5月3日、と4日◆15
「…いたた…。」
屋根は予想以上につるつるとしていて、ユリは尻餅を突きながらも、何とか屋根から転落寸前のところで踏み止まった。
館外の照明は復旧しておらず、非常灯の灯りも届かない屋根上は暗く、寒い。
その暗がりの中、着いた手の脇に、見慣れない靴先が見えた。
ゆっくり見上げると、つい先日、館長室で見たあの仮面が、ユリを見下ろしていた。
「…あ…。」
どうやら、”男爵”の目の前に滑り落ちてしまったようだ。
流石に身の危険を感じた。
「こんばんは、お嬢さん。」
不意に声をかけられた。仮面のせいで表情は窺い知れない。だが、声は明らかに穏やかで、優しい。
そして何より、綺麗な日本語のイントネーションで言葉を発した”男爵”は、この状況でそんな細かい事まで気になり嫌気の差しているユリから目を離し、少し離れた場所で自分を睨みつける了を見た。
「蕪木さん。」
そう言いながら、”男爵”は座り込んでいるユリの腕を掴み、強引に立ち上がらせると、ユリの体を了を正面に見る体勢に変え、両腕を後ろに引いた。左片手だけでユリの両手首を掴み、後ろにぐいと引っ張る。ユリが少しよろけて後ろに倒れると、すぐに”男爵”に当たった。そしてユリの顔の真横から、”男爵”は顔を出した。
密着する形となり、気付けば喉元には、ナイフが添えられている。
「ご…ごめんなさい…。」
完全に了の邪魔になった自分に心底泣きそうになり、ユリが謝った。
向かい合う了は、右手を腰の後ろに回し、やや前屈みの姿勢で”男爵”をじっと睨みつけている。
「とりあえず、その背中の銃を棄ててもらいましょうか。」
”男爵”が言うと、了の眉間の皺が一瞬深くなった。その後ろには、いつの間にかクレアが立っていた。クレアは祈るように手を組みながら、ユリを見つめている。
「…。」
暫し黙り込んだ後、了が小さく溜め息をついて、”男爵”を睨んだまま、体の後ろで何かを掴んでいた右手を戻した。
そしてがちゃがちゃと右手だけで何かを弄る。すぐに何かからバーのようなものが落ち、次いで了は、その何かを中庭の方向へ投げ捨てた。
了の足元に落ちたバーを見ると、銃の弾倉だった。
銃を棄てて尚、”男爵”を睨む了の視線は動かない。
じっと睨みつけたまま、了は口を開き、吐き棄てるように言った。
「お前んちの親子喧嘩に、それ以上その子を巻き込むな…。」
その言葉に、ユリだけが驚いた。クレアは理解出来なかったのか、ずっと祈るようにユリを見つめている。
訳が解らず呆然とするユリの後ろで、”男爵”が囁いた。
「…そう…でしたか。あなたはあの時の…。」
「え? え?」
”男爵”の応答でさらに訳が解らなくなったユリを、”男爵”は梯子の窓の方へ突き飛ばした。
「わっ!」
『解放』されたユリは、今度は前のめりに屋根に倒れ込んだ。そして、駆け寄ったクレアの手を借りながらヨロヨロと起き上がると、今度は滑らないように手と膝を突き、妙な格好で”男爵”と了を振り返る。
「さて、蕪木さん。」
「っ!」
言うが早いか、突然”男爵”が了にナイフを突き出した。
了も寸出のところで避ける。
一瞬詰まった間合いが、了の回避で再度空く。
「相変わらず、身軽でいらっしゃる。」
「うるせぇよ。」
何か癪に障ったのか、この上ない不機嫌な声で、了が答えた。
「”紅い泪”、私にいただけませんか。あれはとても大切なものなので…。」
「嘘つけよ、わがまま息子が…っ!」
”男爵”が言い終わる前に、了が言った。まるで、駄々っ子を叱り付けるような口調だった。が、今度はその言葉が、”男爵”が三度突き出したナイフによって途切れる。
「感心しませんね。」
平然と、冷静に言いながら、”男爵”はナイフを突き出し、時に振り下ろし、横に流し、了を牽制している。
了は、暗闇のせいでナイフを交わすので精一杯で、反撃出来ずにいた。尤も、唯一の武器であった拳銃は、ユリの失敗によって既に了の手元にないが故に、反撃出来ずにいるのかも知れない。
「どうして、ここまで…っ!」
避けながら、了が言った。今までとは一転、心なしか哀しげに、ユリには聞こえた。
「…ぼくにもわかりません。」
