5月3日、と4日◆6
まとめるに当たっては、一番真新しい情報が最優先になりがちだ。
『大使殺害事件』については、今し方クレアに経緯を述べたばかりで、話の蒸し返しにもなってしまうが、まとめという形で別の距離感で、情報を整理する必要がありそうだった。
被害者は、アレン・バークレイ駐日大使。
死亡推定時刻は、二三時二〇~三〇分の間。
昨夜の閉館からそれ以前までの間に侵入した人物の記録は、監視映像からは認められなかった。
今のところは、ユリが目撃した”男爵”らしき人物が、最有力容疑者のようだ。
死因は、刃物で刺された事による出血死。
さらに詳しい事は、現在司法解剖中…。
「私と蕪木さんのアリバイは立証されたとみていいのね?」
「現時点で、法的にどの程度の効力があるかは解らないけど、少なくとも北代警部補は、それで納得したと言っていたよ。
不思議な事に、まるでユリと蕪木クン以外あの館内にいなかったかのように、映像には二人しか映っていなかったらしい。」
「どういうこと…?」
「例えば、昨夜は蕪木クンとユリのほかに、セキュリティ・ルームに当直の警備員が二人いてね、その両名は定時の見回りに出ているらしい。
しかし、どの映像記録を調べても、二人は映っていないそうなんだ。
なのに、蕪木クンとユリの映像だけは確認出来た。」
「ねぇ、それって…」とユリが、昨日、了に教えてもらった、監視カメラの映像にリアルタイムで細工をする機械の話をする。
「それを使って、本当は全部の映像に、何も映らなかった状態にしたかったんじゃないかしら…。
でも、一昨日と同様に、止むを得ないトラブルで、私とあいつの記録だけが、たまたま残ってしまった…。」
ユリが人差し指を立てて言うと、匠が満足でもしたようにニヤリと笑った。
「その可能性は蕪木クンや北代警部補も考えたらしくてね、セキュリティ・ルームの記録システムと監視カメラを徹底的に調べたんだそうだ。
だが、この間のような小型受信機は見付からなかったらしいんだ。」
「え…?
じゃあ、見回りをした警備員さんたちが映ってないのは…?」
「そこが、わからないところでね…」と、匠が腕組をする。
受信機は見当たらないが、映像には細工された可能性がある。
ならば、捜査が及ぶ前に取り外したか、別の細工方法があるかになる。
「まさか、警備員さん、スパイなんて事は…。」
有り得ないとは言い切れない。
しかし、匠の反応はいまいちだ。
「うーん…。それはどうだろう…。
まぁ、映像の解析もまだ完全に終わってはいないようだから、続報待ちってところかな。」
真新しい事件だけに、集まっている情報も、確定的ではない。
言い切れないのが、歯痒さを助長させているようだ。
「大使が殺された事と、一昨日、館長室で大使が探し物をしていたこととは、関係はないのかしら?」
ユリが言うと、クレアがきょとんとした。
「父が探し物を?」
「うん、一昨日ね」とユリが頷くと、クレアは珍しく眉を顰めて悩み込んだ。
「ちょうど探し終わったくらいの頃に、私と叔父さんで館長室に入ったときに、箱のようなものをポケットに隠したの。
多分、探し物って、その箱みたいなものの事だったんだと思うんだけど。」
「箱…。」
「何か、心当たりある?」
「いえ…、何も…。ごめんなさい。」
悩んではみたものの、心当たりはないらしく、クレアが小さく首を振った。
「まぁ、関係あるかないかはともかく、タイミング的には気になることではあるね。」
匠も気にはなっていたようで、軽くフォローをする。
「そういえば、どうして大使は、あんな時間に美術館にいたのかしら…。」
結局、昨日の朝の訪問でさえ、『大使が美術館にいる』という情報だけ与えられ、それ以上は何も聞かされなかった。
了や匠も理由が解らないままだった事もあるが、突如の訪問は、きな臭さを漂わせる。深夜ともなれば、余計に、である。
ユリの疑問に、「ああ、それなんだけどね」と、匠が思い出したように答える。
「大使が昨夜、何時ごろにどこから美術館に入ったかも、まったく解らないそうなんだよ。」
それはどういう事だろうか。
「え? 監視映像にも?」
「うん。
あの美術館、職員通用口に警備員は配備されていないんだけど、ドアにカードキーを差し込まないとドアが開かないようになってるだろ?
