5月3日、と4日◆2
暗闇の中で、自分に詫びる声が聞こえる。
ふわふわと落ち着かない足元のに気を取られ、その声が誰の声か、よく判らない。
繰り返し繰り返し詫びる声は、とても寂しそうで、悔しそうで、時折、誰に対してかの、怒りをも含んでいるように聞こえる。
その声に耳を傾けるうち、ふと、肩に温もりを感じた。
その温もりは肩だけに留まらず、体全体に感じるようになった。
抱きしめられている…。
誰だろう…
知っている人だろうか…?
どこでか感じた事のあるその温もりは、体だけでなく、心の中までも入り込んで、満ちていくような気がする。
(この人、私、知ってる…。
すごく昔から知ってる…)
間違いない。
(誰だっけ…。)
温かくて、一生懸命で、強くて、頭が良くて、優しくて…。
身に覚えのある温もりの主の記憶を辿る。
そうだ、あの時だ。
あの時、感じた温もりだ。
(あの時も、こんな風に…。)
思いついた途端、暗闇が白んだ。
もぞもぞと瞼を動かし、ゆっくりと目を開ける。
視線だけを動かす。
目の前に、誰かの頸があった。
頸の向こうからは、光が溢れている。
(朝…? 私…、どうしたんだっけ…。)
眠ってしまったのだろうか。
確か、館長室でバークレイの遺体を見て…。
そのあとの記憶が何もない。
頭の中はまだぼうっとしていて、体中が痺れているみたいに動かない。
暫し、頸を眺める。
その頸には、ケロイドのまま遺った傷が見えた。
(傷が…。誰の…、傷…?)
傷を見ると、何故か体の感覚がはっきりとしてきた。
座っている。誰かと、何かに。
ぴったりと体をつけ、自分の体は誰かに凭れかかっている。
肩には誰かの腕が力強く添えられていて、座っている両脚が、狭い故なのか、誰かの脚に引っ掛けられている。
傷を直視していた視線を、上に動かす。
喉元、顎、唇、鼻、頬…。
徐々に上がっていく視線が、その誰かの目に辿り付いた。
(蕪木…さん…?)
了だ。
了は目を閉じ、眠っているように見えた。
頬がややこけ、目の下にはうっすらと暈が見えた。
ずいぶん疲れている顔だ。
寝ていないのだろうか…。
そういえば…。
(私…、どうして…。)
どうして、了に寄りかかっているのだろう…。
ユリがもぞもぞと動くと、「…大丈夫か?」と声がした。
見上げると、いつもよりもう少し眠そうな目をして、了がユリを見下ろしていた。
眠っていたように見えたが、そうではなかったらしい。
「…うん…。
ごめんなさい、私…。」
言って漸く、気絶したのだろうという考えに及んだ。
この状況からすれば、恐らくそれは当たりなのだろう。
上体を起こして言いながら、しかし、いつからか握り締めていた了の手が離せないでいた。
了の腕も、ユリの肩を抱いたままだ。
「俺が見つけた後、すぐに気を失ったんだ。
無理もない。
突然あんなものを見たんだから。」
了の声は、若干しゃがれていた。
目の奥の鋭さはいつもと変わらないが、頬が若干こけ、髭も少しばかり伸びて、そこに暈も相俟って、とても憔悴しているように見えた。
それでも、了は真っ直ぐユリを見、未だ力強くユリの肩を抱いて離さない。
「ごめんな。
もう少し、早く気付いていたら、あんなものを見なくても済んだのにな…。」
そう言って、了が眉を少しだけ歪めた。
その言葉に、やっと暗闇で聞こえた声が了のものだと知る。
ユリはゆっくり被りを振った。
「ううん…。
蕪木さんが謝る事じゃないわ…。
ずっと謝ってくれて。
ごめんなさい…。」
俯くと、肩を抱いているのとは逆の手、ユリの手を握っている了の手が見えた。
大きく、少しだけ冷たい手だ。
すらりと長く、程よく肉の付いた細めの指の先は、ささくれている。
「芳生さんに連絡を入れておいた。
多分、もうそろそろ迎えに来ると思う。」
ユリの視線を感じたのか、了が手の力を緩めた。
それを合図にするように、ユリも手を離す。
「うん、ありがとう。」
そう言って、了の脚に引っ掛けられていた両脚を降ろすと、了が不意に立ち上がった。
了の腕が体から離れて初めて、了の上着が肩にかけられていた事に気付く。
立ち上がった了は、首もとの広い、白いTシャツ姿だった。
いつぞやに見た、ロケットの鎖も見える。
ユリは肩のジャケットを外し、丁寧に一度畳んで了に返した。
