表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月3日、と4日
60/87

5月3日、と4日◆2

 暗闇の中で、自分に詫びる声が聞こえる。

 ふわふわと落ち着かない足元のに気を取られ、その声が誰の声か、よく判らない。

 繰り返し繰り返し詫びる声は、とても寂しそうで、悔しそうで、時折、誰に対してかの、怒りをも含んでいるように聞こえる。

 その声に耳を傾けるうち、ふと、肩に温もりを感じた。

 その温もりは肩だけに留まらず、体全体に感じるようになった。

 抱きしめられている…。

 誰だろう…

 知っている人だろうか…?

 どこでか感じた事のあるその温もりは、体だけでなく、心の中までも入り込んで、満ちていくような気がする。

(この人、私、知ってる…。

 すごく昔から知ってる…)

 間違いない。

(誰だっけ…。)

 温かくて、一生懸命で、強くて、頭が良くて、優しくて…。

 身に覚えのある温もりの主の記憶を辿る。

 そうだ、あの時だ。

 あの時、感じた温もりだ。

(あの時も、こんな風に…。)

 思いついた途端、暗闇が白んだ。

 もぞもぞと瞼を動かし、ゆっくりと目を開ける。

 視線だけを動かす。

 目の前に、誰かの頸があった。

 頸の向こうからは、光が溢れている。

(朝…? 私…、どうしたんだっけ…。)

 眠ってしまったのだろうか。

 確か、館長室でバークレイの遺体を見て…。

 そのあとの記憶が何もない。

 頭の中はまだぼうっとしていて、体中が痺れているみたいに動かない。

 暫し、頸を眺める。

 その頸には、ケロイドのまま遺った傷が見えた。

(傷が…。誰の…、傷…?)

 傷を見ると、何故か体の感覚がはっきりとしてきた。

 座っている。誰かと、何かに。

 ぴったりと体をつけ、自分の体は誰かに凭れかかっている。

 肩には誰かの腕が力強く添えられていて、座っている両脚が、狭い故なのか、誰かの脚に引っ掛けられている。

 傷を直視していた視線を、上に動かす。

 喉元、顎、唇、鼻、頬…。

 徐々に上がっていく視線が、その誰かの目に辿り付いた。

(蕪木…さん…?)

 了だ。

 了は目を閉じ、眠っているように見えた。

 頬がややこけ、目の下にはうっすらと(くま)が見えた。

 ずいぶん疲れている顔だ。

 寝ていないのだろうか…。

 そういえば…。

(私…、どうして…。)