あれ、どのカードキーでロックを解除したか、記録しているそうなんだが、その記録そのものがないらしいんだ。
その他、昨夜の記録として残っている監視映像、閉館直後から、ユリと蕪木クン以外は誰も映っていないし、誰かが使用した形跡もないらしい。
警備員の証言が真実なら、閉館後の見回りをしている姿が映っているはずなんだけどね。」
「私、昨日大使を見つける前に、カードキーでロック解除してるけど、どの記録もないのね…?
って事は、閉館前後から、既に映像には細工されてたって事?」
「今のところは、その可能性が高いね」匠が頷く。
「そっか…。」
そういえば、ユリ自身もそうであるように、了も何故あんな時間に美術館にいたのか。
「あいつは、なに調べてたの?」
「蕪木クンか?
彼は、菅野館長の事件のあった前夜の映像を観に行ってたんだそうだよ。
気になることがあるから、って言ってたかな。」
「気になること?」
「うん。詳しくは聞いてないけどね。
まぁ彼のモットーは、現場百篇、情報収集の二つだからね。
僕がいうのもなんだけど、彼の捜査能力の高さと行動力には、感心するばかりだよ。」
そう言って我が事のように匠が威張るので、ユリは少し怪訝な顔で「ふぅん…」と答えた。
次にまとめるべき事と言えば当然、『菅野館長襲撃事件』である。
こちらは、大使の事件と違う理由で情報が少ない。
事件が発覚したのは、四月三〇日の一六時前後。
その日、朝から行方不明だった菅野は、美術館の屋根上で気絶した状態で発見される。
発見者は、クレアだ。
菅野は、腹部に鬱血痕があった事から、殴られて気絶したところを屋根上へ運ばれたと断定された。実際に本人の証言からも、夜中、所用で美術館に戻った際、二階の展示室から物音がしたので向かったところ、いきなり襲われて気絶してしまったという事だった。
しかし、セキュリティ・ルームの映像からは、二九日の夜中、マント状の何かが映りこんだ映像と、”男爵”のものとされるタイピンが落ちていた事、二人の怪しい人の影が映っていた事以外は、何も確認できなかった。
後の調査で、”男爵”が過去の事件で使用したものと同じ小型機械が、セキュリティ・ルームに仕掛けられていた事が判明し、監視映像が、その日リアルタイムで、細工されていたと断定された。その発見を期に捜査は進むものと思われたが、実際は一歩も進んだ様子はない。
「館長襲撃事件については、その後何の進展もないの?」
「僕が聞いている限りはね。」
「菅野館長は気にしてるみたいね。事件が進展したかどうか。」
ユリがぼそりと言うと、わざとらしく匠が反応した。
「ん? ああ、昨日の朝の事だね。
気にしてたね。様子も少しおかしかった。」
匠の言い方があからさまに菅野を疑う様子だったので、「おじさまが?」とクレアがたまらず問う。
「うん。
まぁ、でも、自分が襲われた事件の進展は気になるのも当然だけどね。」
ユリがさり気無くフォローを入れるが、クレアは納得していない様子で「そうですね…」とだけ答えた。
そこで、話す事は尽きてしまった。
了が悪態を吐いた様に、北代が情報制限をかけているようで、了ですら捜査状況を把握していないようだった。
了から匠へ、さらに匠から菅野ないし部外者、最悪、襲撃犯へと捜査状況が漏れる事を恐れてかは解らないが、北代は頑なに、情報開示を拒んでいるらしい。
情報が少ないから、余計に小さな事が気にかかる。
菅野の態度一つとっても、それは当て嵌まる。
気にしなくてよい事なのかも知れないのに、在らぬ疑いを生み出してしまう。
