5月3日、と4日◆14
「返して頂きますよ…。」
男の声とも女の声とも判別のつかない、その声はとても透き通って聞こえた。
その声を合図に、了が息を飲み、異常を察した来賓ががやついた。がやつきに紛れて、鉄パイプを軽く叩くような音が、リズミカルに聞こえる。
「今のは!?」
徐々に大きくなるがやつきの中で、匠も緊張している。
「蕪木!」
どこからか、北代が叫んだ。
「北代さん!
灯りは!!?」
了が怒鳴り返す。
「駄目だ!
セレモニーホールに添え付けておいた非常灯も壊されているようだ。
セキュリティ・ルーム、緊急用発電室、その他全ての設備の警備人員もやられている。
中がどうなっているか解らんが、恐らく壊されているだろう。
予備の灯りを持って来た部下が、美術館外の電線が断絶しているのを見付けたしな。
館内の復旧は無理だ。」
館外も警察犬を連れた警官がそれなりの数いた筈だ。
仮に警備の穴があったところで、その穴を潜り抜けて破壊を行い、さらにこの会場まで移動するなど、為し得るのか…?
「警部補!」
警官と思しき声が叫んだ。
「灯りか! 点けろ!」
「はい!」
恐らく携帯非常灯であろう。北代の指示で非常灯が灯されると、顔の判別こそ難しいながらも、障害物の位置を把握できるくらいには、館内が明るくなった。
「クレアは!?」
漸く暗闇から開放されたユリは、闇の中で聞こえたあの妙な声がクレアのものではないかと不安になった。
「ユリさん!」
ユリの声に反応したのか、クレアが叫んだ。薄暗闇の中で、非常灯を頼りに、クレアがユリに駆け寄る。
「ああ! よかったクレア!
館長さんは!?」
「さっき近くで物音と声が聞こえて、そのあと解らなくて…。
ああ、どうしましょう、ユリさん…。」
「大丈夫よ、クレア。ここにいてね。」
取り乱し気味のクレアの肩に手をやって、宥める。
「叔父さん。私たちはどうしたら?」
「こう周りが暗くては、動けないよ。」
訊ねられた匠も、この闇に戸惑っていた。
「そんな…!」
「きゃああっ!!」
ユリの声に、来賓の悲鳴が被った。
「今度はなに!?」
悲鳴はセレモニーホールから聞こえた。ユリが声の主を探そうときょろきょろしていると、傍らで匠が何かを大きく指で指した。
「いたっ!」
匠の指の先。
ユリが視線を向ける。
その先には、菅野を担いであの梯子を登る”男爵”の姿があった。
「”男爵”!
それに、館長!!?」
「おじさまっ…!」
ユリとクレアが声を上げる。
その横で、了が「くそ…」と小さく吐き棄てて走り出した。
「か、蕪木さん!」
了は何故かエスカレータで二階へ向かおうとしている。
ゆるりと下るエスカレータの段を、勢いよく下っていく。
「叔父さん!
追いかけるから、クレアをお願い!」
「ユリ! 待ちなさい!」
ユリはクレアを匠に押し付けると、匠の制止も聞かずセレモニーホールの梯子へ駆け寄り、登り始めた。
ドレスとパンプスのせいで、動き辛い。
少しは登りなれている筈の梯子に手惑い、思うように登れない。
時折視界の隅に入り込む様子を見る限り、指示塔である北代に取り残されたらしい警官や警備員は、来賓に詰め寄られていたり突然の事に対応出来ず、おろおろしているだけだった。
そんな中で、突発的にでも行動を起こしている自分に驚きつつ、慎重に梯子を登る。
いつもの三倍も四倍もかけて梯子を登り切ると、目の前の窓をあける。
「窓から外に…。」
窓から屋根に足を乗せると、背後でクレアの声がした。
振り向くと、クレアがすぐ後ろにいた。付いて来てしまったのか。
「クレア!」
ここまで来てしまっては、梯子を降りて混乱の中へ戻すより、ここのほうが安全な気がした。
そして、ユリが再び屋根上に視線を戻すと、今度はそちらの光景に焦る。
「…あっ!」
屋根の上には、”男爵”と、いつの間に登ったのか了がいた。
二人は対峙し、時折”男爵”が何かを繰り出し、了がそれをかわしていた。
不意に、月を覆っていた雲が晴れた。
月明かりに照らされ、”男爵”の手元がキラリと光った。
ナイフだ。
「あぶな…。」
そういって屋根に踏み出した瞬間。
「わ!!!」
「ユリさん!!」
足が滑ってバランスを失い、そのまま屋根をずり落ちた。