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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月3日、と4日
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5月3日、と4日◆4

「ただいまー。」

 いつもどおりを装って、ほぼ丸一日ぶりの我が家の玄関へ入る。

 嗅ぎ慣れている筈の、玄関に染み付いた匂いが、新鮮に感じる。

 ユリの声がしてすぐ、ガタガタと忙しなく椅子が引かれる音と、カランと何か陶器のようなものが転がる音がし、次いで勢いよく居間のドアが開いたと思えば、クレアが飛び出してきた。

「ユリさん!」

 クレアの顔はすでに涙でぐちゃぐちゃになっていた。

 余程心配をしたらしく、足音も気にせず廊下を走り、ユリに抱きついた。

「ユリさぁん…。」

 クレアを抱き止めながら、ユリは「ごめんね…」と言い、頭を撫でる。

 クレアの、少しだけ乳臭い匂いに安堵する一方で、父親が亡くなった事に関する罪悪感のようなものも感じる。

(クレア、まだ知らないんだ…。どうしよう、いつ言えば…)

 実際、事実を告げるのは匠の役割であろうが、ユリも必ず立ち会う。

 どういう心持でその場にいたらよいのか、そう思い、とてつもない不安に襲われたユリの耳に、「ユリ…」とカナエの声が聞こえた。

 見上げると、カナエが苦笑して立っていた。

 その姿に、ユリの涙腺が一気に緩んだ。

 今しがたクレアが浮かべていた表情と同じように顔を歪め、「カナエちゃぁん…」と情けない声を上げて涙を零す。

 そして、靴を脱ぐのもままならないほどドタバタと玄関を上がり、カナエに抱きついた。

「おかえり、ユリ。お腹空いたでしょう?」

「空いたぁ…。」

 呆れたように笑うカナエの腕の中で、ユリが涙で喉を詰まらせながら答える。

 その様子に、カナエはさらに呆れて笑った。事情は恐らく匠から聞いているのだろうが、そんな様子を微塵も見せないカナエが、とても有り難かった。

「まったく、あんたって子は…。

 取り敢えず、ユリ、お風呂に入っちゃいなさい。」

 カナエが、仕方なしとため息を吐きながら、ユリの肩を掴んでゆっくりと体から離した。

「うん…」とユリは頷き、匠を振り返る。

「叔父さん…?」

 クレアへの話をどうするのか表情で訴えると、匠は浮かべていた苦笑を少しだけ消して、肩を竦めた。

「わかってるよ。まずは、落ち着こう。」

 匠の中でも、まとまっていないのかも知れない。

 ユリはそう思い、頷いて、風呂に入る事にした。

 カナエが準備してくれた、炊き上がったばかりの風呂の湯気が立ち込める風呂場で、服を脱ぐ。思いの他、汗を掻いていたようで、服を脱ぐと途端に体が軽くなった。

 まだショックが抜けきらないのか、覚束ない手元で体を洗い、バスタブに一気に浸かる。

 豪快に湯が溢れ、排水溝に向かってザーと流れていく。

 その様子を眺めながら、ユリは暫し放心した。

 そして、体が温まったところで、やっと「…………ふぅ…」と溜め息が漏れ、体の緊張が解れたのを感じた。

 頭もだいぶスッキリして来た。

 ユリは、さらさらと体に纏わりつく湯を意味もなく掻き回しながら、既にいくらか忘れかけている今朝方の騒ぎを思い出す。

 沢山考えなければならない事がある気がするのに、億劫で何も考えたくなかった。

 ただ、了の事だけは、とても心配だった。

「蕪木さん、大丈夫かな…。

 沢山叱られちゃうのかな…?

 叱られるのは、私のせい?」

 呟きながら、あの疲れきった横顔を思い浮かべる。

「普段、全然寝てないって言うし、さっきも凄く疲れた顔してたな…。

 大丈夫かな…。」

 あの横顔。

 ユリを庇い、北代を睨み付ける目。

 喫茶店を立ち去る、後姿。

 記憶の中で、音もなく、了の姿が再生される。

 何故か、そのとき交わした言葉が思い出せない。

 そればかりか、毎日聞いていた声すら思い出せない。

 どんな声をしていたっけ。どんな話し方をしていたっけ…。

 そして、とても気になるものを見たような気がするのに、思い出せない。

 思い出したくて、何度も何度も了の姿を再生するが、思い出せない。

 五回、六回…と繰り返したところで、ユリは小さく溜め息をついて、諦めた。

 了の事が刺激になったのか、だいぶ考える気力がわいてきた。

「………クレアには、何て話そう…。」

 突然、あなたのお父さんは死んだと告げるには、違和感がありすぎる。

 しかし、それ以外に、彼女に語るべき事はない。

「お父さんも、お母さんも、お兄ちゃんも、いなくなっちゃって…。

 私は叔父さんとカナエちゃんがいるけど、クレアは?

 シリングには、仲良しの親戚、いるのかな…?

 独りぼっちにならないよね…?」

 匠は今頃、クレアへどう切り出すかを思案しているだろう。

 冷静に、話を聞けるか。クレアではなく、自分が、だ。

 取り乱してしまいそうで、それが怖かった。

 どうにか、クレアを支えるだけの冷静さは保ちたい。

 独りは、辛いものだから。

「…早く出よう。

 大事な話しなきゃいけないもん…。」

 そう思い、ユリは勢いよく立ち上がった。

 反動で、湯が大きく揺れた。

 バスルームを出、ふわふわのバスタオルに顔を埋める。

 水分がタオルに吸い込まれる感覚を感じながら、少しひんやりとしている風呂場の空気に、武者震いをする。

 急いで体の水気をふき取ると、震えはすぐに治まった。

 ユリは手早く、用意していた着替えを着、何かを払うようにバスタオルを洗濯機へ思いっきり投げ入れ、居間へ向かった。

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