5月3日、と4日◆3
「さあ、ユリ。 いったん家に帰ろう。
カナエもクレアさんも、とても心配してるからね。」
匠がユリに振り向き、言った。
それに、少し休まないと、と言いながら、眉をハの字にして笑う。
しかしユリは、「え…、あ…」と歯切れの悪い返事をする。
「どうした?」
首を傾げて問う匠から、ユリはゆっくり視線を外す。
そしてやり場なさげに、了の胸元を見た。
何故か急に、顔を見るのが照れくさくなった。
いつまでもここにいる訳にはいかないのは解るが、ここを、了の傍を離れるのが、とても心細かった。
しかし、駄々を捏ねる訳にもいかず、ユリは首を振った。
「………ううん、なんでもない。」
ユリの様子を心配した了が、「送りましょうか?」と言ったが、匠が大袈裟に手を振って断った。
「いやいや、歩いて帰るよ。そんなに遠くないからね。
それより、職場に戻らなきゃいけないんだろう?」
聞かれて、了が「ええ」と頷く。
「北代警部補の仕返しを受けに行かないといけませんからね。」
言いながら、うんざり、という表情で苦笑した。
「それなら急いだ方がいいんじゃないか?
遅くなると、さらに仕返し積み重ねられるかもしれないからね。」
匠が面白そうに言うと、了もニヤリと笑った。
「そうですね。
では、ボク、先に失礼します。」
軽く頭を下げ、ユリをちらりと見て、了は足早に喫茶店を出て行った。
了の後姿を見送り、匠が改めてユリを見る。
「さ、ユリ。僕らも帰ろう。」
「うん。」
了が立ち去った事で、ここにいる用事も必然性も、居たいという我が侭も通す意味がなくなった。
ユリは素直に頷くと、匠についてエントランスへ向かった。
いつの間にか、と言うより、恐らく警察関係者が出入りするために、エントランスは開錠されていた。
陽はすっかり昇り、朝日が中庭を照らす。
少し風は冷たいが、心地よい気温だった。
前を歩く匠を見る。
後頭部に、若干寝癖が付いていた。
寝相の良い匠は、さらさらと細く柔らかい髪質の所為もあるが、寝癖が付く事など滅多になかった。
付いているときは、大抵ベッド以外で仮眠を取った程度のときだ。
聞くまでもなく、昨夜は、帰らないユリを心配して、遅くまで起きていたに違いない。
時間は見ていないが、大使の遺体を発見して、了に保護され、その了から匠に連絡が入ったのは、そんなに深い深夜でもないような気がした。
それから、あれこれとユリの身を案じては、短く浅い仮眠を繰り返し、朝を迎えたのだろう。
ごめんなさいと謝るのも、少し違う気がして、ユリはずっと、匠に話しかけられずにいた。
辺りを見回す。
早朝のせいか、人通りはおろか、車さえあまり通らない大通りには、そこはかとなく不気味さを感じる。
風の音や鳥のさえずりが、違和感と相俟って、その不気味さを助長している。
それでいても尚、射るような静けさを保つ街に、匠とユリの足音が響く。
夜の美術館内とは違う、軽やかな静けさ。
澄んだ空気の中、無言のまま歩く。
一度視線を足元に落とし、そして再び辺りを見回すと、いつの間にか、事務所の近所までたどり着いていた。
もうすぐ、家だ。
そう思った途端、なんだかたまらず駆け出したくなった。
心細さ。
昨夜から今朝にかけて、不安と心細さと、恐怖に震えて過ごした。
その現実を、家という空間が、一時、非現実にしてくれるのだと思った。
カナエとクレアの待つ家。
そうだ、クレア…。
何と話せばいいのだろう。
その役割を担うのは、自分ではなく匠だという事くらいは解っているが、それでも戸惑う。
この間のように、抱きしめるだけでは、きっと足りないだろう。
そう思うと、駆け出したい衝動が、突如逃げ出したいものへと変わる。
一歩一歩踏み出す足に、重大な責任を感じる。
ふと、前を歩く匠の背中を見る。
いつもどおりの猫背。あまりに痩せ細った躰。
寒くてジーンズのポケットに突っ込んだ手が、時折もぞもぞと動いた。
匠も緊張しているのかも知れない。
そう思うと、昨夜の自分の行動を悔やんだ。
あのまま帰っていれば、このような気持ちを抱く必要はなかった。
鬱陶しいほど重い戸惑いと悩みを振り切るように、ユリは首を振った。
空を仰ぎ、了の顔を思い浮かべる。
が、何故か頚筋の傷を思い出した。
あれは、果たして何の傷なのだろうか…。
また知らない了がいた。
それだけで、ユリはまた、心細くなった。