5月3日、と4日◆16
先程よりさらに混乱状態にあるセレモニーホールを、ユリは来賓の隙間を縫って走り、脱出した。
ロビーに出、匠を探すが、”男爵”を探しに回っているのか見当たらなかった。
仕方なく、エスカレータを下る。
屋根上を館長室方面へ走り去った”男爵”が、その次に採る行動は如何なるものか。
ヒールでもたつく足でエスカレータを駆け下りながら、思考を廻らす。
屋根から飛び降りたとして、美術館の周りは警官が大勢いる。
どうやっても、堂々と逃げられるような状況ではないような気がする。
ならば、混乱を避け、場が鎮まるまで、どこかに身を隠すか?
考えているうち、エントランスに着いた。
息が切れている。呼吸を整える序でに、足を止め、辺りを見回す。
大勢の警官が、様々なものを手に、探索を行っている。
屋根上の”男爵”は、見失われたようだった。
どこかに隠れたのだろうか。
(どこに隠れるかな…?)
そう思い、職員通路に入る。外とは一転、しんと静まり返り、空気も冷たく重い。
不思議と人の気配が全くなかった。その上、照明は落ちたままで、真っ暗だ。
この状況なら、館内に入っていても解らないのではないか…。
それならそれで、どこに隠れる?
昨夜出遭った、館長室か…?
違う気がする。自分が発想するような事なら、誰かが先に回っているはずだ。
足取りを追うにはユリには場の知識も”男爵”に関する情報も少ない気がする。
では、今自分に出来る事は何か?
(セキュリティ・ルームのカメラで、”男爵”を追えないかな…?)
カメラは今も細工されているだろうか。
一か八か、ユリは地下への階段を下りた。
地下もまた、暗闇だった。が、ところどころに、小さく灯る明かりがある。どうやら自動充電の照明のようで、館内の照明が落ちる前に、充電された分を発光しているようだ。
だが、その光も心許無く、闇の中で響く足音に、緊張が増す。
呼吸がまだ上がったままだ。じんわりと、汗も掻いて来た。
心臓の音が、足音より大きく聞こえる。
階段を降り切り、廊下を進む。相変わらず、足音はかつんと大きな音で響き渡る。だが、足音を忍ばせようという考えに至らなかった。
(…いる…。)
何故か確信した。
この奥に、”男爵”がいる。そして彼は、自分を待っている、と…。
歩き慣れていると思っていた廊下は、いつもと違い、生暖かく、ぬめっとした風が吹いている様に感じられた。
何の音も聞こえない。ただ自分の足音だけが響く廊下を、歩く。
こんなに長い廊下だっただろうか…。
ユリは妙に落ち着いた気持ちで、廊下を進み、やがて、セキュリティ・ルームの扉が見えた。
扉を見て瞬時に、先程来た時と雰囲気が違う事を察する。
「さっきと様子が違う…?」
近付くにつれ、扉が少し開いているのが見えた。
息を殺して呟き、今度は足音も消して、扉に歩み寄る。
体が硬直しているせいか、前傾姿勢になった。
そして、扉の前に辿り着き、隙間から中を覗いたユリは、思わず絶句する。
「!!!!」
目の前には、扉の隙間から、同じようにユリを覗く、”男爵”の顔があった。
白く浮かび上がる”男爵”の仮面は、ユリを見て小さくにやりと笑った。
その微笑に、ユリは思わず後ずさる。
予期していた事なのに、今、頭の中は真っ白だ。
無意識に後ずさりし続けるユリに、歩調を合わせるように、”男爵”がセキュリティ・ルームから出てくる。
一歩一歩、ゆっくりと歩み寄り、しかし間合いが狭まる事がない目の前の”男爵”は、暗闇の中に空いた穴のように黒い。時折横幅が妙に広くなるのは、マントのせいだろうか…。
(ど、どうしよう…。
武器なんて何もないし…。)
何とか頭を回らせ、対抗手段を探すが、何もない。
了のように拳銃など持っていなければ、元より武術も体術の心得もない。
若干のパニックを起こし、後ずさりし続けるユリの背中に、冷たい壁が当たった。
「…っ。」
ユリの様子に、”男爵”は再度笑い、そして、静かに言った。
「また会いましょう。迷子のお嬢さん。」
「!」
言いながら、”男爵”は物凄い勢いでユリの顔に顔面を近付た。ふわりと何かの香りがした。
そして”男爵”は、不気味ににやりと笑うと、ユリが驚き瞬きをした次の瞬間、消えた。
「…き…消えた…?」
が、微かに左手から音がする。
視線だけをやると、闇の中、小さな足音を立てて遠ざかる、黒い影が見えた。
ユリが追おうと、足を踏ん張ると、扉の奥から呻き声が聞こえた。
「う…。」
「!? この声は…。」
急いでセキュリティ・ルームの扉を開けると、そこには大きな体の飛澤が倒れていた。
「飛澤さん!」
駆け寄り、飛澤の体を起こすと、腹部に黒い影が見えた。
この”黒”も…。
「飛澤さん、血が!!」
「ユリ!!」
叫ぶユリの後ろで、自分を呼ぶ声が聞こえた。
振り返ると、匠がいた。薄暗闇の中でも解るほど細長い体型は、一発で匠と判別できた。
「叔父さん!
叔父さん、”男爵”逃げちゃう!
それに、了も飛澤さんも…!
どうしたらいいの!?
どうしたら…っ。」
匠に飛びつき、必死に叫ぶ。
声を出す事しか、出来なかった。
そんなユリの肩を、匠ががしりと掴んだ。
「ユリ、落ち着きなさい!
救急車は呼んであるから、もうすぐ来るはずだ。
ユリは地上に戻って、ここに怪我人がいる事を警察に伝えなさい。
深い傷を負っている事も説明するんだよ、いいね?
場所も必ず伝えるんだよ。
伝えたら、まだ屋根上でクレアさんが蕪木クンを見ててくれているから、ユリはここへ戻って、飛澤さんの傍にいるんだ。」
ああ、了…。
了は無事なのか…。
安堵と落ち着かない心の狭間で、ユリはまだ混乱していた。
匠が、そんなユリの肩を軽く揺さぶる。揺れに併せて、ユリの瞳に光が戻っていく。
今、出来る事は、数少ない。
やがてユリが落ち着いたのを見計らい、匠が言った。
「わかったね?
”男爵”は僕が追う。」
「…うん!」
ユリが頷くと、匠はにっこりと笑い、あっという間に走り去った。
その様子に、ユリは少しだけ驚いた。
運動神経が悪いという印象は、どうやら匠の自演だったようだ。