 どうして、了に寄りかかっているのだろう…。

 ユリがもぞもぞと動くと、「…大丈夫か?」と声がした。

 見上げると、いつもよりもう少し眠そうな目をして、了がユリを見下ろしていた。

 眠っていたように見えたが、そうではなかったらしい。

「…うん…。

 ごめんなさい、私…。」

 言って漸く、気絶したのだろうという考えに及んだ。

 この状況からすれば、恐らくそれは当たりなのだろう。

 上体を起こして言いながら、しかし、いつからか握り締めていた了の手が離せないでいた。

 了の腕も、ユリの肩を抱いたままだ。

「俺が見つけた後、すぐに気を失ったんだ。

 無理もない。

 突然あんなものを見たんだから。」

 了の声は、若干しゃがれていた。

 目の奥の鋭さはいつもと変わらないが、頬が若干こけ、髭も少しばかり伸びて、そこに暈も相俟って、とても憔悴しているように見えた。

 それでも、了は真っ直ぐユリを見、未だ力強くユリの肩を抱いて離さない。

「ごめんな。

 もう少し、早く気付いていたら、あんなものを見なくても済んだのにな…。」

 そう言って、了が眉を少しだけ歪めた。

 その言葉に、やっと暗闇で聞こえた声が了のものだと知る。

 ユリはゆっくり被りを振った。

「ううん…。

 蕪木さんが謝る事じゃないわ…。

 ずっと謝ってくれて。

 ごめんなさい…。」

 俯くと、肩を抱いているのとは逆の手、ユリの手を握っている了の手が見えた。

 大きく、少しだけ冷たい手だ。

 すらりと長く、程よく肉の付いた細めの指の先は、ささくれている。

「芳生さんに連絡を入れておいた。

 多分、もうそろそろ迎えに来ると思う。」

 ユリの視線を感じたのか、了が手の力を緩めた。

 それを合図にするように、ユリも手を離す。

「うん、ありがとう。」

 そう言って、了の脚に引っ掛けられていた両脚を降ろすと、了が不意に立ち上がった。

 了の腕が体から離れて初めて、了の上着が肩にかけられていた事に気付く。

 立ち上がった了は、首もとの広い、白いTシャツ姿だった。

 いつぞやに見た、ロケットの鎖も見える。

 ユリは肩のジャケットを外し、丁寧に一度畳んで了に返した。

 了は黙ってそれを受け取ると、素早く腕を通す。

「…ねえ…。」

「ん?」

「私が昨日見たのは…。」

 やっぱり…。

 ユリが言いかけると、ジャケットを着終えた了が、ユリの座る椅子の肘掛に腰掛けた。

 見れば椅子はやや広めの一人掛けソファだった。

 了を見上げる序でに辺りを見ると、一階にある喫茶店だった。

 ユリの言葉に、了がふぅと小さく溜め息を吐く。

「ああ。大使だ。

 今、検死をしてる…。」

 俯き加減に、ユリと少しだけ視線を外し、了が答えた。

 複雑な横顔だった。

 憂いやら怒りやら悲しみやら、複数の感情が織り交ざり、尚冷静を無理に装った、表情。

「クレアには…?」

「…まだ…。」

 了が首を振った。

「クレアのお父さん、どうしてあんな事に?」

 ユリの問いに、了が黙った。

 解らない、というより、何か思い当たる事でもある、と言わんばかりの表情に見えた。

 噤んだ唇を見れば、答えてはくれない事は安易に判った。

 しかし、ユリは真っ直ぐ、了の唇を見つめた。

 突如、「蕪木」と、不機嫌な声が場の沈黙を破った。

 呼ばれた了は驚き、振り向く。

 ユリも振り向くと、北代が、これ以上ないほどの深い皺を眉間に寄らせ、喫茶店の入り口に仁王立ちしていた。

「北代警部補…。」

 了がのそのそと立ち上がり、北代に歩み寄る。

 了が近付けば近付くほど、北代の表情は怒りへと変わっていた。

 今にも噴出しそうな感情を堪え、北代は了を睨みつけている。

「どういう事だ?

 今、大凡の死亡推定時刻を割り出してもらったが、君が現場に到着したとき、大使はまだ生きていたかも知れないそうじゃないか。」

「え…!?」

 北代の言葉に、ユリが思わず声を上げた。

 それが確かなら、ユリが発見した時点でも、バークレイはまだ生きていた事になる。

 了を見上げると、了は黙ったまま、北代を真っ直ぐ見つめるだけだった。が、表情には、あからさまな悔しさが滲み出ている。

 確かなのか…?

「どういう事なんだ!」

 黙りこくる了を、北代が一喝した。

 言い訳の一つも出来ない子供を叱り付ける、大人のようだ。

 怒鳴られ、了は口で小さく溜め息を吐き、

「…現場に到着して、一目見て、救命処置は不要と判断しました。」

 ゆっくり、言葉を選んで言い訳をした。

「出血量の多さから、処置は施すだけ無意味だと…。」

「それで小娘の介抱か?」

 了の言葉を、北代が苛つきながら遮った。

 声には、存分に嫌味が籠められている。

「小娘が発見者だそうだな。

 第一発見者のフリして、犯人ということはあるまいな!」

「ちょっと…!」

「ユリ。」

 疑惑をかけられ一歩踏み出たユリを、了が制した。

「でもっ。」

「黙って…。」

 低く、ゆっくりとした口調だ。

 ユリを一目も見ず、未だ真っ直ぐに北代を見つめる了の表情は、先程と打って変わって、攻撃的に見えた。

「この子が犯人ではない事は、私が保証します。

 証言が必要なら、然るべき場所で証言する事も吝かではありません。」

 きっぱりと言い放つ。

「蕪木さん…。」

 依然として北代を見射る了に、当の北代も一瞬たじろいだ。

 そして、鼻で笑う。

「ふんっ!

