのアリバイ確認と続き、さらにアリバイについては、当日だけでなく、爆破当日前後一週間に遡って行われた。
だが結局、空港内に不審者はいないとなった。
そしてその捜査と並行して行われていた犠牲者の遺体捜索と、身元確認も終わった。
了は、遺品の仕分けに携わった。
大体が炎に包まれ、焼け崩れてしまうか、原型を留めていなかった。
中には、遺体がぎゅっと握り締めていた故に、皮膚が付着してしまっているものすらあった。
それらを丁寧にクリーニングしながらの作業。
一つ一つ、誰のものと特定して行く作業は、自分が死神になったような気分だった。
そして、作業をする中、一つ、ペンダントのロケットを見付けた。
「中を見たら、キミがいた。」
遺品返却が可能になった頃に、唯一の遺品だったロケットを持って少女の家を訪れた。
そこで、少女の叔父に出会った。
先日、やっと県警から遺骨が届き、葬儀を済ませたばかりだという話をされながら、遺骨を置く和室へ通された了は、そこで少女と再会し、生まれて初めて絶望感を味わった。
少女は両親の骨壷を前に、あの時のまま、呆然と空を見つめていた。目は虚ろで、瞳からは光が消えて、体が倒れないのが不思議な程に弛緩していた。
あの笑顔がなくなった。
その絶望感と喪失感は、耐えられないくらいのものだった。
何故か解らない。
「でもそのとき、俺はこの子のために生きようと思った…。」
了は少女に歩み寄り、土下座をするように崩れ落ちた。その時舞った風に、ふわりと甘い匂いが紛れていたのを、少女は無意識ながらも感じた。
「…ごめんな…。
俺がもっと早く気付いていたら…。
何も失わなかったかも知れないのに…。」
これが、偽善とか、自惚れとか、そんな風に批難されても、どうとも思わなかった。
あの日、犯人と確信したバークレイをあの場に連れて行かなかったら、飛行機は爆破されなかったかも知れない。
可能性など、在って無いに等しかった。だが、そんな事すら、どうでもよかった。
ただ自己嫌悪に陥った。自分が、あの爆破に加担してしまったのではないかという思いで、全身がいっぱいになった。
「すまなかった…。
笑ってくれ…あの日みたいに…。
生きる事をやめないでくれ…。
キミが望むなら、俺がキミの手になるから…。
キミが望むなら、キミの何にでもなるから…。」
姪である少女の傍らで、不思議にひたすら詫びる青年の背中を、叔父はじっと見つめていた。
その視線に絡ませる感情など持ち合わせておらず、しかし、その姿から目を逸らせる理由もなく、ただじっと、彼を見つめた。
何と名乗ったかな…。
カブラギ トオルだったかな…。
カブラギ。どこかで聞いたな…。
ぼんやりと思いながら、叔父はいつまでも詫びる青年の背中を見つめた。




