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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月3日、と4日
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5月3日、と4日◆5

 濡れた髪にタオルを当てながらリビングに戻ると、ダイニングテーブルを挟んで、クレアと匠が向かい合った席に着いていた。

 部屋の静けさが、それまで然程会話がなかった事を物語っていた。

 その静寂も、ユリの加入で幾らか和らいだようだった。

 クレアがユリを見上げて「おかえりなさい」と言った。

「うん、ただいま。」

 ユリの声を聞いて、カナエがキッチンから現れた。手には、ユリの専用カップの乗った盆がある。

「紅茶入ったよ、ユリ。」

「ありがと、カナエちゃん。」

 ユリはそう言って、テーブルに置かれたカップを席に着く前に持ち上げると、立ったまま一口、紅茶を口に含んだ。そして沈むように、静かに席に着く。

「落ち着いたかな?」

 匠に問われて「…うん…」と応えると、匠も「うん」と頷いて、ぐっと背筋を伸ばした。

 勢いをつけている様に見えた。ぴんと伸びた背筋と対照的に、顔はどんより曇っていた。

「クレアさん。」

 少しの間の後、匠がクレアを見据えて言った。

「はい。」

「今から、とても悲しいお話をしなければなりません。」

「…はい。」

 匠の言葉と表情に、クレアの声が小さくなった。

 何の話が…、と戸惑うクレアから、ほんの一瞬だけ視線を外した匠は、自分に言い聞かせるように溜め息を吐くと、再びクレアを射抜くように見つめた。

「ユリは、昨日、訳あって夜中、美術館にいた。」

 何から話したものか、匠も悩んだに違いなかった。

 ユリの事を心配していた事を汲んで、結局事のあらましを最初から話すのが好いと判断したのだろう。

「その詳細は、この話とは直接は関係ないのではしょるけれど、夜中、エントランスに鍵がかかっていたので出られなかったユリは、美術館の通用口から出ようと、館長室に繋がる廊下を歩いていた。

 そこで、物音が聞こえた。

 館内はすでに明かりが落ちていて、人がいる気配がしなかったのに。

 物音は館長室から聞こえた。そして、見に行った。」

 物語を読み上げるような、抑揚のない話し方だった。

「そうしたら、館長室で、君のお父さんの、バークレイ大使が…亡くなっていた。」

 予想していたより淡々と、簡潔に結末を話した匠の言葉に、クレアも一瞬理解が及ばなかったようだった。

 一呼吸置いた後、少しだけ目を大きく開けた。その反応は、ユリにしてみれば、小さ過ぎるくらいだった。

 クレアから言葉がないので、匠が続けた。

「本来なら、ご家族である君の同意を得なければならないんだが、大使館とシリング王国の許可を得て、ご遺体の検死は既に終えている。」

「…。」

「死因は、出血多量による、ショック死だそうだ。」

 ユリの入浴中にでも結果の報せがあったのだろう。

 ユリにとっても死因は初耳だった。

 そこまで聞いても尚、クレアは余り動揺した様子を見せなかった。

 ただ少しだけ俯いて、

「……そうですか…。

 その様子を、ユリさんは、見てしまったんですね…。」

と言った。

「ええ。

 ユリの悲鳴を、たまたまセキュリティルームで調べ物を終えて帰ろうとしていた蕪木クンが聞き、駆けつけたとき、既に大使は亡くなっていたそうだよ。

 検死による死亡推定時刻も確定した。

 二三時に〇~三〇分の間。

 その頃、蕪木クンはセキュリティルームにいて、ユリは三階のセレモニーホール付近にいたことが、監視カメラの記録から証明された。」

「死亡推定時刻、出たんだ?」

 ユリが言うと、匠がユリを横目で見て頷いた。

「ああ。ユリが疑われていたからね。

 蕪木クンが美術館を出るときに、急ぎ、発見時間前後の監視カメラの記録を手配して、職場で確認したらしい。」

「あいつが…。」

 言いながら、ユリはやっと、風呂場で思い出せなかった今朝の様子を、少し思い出した。

 ――この子が犯人ではない事は、私が保証します。

 そう言って北代を睨み付ける了の横顔を、思い出す。

(あいつ…。)

 言葉にした以上、証明しなければならないのが、了の仕事なのだ。

「クレアさん。」

 匠が呼ぶと、クレアがぱっと顔を上げる。

「はい。」

「蕪木クンやユリのアリバイは一応立証されたが、実は肝心の犯人の姿は、カメラには映っていないそうなんだ。」

「え?」

 匠の言葉に、ユリが驚く。

 そんな筈はない。あのとき、この目で館長室にいる何者かを見たのに…。

 思いながらも、すぐに了に見せて貰った警備室に仕掛けられた装置の事を思い出す。

 そうか、カメラのデータを細工してしまったのか…。

「逃走経路は、ユリが目撃しているが、進入経路、殺害に使った凶器、もちろん犯人自身。

 今のところ、何一つ判っていない。

 確かに事件が起きて、まだ数時間で、発見も何もない時間ではあるけれど、色々な事を想定して、あなたに害が及ばないとも限らない。

 どうだろう、明日の〇時に予定されているセレモニーへの出席、見合わせたほうがいいんじゃないかな?」

「セレモニーは行われるんですね?」と尋ねるクレアに、匠が「ああ」と頷くと、ユリが身を乗り出した。

「ど、どうして!?