 大人しく検死の報告を待つんだな!

 場合によっては、国際問題にもなり兼ねないんだからな!」

 声でさらに威嚇をするも、了は、まるで北代を挑発するかのように、冷静に「はい」と返すのみだった。

 案の定挑発に乗ってしまった北代は、

「取り敢えず、君の無能な上司には報告させてもらった。

 合同捜査なぞ、だから反対したんだ!」

 と、敗北寸前の強者のような棄て台詞を吐きつけ、肩で怒りを露わにしながら喫茶店を出て行った。

 残されたユリと了は、暫し言葉を失い、北代の消えた入り口を見ながら、無言のまま立ち尽くした。

「……蕪木さん…。」

 暴言を吐かれたに等しい了が突然心配になり、ユリが見上げると、了は俄かにユリに向き、苦笑した。

「ま、嫌味を言われるのが、ここでの俺の仕事なんでね。」

 堪えていない。そんな様子だった。

 ころころと変わる表情に、ユリが訝しげな顔をする。

「…ねえ、北代さんが今言ってた事が本当なら、私が見つけたとき、クレアのお父さんはまだ生きてたってこと…?」

 犯人ではない事は、勿論自身が一番よく知っている。

 しかし、助かったかも知れない状況で助けられなかったというのなら、犯人と同等のような気がする。

 ユリが訊ねると、了が少し困った顔をした。

「いや。

 恐らく、それはない。

 今、司法解剖による検死調査の技術は相当進歩しているけど、さすがに寸分の誤差もなく特定できるわけじゃない。

 飽く迄も、生きていたかも知れない、と推測する材料になるだけだからな…。

 俺が到着して、ユリに一度声をかけて、それから大使の脈は確認したが、脈が止まってから長からず時間は経っていたようだった。

 体温が…、だいぶ低かったからな。」

 尤もな説明をしたあと、「多分、ユリが発見した時点で、大使は死んでたよ」と、念押しのように、了が呟いた。

 了の言葉を聞いても、ほっとなど出来なかった。

 そうか。と思うだけで、結局亡くなっている事には変わりない。

 ただ、助けられなかったのだという、状況が確認できたに過ぎなかった。

「私…。」

「ユリ。」

 困惑して、どうしたらいいのだろう、と言いかけるユリの言葉を、了が遮った。

「うん?」

 俯き気味だった顔を見上げて、了の顔を見る。

 苦笑や困惑の表情はいつの間にか消え、了はユリを睨みつけていた。

「何故、館長室にいた?」

 その問いに、ユリの全身が泡立った。

 了も疑っているのか?

 さっき、無実だと言ってくれたではないか…。

 足元が崩れていくような感覚の中、全身に冷や汗を掻いて、ユリはもごもごと説明をする。

 頭の中で言い訳が回る。

「…昨日、蕪木さんと美術館で別れたあと、菅野館長も叔父さんも用事があるって言っていなくなって、独りで館内をうろうろしてたの。」

 特に用があった訳ではないのだ。ただ…。

「特に用があったわけじゃないんだけど、見回っておきたくて。」

 そして、セレモニーホールへ行ったのだ。

「で、セレモニーホールにね、知ってる?