それは、事の発端とも言うべき『”紅い泪”の事件』についても同じで、”男爵”についての情報収集に限りがある事と、了の専門分野でもあるから彼に任せるとして、今のところは、ただ予告日時に備えて、万全を期する、と言う状況ではある以外に、大した情報も親展もないまま、予告を明日に控える。
「万全ねぇ…」と、ユリが溜め息混じりに言う。
「そ。
何をやっておけば万全かは僕にも解らないけどね…。」
匠も覇気なく答えた。
「それにしても、変な話よね…。」
元はこの事件こそが中心だったはずなのに、いつの間にか違う事件ばかりが発生している。
”男爵”については予告状が来たきり、菅野の事件と関連性はありそうではあるが、それも確定するほどの証拠はない。
「奇妙な状況ではあるね…。」
「関連性…か…。
”男爵”のものと思われるタイピンが、菅野館長が襲われた日に落ちていたこと、ね…。
でも、本当にあの夜、”男爵”があの美術館にいたのかしら…。」
ユリが頬杖を突いた。
「巧妙に映像に細工し、しかし証拠のようなものは残っている…。」
「なんだか、あべこべね。」
匠の呟きに、ユリが言うと、匠はケラケラと笑った。
「ユリもそう思うかい?」
「うん。だって変よ。
映像だって、完全に細工してたわけじゃないし、タイピンも落とすし…。
今までの”男爵”からは考えられないんじゃない?」
「そうなんだよね。
今まで何もかもを完璧に行ってきて、唯一使い捨てらしい小型の送受信機以外は何も現場に残さず消え去った”男爵”の仕業にしては、ずいぶんと杜撰なんだよな。」
匠が深々と頷く。
「あいつ…。蕪木さんはどう思ってるのかな?」
”専門家”としての了の意見を聞きたい。
了は当然、自分たちよりももっと早く、この『あべこべさ』に気付いている筈だ。
匠も同感のようだが、「どうかな…」と溜め息をついただけだった。
セレモニー開演を半日後に控え、手元にある情報は余りに少なく、心細かったが、それを嘆いても仕方のない事だった。
美術館へ向かうのは、夜の7時頃と言われ、それまでの間、ユリは少し眠る事にした。
今夜は、今まで以上に大変な事があるかも知れない。今出来る事は、寝ることくらいだった。
「ユリさん、寝るのでしたら、私がお部屋にいるのは邪魔になりますね。」
クレアの気遣いも、この状況では色々と心苦しいだけだった。顔に出す訳にはいかないので、なるべく平静を装う。
「そんな事ないけど、独りでいてもつまらないかもね。
クレアも寝る?」
クレアは、「そうですね、出かけるまでに少しは寝ないといけないでしょうけど…」と考え込んで、結局、「私、カナエおばさまのお手伝いをしている事にしますね」という事になった。
正直、クレアが部屋にいないのは有り難かった。
何か大きな事を前に、せめてベッドを占有してぐっすり眠りたかった。
しかし、それが果たされたのに、いざベッドに横になると、妙に頭が冴えて寝付けなかった。
「まだ興奮してるのかな…。」
眠気はあるのに、頭が落ち着かない。
ここ数日の出来事が、ユリの眠りを妨げているようだった。
仕方がないので、暫し頭に付き合って、順を追って思い出して見る。
初めての探偵としての仕事。了との出会い。
クレアを見かけた日からだったか、不穏な空気が漂っていたのを、今ならはっきりと思い出せる。
菅野が襲われ、了の横顔で自分の過去の穴に気付き、やがて大使が殺された。
そこで見た、”男爵”の『顔』。不気味に笑うあの仮面は、暗闇の中で、蒼白く光っているように見えた。
そこまでを思い出して、急に眠くなった。
ユリは睡魔に身を任せて瞼を閉じると、全身を弛緩した。
体がベッドに沈んで行く。
手に力が入らなくなり、瞼も開かなくなった。
よし、このまま寝てしまおう。
そんな決意すら途中で途切れてしまうほど、ユリは呆気なく、眠りに落ちた。