 殺人事件があったのよ!?」

 『普通なら』、中止や延期ではないのか…。

 困惑するユリに、匠は静かに首を横に振った。

「事情を全て説明する事は僕には出来ないけど、とにかく、展示会と、それに付随するセレモニーは、大使が強く希望していた事らしいんだ。

 自分に何があっても、美術館があり、無事に展示品が搬入される限り、開催して欲しい、と。」

「で、でもっ。」

「とはいえ、捜査があるからね。

 犯人の遺留物が、三階にないとも限らない。

 だから、調査は徹底してやる。

 現場の状況を少しでもキープしておくため、床には特殊なシートを敷くらしい。

 参加者のボディチェックは徹底する。

 予定参加者以外の館内への入館は禁じる。

 美術品の搬入は、今夜。それからセレモニーで初披露となる。

 正直、捜査なんてできっこないスケジュールなんだが…。」

 それでもやるらしいんだよ、と言いたげな表情の匠の代わりに、クレアが口を開いた。

「本国から、要請が来ているんですね。」

「シリングから?」

 些か落ち着いたユリが、クレアを見る。落ち着いたと言っても、それほど気が鎮まった訳ではない。

 が、ユリの興奮に反比例するように、クレアは静かに続ける。

「はい。

 本国では、最近、観光客を積極的に受け入れようと考える企業や政治家たちが、独自の方法や人脈を使って誘致活動をしているんです。

 今回の展示会もそのうちの一つで、担当をたまたま、大使に着任していた父がやっていたのです。

 こんな事になっても、本国にはあまり影響ありませんから…。

 むしろ、展示会が潰れたり、延期したりするほうが、影響あると考えるでしょうね。」

「そんな…!」

 ユリが眉をハの字にすると、クレアが少し困ったように笑った。

「いいんですよ、ユリさん。

 私の国は、そういう国でもあるんです。

 この間もお話しましたけど、教育も企業も政治も、今が一番勢いがあるのは私にも解ります。

 この勢いがあるうちに、少しでも前に進んでおきたいんです。

 技術の進歩とかではなく、国の立場を大きなものにしておきたいんですよ。

 父の事と、その事は、どうやっても一緒に考えてはいけないんです…。」

 ユリの心は気が気ではない。

 自分より十も近く下の少女が、こんな事を『仕方がない』と語る事に、戸惑わない訳がない。

「だってクレアは…?」

 ユリが問うと、クレアは先程より少しだけ柔らかに笑って、

「私は心配要りません。

 冷たいと思われるかも知れませんが、私と父は、それほど仲が良かった訳ではないんです。

 愛情がないのとは違いますけど、ここ数年は本当に他人のようで。

 正直言って、今もそれほど悲しくないんです。

 だから、大丈夫です。

 今はユリさんも、カナエおばさまも匠おじさまもいるから。」

 この言葉には、流石に匠も何か思わざるを得なかったようで、小さく息を飲んで目を細めた。

 ユリ共々何も言えない二人を見兼ねてか、遠巻きに三人を見守っていたカナエが、ゆっくりと言った。

「ユリ、クレアさんがそういうなら、今はそれでいいと思うわ。

 辛くなったら、クレアさんからちゃんと、辛いと言ってくれるわよ。」

 カナエの言葉に、ユリはじっとクレアを見る。

「…ちゃんと言ってくれる?」

 不安な表情のユリに、クレアはにこりと笑った。

「ハイ! ちゃんと言います!」

「…わかったわ」ユリも納得しない訳にいかなかった。

 無理に哀しめとは言えない。

「そうしたら、男爵の予告状も、まだ”イキ”って事ね。」

 ユリが言うと、匠が「そうだね」と頷いた。

「本来なら、館長の襲撃事件や、大使の事件は切り離して考えていくべきなんだろうが、蕪木クンたち捜査班の見解では、これらも一様に”男爵、あるいは男爵に関係する者の犯行”という線で調べていくそうだから、そうなってくると、僕らに対して『無関係』とは言っていられない。

 捜査は出来ないが、調査は出来る。

 まずは出来る事から、やっていこう。

 取り敢えず…。」

 滑らかな言葉が、急に途切れた。

 ユリがきょとんとすると、匠はニヤリと笑って、

「今ある情報を整理したいと思わないか?」

「そうね。

 私の知らない事とか忘れてる事も、沢山ありそう。」

 匠の提案に、ユリばかりではなく、クレアも頷いた。

 予告まで、今日一日しかない。

 やるべき事は、限られている。

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