 屋根に出られる窓に登るための梯子があるの。」

 その梯子を昇って…。

「そこで休んでたら、いつの間にか寝ちゃって…。」

 暗い館内を、エントランスへ向かったのだ。

 しかし案の定、施錠されていて、出られなかった。

「エントランス、鍵がかかって出られなかったから、通用口なら開いてると思って職員通路に入ったら、館長室から物音がしたの。」

 どんな音だっただろうか…。

 たった数時間前の事なのに、既に思い出せないでいる。

「誰かいるのかと思って、覗いたら…。」

「覗いたら…?」

「扉の隙間から…。」

 そう、扉の隙間から…。

 にやりと滑稽に笑う、顔。

「仮面を付けたヒトが…。」

「仮面!?」

 ユリの言葉に、了が過剰な反応をした。

 ぎゅっと肩を掴まれ、痛かった。

「うん…。

 仮面と…、あと、何か黒っぽい、ひらひらしたマントみたいなものをかぶってて…。」

「鉢合わせたのか!?」

 興奮気味に攻め寄る了に、ユリは冷や汗の上に違う種類の汗を掻き始めた。

 どうしたというのだ。

「うん…。目が合った、のかな…よくわからないけど、でも、私のほうを見て、すぐに窓から…。」

「窓…。」

 窓から逃げた”それ”は、その瞬間に姿が見えなくなってしまった。

 黒い衣服のせいだったのか、完全に闇に溶け込み、正しく、消えてしまったのだ。

「そのあと、変な、鉄みたいな臭いがして気になって、臭いのするほうに行ってみたら…。」

 言ううち、バークレイの遺体を思い出してしまった。

 ユリの声のトーンが下がり、了の興奮も、バークレイの話に及んだところで一気に冷めたようだった。

「そうか…。」

 ユリの肩を掴んでいた、了の手の力が抜けた。

 中庭を臨む窓を、虚ろな目で見つめる。

「……信じる?」

 ユリが上目遣いで、了を見た。

 ユリの問いに、了がきょとんとする。

「ん?」

「今の話、信じてくれる?」

 北代のせいで気弱になったのか、ユリが不安げに見上げてくるので、了は思わず苦笑した。

「何故疑う必要がある?」

 問い返されて、ユリは言葉に詰まる。

「北代警部補の見解は、彼個人の見解であって、俺には関係ない。

 俺は、芳生ユリは無実だと信じて疑わないし、嘘を吐いているとも思わない。」

「でも…。」

 では、何故さっき…?

 ユリが言うと、了は解っているという表情で、肩を竦めた。

「ユリが現場にいた理由も知らないままじゃ、この人は無実ですって言えないだろ?

 第一発見者ってのは、難儀な立場でね。

 ほぼ半々の確率で、犯人だったりする。

 北代が言っているのはその確率の事であって、芳生ユリ個人の素行ではない、とフォローだけはしておくよ。

 あの時間、あの場所にいた事、その事は、色々なことを踏まえて考えれば問題のあることだが、芳生ユリ個人において、そのことは問題のあることじゃない。

 それは北代だって弁えている。」

 そうなのだろうか…。

「大事なのは、ユリが何故あの時間、あの場所にいたか、それだけだよ。

 ユリはただ大使の遺体を発見しただけなんだろ?」

 それだけは間違いない。

 ユリは深く、「うん」と頷いた。

 了も満足気に頷く。

「なら、それ以上はない。わかったな?」

「…うん。」

 解ったような、解らないような。

 ただ言い包められただけのような気がしないでもない。

 ユリは俯き、指を意味なくもぞもぞと動かした。

 すると、突然、名を呼ばれた。

「ユリ!!」

 呼ばれた方を向くと、大層慌てた様子の匠が立っていた。

「叔父さん!」

「まったく、お前って子は…。」

 ユリと了に歩み寄りながら、匠が溜め息を吐いた。

 眉はこれ以上ないというほど下がって、若干、目の下に暈が出来ていた。

「蕪木クン、すまなかったね…。」

 匠が言うと、了が俯いて、拳を握り締めた。

「いえ。ボクのほうこそ、申し訳ありませんでした…。」

 存分に悔いている様子の了に、匠がさらに申し訳なさそうな顔で呟いた。

「…君は一層、気にしてしまうな…。

 僕も反省したよ…。本当にすまなかった…。」

 匠が頭を下げると、了が慌てた。

 お互いに低頭を繰り返しながら謝った後、了が苦笑して言った。

「御相子にしましょう…。芳生さん。」

 そう言われ、やり取りの裏にある事情を知らず、もどかしそうに見るユリを、匠が見て笑った。

「…ああ。」

 二人の中で、何か解決したようだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