5月3日、と4日◆8
自然と目が開いた。
体が鉛のように重い。
ユリは腕をやっと動かし、額の上に置いた。
「あれ…、いつの間に寝ちゃったんだろ…。」
言いながら、傍らの時計を見ると、針は六を指していた。カーテンの隙間から見える空はオレンジ色に染まって、端から闇が迫って来ている。
「ああ、もう一八時…。
仕度して、すぐ出発ね…。起きなきゃ。」
言葉にすると、勝手に体が動いた。
目覚めの瞬間と違い、立ち上げた体は羽のように軽い。
部屋着を脱ぎ捨て、パーティ用のワンピースを取り出す。
黒いティアードワンピースと、紫色のジャケットのツーピースだ。
ワンピースに体を通しながら、夢を見たという感覚だけが残っている頭で、それが何の夢だったかを思い返すが、何故か思い出せない。
「結構重要な夢をみた気がするんだけど…。」
どんな夢だったか、思い出せない…。
着替えはあっという間に終わり、部屋の電気を消して居間へ向かう。
ドアを開けると、クレアがこちらを見て笑った。
クレアは普段と変わらぬ服装だったが、足元に大きな衣装カバンが置いてあった。
そう言えば、我が家に来た時から、その大きなカバンはあった気がする。
「おはよー。」
「おはようございます。」
挨拶をしていると、匠が珍しくキッチンから出てきた。
「なんだ、寝てたのか。
まぁ、徹夜になるから、寝てくれた方がいいか。」
匠は一人納得して、急いで食事を摂るよう、ユリを急かした。
寝起きの上、微かにまだ疲れの残っている体で急いで食事を摂るのは思った以上に難しかったが、ユリは何とか、カナエが用意した軽食を平らげた。
「さて、そろそろ向かおう。今日は徒歩だからね。」
ぱんと手を叩いて、玄関へ向かう匠に、クレアもユリもぞろぞろと着いて行った。
家を出て、改めて、徒歩で美術館へ向かうという事が、この事件に巻き込まれてからなかったと気付く。
徒歩での帰宅はあるが、何だか新鮮な気分でユリは先頭を歩いた。後ろでは匠とクレアが、ささやかな世間話で盛り上がっている。ユリもたまに口を挟むが、大抵は聞くだけで、ただひたすら歩いた。
ぼんやりと考え事をしていたのか、はたまた話に夢中だったのか、気付くと目の前に警視庁が見えた。美術館への道とは、ほぼ反対方向になってしまう。
道を間違えた事に匠も気付かなかったのだろうか、とユリが思っていると、「なんだ、蕪木クンの事が気になるのか?」と匠にからかわれた。
「ちがっ…!」
「ふふふ。」クレアが笑った。
「んもう! 違うってば!」
ムキになって怒るユリに、匠が穏やかに言った。
「蕪木クンはもう美術館に着いてるんじゃないかな。」
「だからなんなのよっ。」
「そう怒るなよ。一応大事な事なんだから。」
何が大事なものか。
「どうでもいいわよ、あんなの!」
ユリは一つ地団駄を踏んで、ぷいと踵を返した。
ここからなら、元来た道を戻るより、病院と公園を経由して向かった方が近そうだった。
方向転換すると、少し向こうに帝都ホテルが見える。
(そういえば、ここでぶつかったあの外人さん、今日はいないのかしら。)
一瞬見ただけの顔なのに、妙に記憶に残っていた。
ただの通行人なので特に話題にするつもりはなかったが、何故かとても気になった。
右手に帝都ホテル、左手に了のマンションを見ながら少し歩くと、大きな交差点に出た。
右に曲がれば病院や純・公園がある。左へ曲がるとシリング大使館だ。
「クレアは、セレモニーみたいなイベントには、よく出るの?」
警視庁までの道すがらとは一転、不思議と無口になってしまった後ろのクレアに問いかける。
「たまに、お呼ばれします。年々減りますけど」と、クレアは至極日常の事を語る普通の口調で答える。
「いいなぁ、楽しそうね。」
ユリが羨ましがると、クレアが苦笑した。
「疲れますよ。
特に今回みたいなのは、基本的に立ちっぱなしだったりしますし。」
確かに、テレビなどで報道されるセレモニーで、席に着いているものを余り見かけないと思う。
勿論放送されている内容が全てではないだろうが、それでも座っている事よりは、立ち話をしながら、参加者同士で挨拶し合う事のほうが多いのだろう。
「ああ、そうか。それもそうね。」
ユリは適当に頷きながら、クレアの様子がいつもどおりである事が気になった。
(お父さんの事、悲しいはずなのに、そんな様子見せないわ。
強いわね…クレア…。)
こういった事を強弱でしか表せないユリにとって、クレアは間違いなく強い人であった。
匠やカナエに同じような事が起こったら、自分はきっと狂ってしまうに違いない。
感心すべき事なのか難しい事は解らないが、ユリは感心した。
そしてもしかすると、クレアとユリでは住む世界が違うのかとも思った。
ユリにとって匠とともに探偵業を行う今でこそ非日常なのに、親が何者かに殺されるなど、想像し難い事だ。
そう思って、ユリは自分の両親を思い浮かべる。
ユリの両親は飛行機の爆発に巻き込まれた焼死であるのだから、誰か特定の犯人がいる訳ではない。
益々、クレアを取り巻く状況と、自身の周りがかけ離れている事に気付く。
平穏な日々が愛おしい。
探偵業とは、その平穏から外れる仕事なのだろう。
そう思うと、この仕事は自分には向いていないのではないかと不安にもなるが、この仕事を辞める事も、有り得ない事だった。
慌しい非日常に巻き込まれるからこそ解る、日常の有り難さ。
ユリはそれを、ビルの隙間を吹き抜けるそよ風に感じて、浅い深呼吸をした。
見上げると空は夕焼けの深紅と夜の濃紺に輝き、月が公園の木々の隙間からユリを見ていた。
何があってもこの慌しさも今夜で終わりだ。
ユリは月に向かって、一つ小さく頷いた。