そして、ナイフを繰り出す手は止まらないが、”男爵”の声も、少し弱まった。次の瞬間、了は真正面に突き出された”男爵”の右腕を捉え、自分の左脇腹と腕に挟んだ。
了と”男爵”は、額が触れるほどに顔を近付け、見合う。暗闇の中、白く浮かび上がる仮面を着けた”男爵”の横顔は、仮面に覆われぬ口元が笑っているように見える。汗を滲ませ”男爵”を睨む了とは対照的だ。だが、
「何故、誰にも頼らなかった! 他にも方法はあっただろう!」
了が言うと、”男爵”の口元から、笑みが消えた。そしてそのまま、沈黙してしまった。
少し離れたところでは、ユリとクレアが言葉の意味も理解出来ず、ただじっと二人を見つめていた。何を背景に語られている言葉なのだろうか。わからなかった。
相変わらず顔を近付け見合う二人は、長い長い沈黙を続けた。了の額に浮かぶ汗が、暗闇でも判るほどに多くなっていく。
そして、やがて”男爵”が静かに言った。
「…もう、遅いですよ…。」
その言葉に、了の表情が一変した。ユリにはその横顔に見覚えがある。
ユリに声をかけ、次の言葉を言い澱む時のあの表情に似ている。
ラウンジで見た、西日に照らされた、あの哀しそうな表情にも似ている。
思い詰め、今にも泣き出しそうな、悲痛な胸の内を秘めたようなその表情で、了が弱弱しく言った。
「悪かったよ…。気付くのが遅れてさ…。
…俺がもっと、早く気付ければ…、よかったな…。」
詫びる了の声が、どんどん弱まって行く。そこでユリは初めて気付いた。
了の膝が震え、”男爵”に掴みかかって漸く立っている事に。
「…?」
ユリが了の様子が可笑しい事に気づいたと同時に、”男爵”が優しく笑った。
「…そうですね…。あなたが、もう少し早く、現れていたら…。」
”男爵”はそう言って、僅かばかり体を離した。
その隙間から見えたのは…。
黒く染まった、シャツだった。
あの”黒”は、見覚えがある。
間違いない。あの”黒”は。
「とおるぅ!!!!」
わかった瞬間、ユリが叫び、了が崩れ落ちた。叫び声に、”男爵”が一瞬、ユリを見やる。その僅かな隙に、クレアが了に駆け寄った。
「か、蕪木さん…。」
倒れた了の体に手を添え、クレアが”男爵”を見上げる。
”男爵”は、少し西の空にいる月を背に、クレアを見下ろしていた。
「…美しいお嬢さん。」
「!」
クレアが怯えた。
弱い月明かりの中で、クレアの真っ白なドレスと、”男爵”の黒い衣装は、一段と際立って対照的だ。
時折風が吹いて、双方が揺れはためくその光景は、お伽噺のワンシーンのように幻想的で、滑稽だ。
「お嬢さんが今、胸につけているその”紅い泪”。お渡し下さいませんか。」
ユリがクレアの胸元に目をやると、握り締め、胸に当てたクレアの指の隙間から、紅い光が漏れた。
”紅い泪”…。何故、クレアが…?
クレアの横で、了が苦悶の表情で必死に起き上がろうとしている。
クレアはそんな了に添えた手にも力を入れ、”紅い泪”を持つ手を一層ぐっと握り締め、”男爵”を睨み付けた。
「…渡しません。大切なものですから…!」
クレアが言うと、一瞬、ほんの一瞬だけ、”男爵”がたじろいだ。
そして暫し黙り込んだ後、”男爵”は、今度は自嘲気味に笑った。
「……そうですか。」
その言葉が聞こえた瞬間、”男爵”の姿が全員の視界から消えた。
「!?
消え…。」
見失い、キョロキョロするユリが、館長室のある方角へ屋根上を走り去る”男爵”を見付けた。
「あ!」
ユリが見付けた瞬間、了が叫んだ。
「追え!!」
痛みを堪え、力の入らない腹から搾り出した声で、了が叫んだ。黒く染まる脇腹を、力いっぱい握り締めている。
「でも…っ!」
再び思い出した”黒”に、ユリが恐怖した。嫌だ、ここで了から離れたら…。
躊躇するユリに、了がまた叫ぶ。
「いいから追え!!!」
泣くように叫ぶ了の声に、ユリは渋々立ち上がった。
「わ…わかった…!」
ここで了から離れたら…。
再度湧き上がった思いを振り払う。
”男爵”が去った方向は、セレモニーホールの反対側、館長室の方だ。
飛び降りる以外に、下に降りる方法はない。
屋根の上を追いかけても駄目だ。
そう思ったユリは、窓の梯子へ駆け出した。




