あのとき、とそれから◆1
◆
普段から混み合っている首都高は、やっぱり混んでいて、ゆったりゆったり流れていた。
弾む会話をする相手ではない男を乗せて、一般道並の速度で空港へ向かう。
無言も辛く、一言声をかけてから、ラジオを付けた。
FMラジオという雰囲気ではなく、国営放送を流す。
正午頃という時間故、流れてきたのはニュースだった。
「日本時間昨日未明、アメリカ・ワシントン州クランシー・トイ財団が所有するクランシー記念会館に盗賊が押し入り、時価数千億ドルと言われる宝飾品が盗まれました。
クランシー・トイ財団広報部によりますと…」
クランシー・トイ財団は難民孤児や戦争孤児救済を中心に活動しているボランティア団体で、十年前に亡くなったクランシー・トイという一六歳の天才画家の同ボランティア活動を受け継ぐ形で創立した新興財団だ。
規模は大きくないが、WFPやユニセフとも親密な交流を行い、国際的なボランティア活動を積極的に行っている。
だが日本では余り知られておらず、このニュースも、一体何人の日本人が耳を傾けるのかと思ってしまうほどだ。
つまらないニュースだと思い、クラシックチャンネルに切り替えようと手を伸ばした瞬間、後部座席の男が面白くなさそうに笑った。
気になってルームミラーで後ろを覗くと、男は運転席の後ろで窓に寄りかかり、頬杖を突いて流れる風景を見つめ、一言、
「下らない事をする…。」
と呟いた。
◆
東の空が白む頃をあっという間に過ぎ、太陽が真上に昇っても、事態は何も進展しなかった。
少しの光だけでは、暗闇は拭い去れないのを証明するかのように、闇に消えた”男爵”を、誰も捕らえる事が出来なかった。
非常灯だけでの捜索は不可能であると立証するように、すぐそこを警官や警察犬がうろついていた美術館裏手にある茂みの中で、菅野が発見された。
菅野は気を失ったまま屋根上から放り棄てられたような体勢で倒れており、発見当初、死亡していると思われていた。
が、簡易検査の結果、奇跡的に全身打撲のみで済んだようだった。
飛澤は腹部を刺されていたが、刺し傷が浅かった事が幸いして、すぐに退院出来そうだという結果が出た。
了も、傷は深かったものの、命に別状はないようだった。
飛澤を保護していたユリも、了に付き添っていたクレアも、駆けつけた救急隊員に従って病院へ向かい、検査を受けたが、どちらも怪我はなく、無事だった。
クレアが胸に着けていた”紅い泪”は、クレアも気付かないうちになくなっていた。が、午後になって、菅野が発見された場所で、警官によって発見された。
そして、その直後、警視庁による捜査は完全に、暗礁に乗り上げてしまった。
”男爵”が何者だったのか、どこへ逃げたのか、何故クレアが持っていたはずの”紅い泪”が菅野の倒れていた現場で発見されたのか…。
色々な謎を残したまま、そして、事件後に大使館に召喚され、職員に引き取られたクレアを始め、誰とも再会出来ぬまま、ユリが悶々と過ごしていた数日後、クレアの帰国が決まった。
せめて見送りだけでも、と匠には断っておいたのだが、帰国当日の朝、匠がユリの部屋を訪れ、言った。
「ユリ。」
「ん?」
「ちょっと病院へ行くから、支度しなさい。」
「病院?」
「十分後に出発だよ。」
それを聞いて、ユリの声が思わず大きくなった。
「ちょっと…!
今日、クレアが帰る日だから、空港に行こうって言ってたのに…。」
抗議をするが、匠は聞こえない振りをして、行ってしまった。
致し方なく、ユリは服を着替え、出かけの準備をする。
持ち物は何もない。
羽織るジャケットのポケットに、携帯電話と財布だけを入れて、ユリはリビングへ向かった。
匠もユリもいつも通りの格好をしていた。
「行こうか。」
そう言って立ち上がり、そそくさと行ってしまう匠に、ユリは、本当に病院に行くのか、と再度問いたかったが、やめた。
黙って、匠に続いて玄関を出、病院へ向かう。
その道はあの一週間、あれだけウロウロと歩き回った道だというのに、数日、家に引き篭もっていたためか、全く歩き慣れない道に思えた。
ぼうっと街の雑踏に耳を委ね、匠の背だけを追って歩き、やがて病院に着いた。
エントランスを抜け、四階へ上がる。
入院患者が少ないのか、微かに聞こえる館内アナウンス以外、物音が聞こえなかった。ユリが雰囲気に躊躇していると、匠が、鎮まりかえった廊下に、ぽつんと置かれたベンチ脇の壁に凭れ掛かった。座らないのかと思ったが、聞く事もなく、ユリはユリで、ベンチに座る。
消毒液と、洗い立てのシーツの匂いと、黴臭い風が、廊下を渡る。鼻から入る臭いに、一々異世界の空気を感じる。
廊下には、窓とドアが向かい合って並び、合計七つあるドアは、それぞれ色が異なって塗られていた。七つだからか、色合いは虹色だった。
ドアの脇には、プレートが添えつけてあるが、ベンチからでは、何も読めなかった。
北向きなのか、今日は晴れているのに、廊下は暗い。
「時間、早すぎたんじゃないの?
誰もいないけど…。」
座って、黙りこくって、どのくらい経っただろうか。
人が往来する事もなく、相変わらず物音もしないので、ユリが匠に尋ねた。
早く帰ろうよ、そんな気持ちだった。
「ん?
