5月3日、と4日◆7
暗闇の中なのに、妙に視界が白んでいる。
人ごみの中にいるかのようなざわめきの中で、ユリは不意に肩を叩かれた。
振り返っても誰もいないが、声は耳元ではっきり聞こえた。
「大丈夫?
困った事があったら、叔父さんと叔母さんに言うのよ。」
その声が聞こえ終わるのと同時に、周りがぱっと明るくなり、再び闇に戻った。
一瞬だけ、懐かしい光景が見えた。
心配そうにユリを見る、両親の姿だ。
「大丈夫よ!
ちゃんとご飯も作れるから!」
そう、確かにそう答えた。
あれは、両親の海外赴任の出発の日の光景だ。
その日、心配をする両親に、ユリは胸を張ってそう答えた。
うん…、大丈夫だよ…。
暗闇の中で、ユリはもう一度、そう思う。
「お腹でも壊したら大変だから、カナエさんに作ってもらいなさい!」
母の声だ。そういえば、母もカナエには絶大の信用を寄せていた。
「ちょっと、ヒドイ! たった一年じゃない!
大丈夫だよ」
そうよ…、たった一年…。
たった一年の筈だったのだ…。
「落ち着いたら、帰るから。
電話もするからね。」
「うん! いってらっしゃい!」
笑顔で見送った。
ゲートを潜る両親に、いつまでも手を振った。
両親も、いつまでも振り返って手を振ってくれた。
帰って来てね…、必ず…。
今でも、願えば帰って来そうな気がする程に、その光景は鮮明に、記憶に焼き付いて消えない。
そして、夢の中でユリは思う。
そういえばあの時、離陸時間になっても飛行機は一向に動く気配がなかった。
エンジンは点火していた気がする。
何の事情かは解らないが、出航がわずかに遅れていたのだ。
だが、それに気付きながらも、然程の心配はしていなかったのも事実だ。
よくある事、程度にしか捕らえていなかった。
そんな事を思い出した刹那、目の前が一気に光った。
「!」
思わず目を瞑るが、これが何の光か、解っていた。
両親を巻き込んだ、ジャンボジェット機の爆破事故の光景だ。
あの日の空は奇妙な程に青くて、その空に立ち上る真っ黒な煙と、白い機体を包む真っ赤な炎が、不謹慎にも美しく見えた。
目の前の光景を美しいと思いつつ、ユリの脚から力が抜けた。
へなへなと座り込み、「お…父さん…? お…母…さん…?」と呟いてやっと、あの機体に両親が乗り込んでいた事を思い出した。
周りは各々悲鳴を上げ、中には倒れる者もいた。
避難誘導をする係員の声や、泣き叫ぶ声、野次馬の様な声が入り混じる雑音の中、腰を抜かしたままのユリの腕を、誰かが掴んだ。
「キミ…っ」
それは聞き覚えのある声だ。
しかし、聞こえていても反応が出来ない。
呆然としたままのユリの肩を、その声の主が強く揺り動かした。
「しっかりするんだ!」
この言葉を最後に、あの日の記憶は途切れている。
夢の中でも、起きていてもそれは変わらない事から、ユリは冷静に、やはりあの時を境に、暫く、自意識を失っていたのだと思った。
そして次の瞬間、全く別の日の記憶に切り替わってしまった。
恐らく、自分の脳が記憶しているままを、夢で再生しているのだろうと思った。
空港で腕を掴んだ声の主は、別の日にもユリに声をかけて来ていた。
「…ごめんな…。」
何故、あなたが謝るのだ。
ユリは思った。
――謝らないでよ…。
「俺がもっと早く気付いていたら、何も失わなかったかも知れないのに…。」
あなたが悪いんじゃないから…。
「すまなかった…。」
――誰も、憎んでないから…。
そう、誰も憎んでいない。憎みようがないのだ。何が起こったか、解らないのだから…。
ユリは確認した。本当に憎んでいない。
しかし次に聞こえた声で、ユリははっとした。
「笑ってくれ…あの時みたいに。生きる事をやめないでくれ…。」
ああ…。
ああ……。
「キミが望むなら、俺がキミの手になるから…。」
そうか…。
薄ぼんやりと蘇って来る記憶に、ユリの体が震えた。
「キミが望むなら、キミの何にでもなるから…。」
――そうだったんだ…。
こんな大事な事を忘れていたのか…。
「キミが望むなら…。」
あのときの、あの人は…。
そう、あの人は…。
「すまなかった…。
すまなかった……。」
すまなかった………。
その言葉が木霊する中で、一瞬だけ見えた光景。
それは…。