5月3日、と4日◆10
「私そろそろ着替えてきます。」
クレアが席を立った。少し屈んで、ソファの脇に置いたバッグから、ピンク色をした薄手の布の包みを取り出した。
「大丈夫? 着替えられる場所、わかる?」
「大丈夫ですよ。入り口にいた警備員さんに聞きます。」
クレアがにこりと笑った。
ユリが頷いて、「いってらっしゃい」と言うと、「いってきます」と喫茶店を出て行った。
クレアの姿が見えなくなった後、ユリは軽く伸びをして窓の外に目をやった。
「さて、どうしようかしら…。移動する訳にもいかないし。」
居心地悪そうに足をぶらつかせると、「ユリ。」と名前を呼ばれた。振り向くと、匠がいた。
「あ、叔父さん。もう用事は済んだの?」
「ああ。」と言いながら、匠がクレアの座っていたソファに腰を下ろす。
「そう。何の用事?」
「それはナイショ。」
興味津々の瞳を向けるユリに、匠が苦笑した。
ユリがいじけた。
「なによ…。
あ、今クレアはお着替え中よ。」
「そうか。
さっきそこの警官さんに聞いたら、そろそろ『紅い泪』の搬入がされるそうだよ。」
匠が今夜の『主役』の話を持ち出したが、ユリは然程も興味なさげに、「ふぅん」とだけ答えた。
「随分ギリギリに搬入するのね…。」
「まぁ、こういう展示会ではそれほど珍しい事じゃないよ。
搬送に船を使う美術品なんかは、船が遅れて、展示会に間に合わないなんて事だってあるしね。」
「ふぅん…。
でも、まだ見られないんでしょ?」
「そうだね。
ボクらなんかは、最悪セレモニーが終わったあと、一般展示中の状態でしか見られないかも知れないなぁ。」
匠が答えると、案の定といった表情で、ユリがソファに凭れた。
「つまらないわ。
見せてくれたっていいのに。」
と口を尖らすユリに、匠がいたずらっぽく笑った。
「まぁ、仕方がないよ。
それより、地下と三階以外だったら、歩き回っても問題ないそうだよ。」
「館長室も?」
「うん。
鑑識捜査も一通り済んだそうだから、覗くくらいだったら大丈夫らしい。
ただ、デスクの周りには近付かないで欲しいとは言われたよ。」
匠が肩を竦めた。反応から察するに、恐らく言ったのは北代だろう。
「近付かないわよ…。」
ユリが不貞腐れた。
「ま、そうだろうけどな。
でも、大丈夫なのか? 無理はしなくていいんだぞ。」
「大丈夫よ。
あんな事でへこたれる私じゃないわよ。」
「そうか。ならいいが。」
そう言いながら、匠はユリの目元に薄っすらと浮いたクマを見つめて笑った。
視線に気付かないのか、ユリは立ち上がった。
「じゃあ、言って来るわ。
クレアが戻って来たら、ウロウロしてるって伝えておいて。
なるべくすぐ戻るわ。」
「ああ、行っておいで。」
匠が答えるや否や、ユリはエントランスへと向かった。
喫茶店やショップ、職員専用区画のある一階は、然程回るところがない。
昨夜の手前、館長室にはやはり近付きたくなかったので、余計に一階で見るものがなくなった。
仕方なく二階へ向かうと、一階に負けず劣らず、警官でごった返していた。
残っていたブルーシートも全て外れて、いつの間にか展示ケースも展示品も並べられていた。
展示品の一部は、既に搬入が始まっているようだ。
ロビーから見える限り、展示室内を歩き回る事も不可能に思えた。だが特別展示室だけは、何が理由か誰もいなかった。
(あら、こっちは誰もいないのかしら?)
誰もいないなら…と覗き込んだユリの耳元で、いつもの声がする。
「来たな、キャバ嬢め。」
瞬時に誰かを理解したが、開口一番何を言うかと思えばそんな事かと、ユリはむっとした。
声のほうを見やると、了がいた。
ユリのパーティドレスは”キャバ嬢”と言われるほど派手ではない、と思っているが、地味目のスーツ姿の刑事や制服警官の中では、確かに派手ではある。
が、そんな事を言う了の格好も、些か派手すぎやしないかと思った。
了は黒の細身のスラックスを穿き、白いシャツの上に黒いシングルボタンのベストを着、ラメ入りなのか艶やかなシルバーのタイを締めている。そこまではいいのだが、問題はベルトだ。
真っ赤だ。
それで腕を組んで仁王立ちするその姿は、まるで…。
「出たわね、チンピラ。」
やや古い言い回しながら、”チンピラ”という表現がぴったりだと思った。
「失礼な。」
言われて、了が不機嫌な顔をする。
「お互い様よっ。
蕪木さんのその口の悪さ、なんとかならないの?」
ユリが言うと、「ならないが…」と言いつつ、表情がゆっくりと困惑気味になって言った。
「うぅん…。」
「なによ?」
「君に”蕪木さん”と呼ばれるのが、妙に気持ちが悪い。」
「な…!!」
”気持ちが悪い”とはどういう事か。
「失礼ね!
呼び捨てにするわよ!」
言ってやったが、ユリの思惑に反して、了は満更でもない表情をした。
「そうだな、いっそ、名前で呼び棄ててくれたほうが、まだしっくり来る。」
啓き直られると、返ってやりにくい。
「…呼び捨てし難いわよ…。」
もじもじとするユリを一瞬だけニヤリと笑って、了は話題を切り替えた。
「匠さんとクレアさんは?」
「多分、喫茶店にいると思うけど。
会ってないの?」
「そうか」と言いながら、了が頷いた。そして、少し真剣な顔をする。
「ユリは心の準備は出来てるか?」
「一応は…。不安はあるけどね。
来ると思う、”男爵”?」
「必ずな。もしかすると…。」
言いながら、了が窓の外に目をやる。
「もう館内にいるかも知れない?」
「館内にいる人間で、ユリや匠さん、クレアさん以外の人間は全て身体検査をしたが、不審者は見付からなかった。
だがもしかすると、セレモニーの参列者に混じって入り込む事も考えられる。」
「来賓の検査は出来るの?」
「難しいな。
企業の重役やら、海外からの重要な来賓が多いから…。
”男爵”の予告状の事も公にしていないから、余計にな。」
「どうして公表しないの?」
「余計な騒ぎを起こして、捜査に支障を来してはまずいからな。
公表すればマスコミも入り込んで来るし、ギャラリーを増やすよりは、監視対象を抑える方が、効率がいい。」
昨今のマスコミは、やや物事に立ち入りすぎだと、匠が以前呟いていたのをふと思い出した。
マスコミが知れば、ここぞとばかりにある事ない事書き立て、あっという間に見物客でごった返すだろう。
「それより、見回るのもいいが、時間まで休んでいた方がいいんじゃないのか?
いざって時に使い物にならないのは、困るぞ。」
了がニヤリと笑った。
いつものユリならここで、頬を膨らませて何か一言言い返すのだが、今日のユリは不安でいっぱいだ。
「う…、そうなんだけど、落ち着かなくて…。」
と弱気な答えを返す。
予想外の答えが返って来て、了もさすがに苦笑した。
「なら、一度喫茶店に戻るか。
そろそろ北代が来る頃だから、配置確認の話もあるだろうし。」
了なりの配慮だろう。喫茶店なら椅子もあるし、馴染みの顔ばかりだから緊張も和らぐだろう。
「うん。」
ユリが素直に頷くと、了も小さく頷いて、一階へと歩き始めた。