いいんだよ、この時間で。」
ユリの内心を悟ってか、いつもの口調の中に素っ気無さを滲ませて、匠が答えた。
「今日、クレアの見送りに行かなきゃいけないのに。」
ユリが溜まらず言うと、「ああ、見送りはこのあと、僕が行くから大丈夫」と、匠はまた素っ気無く答えた。
「ユリには、きちんと聞いて来て欲しい話があってね。」
「?」
匠の言葉に、ユリが首を傾げると、「ユリ」と呼びながら、匠がぐうに握った手をユリに差し出した。そして、指の力をほんの少し抜く。
出来た指の隙間から、ロケットペンダントが零れ落ちた。
ロケットは勢い余って何度か上下に揺れた後、捻れたチェーンのせいでくるくると回った。
「…ロケット…?」
「これを、もう少ししたら、蕪木クンの病室に届けに行ってほしい。」
「えっ!?」
ユリが驚く。会えるのか、了に。
だが、それよりも…。
この光景に、見覚えがあった。
「…このロケット…。」
口にした瞬間に、記憶がフラッシュバックした。
心配そうに振り返る、両親の姿。
「この…ロケット…。
見覚えが…。」
ユリの呟きに、匠は何も答えなかった。
だが、その表情は『当たりだ』とでも言いたげに、ユリを優しく見つめている。
「これ…。
これ……。」
そう、これは…。
心の中で、思い出すことのなかった記憶が、じわじわと蘇る。
「ふふん。」
自慢げに父が鼻で笑った。
あれは、出国前夜の事だったか…。
「なに?
どうしたの?」
問う愛娘の目の前に、父はぐうに握った手を出し、そして指の力を抜いた。
出来た指の隙間から、ロケットペンダントが零れ落ちた。
ロケットは勢い余って何度か上下に揺れた後、捻れたチェーンのせいでくるくると回った。
つるりとした金属の肌に、リビングの照明がてらてらと反射する。
「いいロケットだろう?」
「いいじゃない、これ。
どうしたの?」
明らかに作りたて、新品であるロケットを、父は丁寧に持ち直した。
「転勤の間、ユリの代わりに、写真を入れて肌身離さず持ってることにしたんだよ。
ロケットは特注品だ。
凄いだろう!」
「なによ、テレビ電話だってあるし、顔なんかいつでも見られるわよ?」
野暮な事を言う娘に、父は苦笑した。
「バカだなぁ。
そういうのじゃ有り難味が薄れるだろう?」
父の気持ちは、娘にはよく解らなかった。年のせいか、と思ったりもした。その双方の想いが解るのか、父の後ろで、夕飯の片付けをしていた母が、仕方なしと苦笑していた。
「なによそれ…。
で、何の写真入れるの?」
「うん?
それはね…。」
そう言って、もったいぶって父が開けたロケットの中には…。
「中は…。
大学の入学式の時に撮った…。」
小さく、そして記憶している形状と大分変わって、ぐにゃりと変形したロケットの蓋を、ユリは微かに震える指先で恐る恐る開ける。
そこには、記憶と寸分違わない、父と母と娘と、三人で撮った写真が納まっていた。
「写真…。」
思い出のまま歳を取らない両親と、六年という月日を経て、どことなく変わってしまった娘の、幼い時の写真。
畏まったはにかみ笑いが嫌いで、記念写真と言われても、ついにんまりと笑ってしまう娘を、仕方なさそうに、しかし、本当に愛らしそうに微笑む両親の姿が、そこにあった。
「蕪木クンが、あの爆発事故のあと、届けてくれたんだよ。」
「了…が…?」
言われて、あの日、ラウンジで見た了の姿を思い出す。
弄る指先で、西日を受けて輝いていた、あのロケット…。
あの時、見覚えがあると思ったあの想いは、間違いではなかったのだ。
「詳しい話は、病室で聞くといい。
でもとりあえず、まずそれは今、蕪木クンの持ち物だから、還してやってくれ。」
匠は、ユリの気持ちを慮ってか、ゆっくり静かに言った。
そして、ユリの返事を待たず、壁から背を離す。
「さて、ボクはそろそろ空港に行かないと。
蕪木クンの病室は、水色のドアだからね。」
匠が、未だ放心状態のユリに、屈み込んで言った。
「…うん…。
クレアによろしく伝えて。
見送り出来なくて、ごめんねって。」
そういうユリは、ロケットから目を離せず、心もどこかに行ったままだ。
「ああ。」
匠は短く答えると、ユリが見ていないのににっこり笑って、行ってしまった。
匠の足音が聞こえなくなって、漸く、ユリの意識が戻った。
これを、了に還す。そして、きちんと聞いて来て欲しい話というのを聞く。
目的は解った。
あとは、話を聞けばすべて解決すると思えた。
そう思って顔を上げた刹那、遠くの方でドアが開閉する音が聞こえた。
見れば、水色のドアの前に、誰かが俯いて佇んでいる。よく見ると、いくらか中年の男性で、口髭を生やし、ほっそりとして背の高い体型が、匠に似ていた。ただし、匠が滅多に着ないグレーのスリーピースを身に付け、ジャケットは脇に抱えていた。
ほのかに薄ピンクのシャツと、コーディネートされた紅色のネクタイが、チャーミングだった。
「誰だろう…?
了の部屋から出てきた…。」
様子を見ていると、その誰かが不意に目頭を拭った。
「泣いてる…?」
明らかに泣いている様子の男性は、その後ドアを俯き気味に少し振り返ると、ユリのいる方とは逆にあるエレベータホールへ、肩を落としてゆっくりと去っていった。
病室から、見舞い客が泣いて出てくる。
この光景の異様さに、ユリが勢いよく立ち上がった。
「え…まさか…了に何か…。
まさか…っ。」
了の傷は深いと聞いた。
まさか…。
いても立ってもいられず、ユリは水色のドアへ駆け寄ると、ドアを思いっきり開けた。
「了!!」