了は黙ってそれを受け取ると、素早く腕を通す。
「…ねえ…。」
「ん?」
「私が昨日見たのは…。」
やっぱり…。
ユリが言いかけると、ジャケットを着終えた了が、ユリの座る椅子の肘掛に腰掛けた。
見れば椅子はやや広めの一人掛けソファだった。
了を見上げる序でに辺りを見ると、一階にある喫茶店だった。
ユリの言葉に、了がふぅと小さく溜め息を吐く。
「ああ。大使だ。
今、検死をしてる…。」
俯き加減に、ユリと少しだけ視線を外し、了が答えた。
複雑な横顔だった。
憂いやら怒りやら悲しみやら、複数の感情が織り交ざり、尚冷静を無理に装った、表情。
「クレアには…?」
「…まだ…。」
了が首を振った。
「クレアのお父さん、どうしてあんな事に?」
ユリの問いに、了が黙った。
解らない、というより、何か思い当たる事でもある、と言わんばかりの表情に見えた。
噤んだ唇を見れば、答えてはくれない事は安易に判った。
しかし、ユリは真っ直ぐ、了の唇を見つめた。
突如、「蕪木」と、不機嫌な声が場の沈黙を破った。
呼ばれた了は驚き、振り向く。
ユリも振り向くと、北代が、これ以上ないほどの深い皺を眉間に寄らせ、喫茶店の入り口に仁王立ちしていた。
「北代警部補…。」
了がのそのそと立ち上がり、北代に歩み寄る。
了が近付けば近付くほど、北代の表情は怒りへと変わっていた。
今にも噴出しそうな感情を堪え、北代は了を睨みつけている。
「どういう事だ?
今、大凡の死亡推定時刻を割り出してもらったが、君が現場に到着したとき、大使はまだ生きていたかも知れないそうじゃないか。」
「え…!?」
北代の言葉に、ユリが思わず声を上げた。
それが確かなら、ユリが発見した時点でも、バークレイはまだ生きていた事になる。
了を見上げると、了は黙ったまま、北代を真っ直ぐ見つめるだけだった。が、表情には、あからさまな悔しさが滲み出ている。
確かなのか…?
「どういう事なんだ!」
黙りこくる了を、北代が一喝した。
言い訳の一つも出来ない子供を叱り付ける、大人のようだ。
怒鳴られ、了は口で小さく溜め息を吐き、
「…現場に到着して、一目見て、救命処置は不要と判断しました。」
ゆっくり、言葉を選んで言い訳をした。
「出血量の多さから、処置は施すだけ無意味だと…。」
「それで小娘の介抱か?」
了の言葉を、北代が苛つきながら遮った。
声には、存分に嫌味が籠められている。
「小娘が発見者だそうだな。
第一発見者のフリして、犯人ということはあるまいな!」
「ちょっと…!」
「ユリ。」
疑惑をかけられ一歩踏み出たユリを、了が制した。
「でもっ。」
「黙って…。」
低く、ゆっくりとした口調だ。
ユリを一目も見ず、未だ真っ直ぐに北代を見つめる了の表情は、先程と打って変わって、攻撃的に見えた。
「この子が犯人ではない事は、私が保証します。
証言が必要なら、然るべき場所で証言する事も吝かではありません。」
きっぱりと言い放つ。
「蕪木さん…。」
依然として北代を見射る了に、当の北代も一瞬たじろいだ。
そして、鼻で笑う。
「ふんっ!
大人しく検死の報告を待つんだな!
場合によっては、国際問題にもなり兼ねないんだからな!」
声でさらに威嚇をするも、了は、まるで北代を挑発するかのように、冷静に「はい」と返すのみだった。
案の定挑発に乗ってしまった北代は、
「取り敢えず、君の無能な上司には報告させてもらった。
合同捜査なぞ、だから反対したんだ!」
と、敗北寸前の強者のような棄て台詞を吐きつけ、肩で怒りを露わにしながら喫茶店を出て行った。
残されたユリと了は、暫し言葉を失い、北代の消えた入り口を見ながら、無言のまま立ち尽くした。
「……蕪木さん…。」
暴言を吐かれたに等しい了が突然心配になり、ユリが見上げると、了は俄かにユリに向き、苦笑した。
「ま、嫌味を言われるのが、ここでの俺の仕事なんでね。」
堪えていない。そんな様子だった。
ころころと変わる表情に、ユリが訝しげな顔をする。
「…ねえ、北代さんが今言ってた事が本当なら、私が見つけたとき、クレアのお父さんはまだ生きてたってこと…?」
犯人ではない事は、勿論自身が一番よく知っている。
しかし、助かったかも知れない状況で助けられなかったというのなら、犯人と同等のような気がする。
ユリが訊ねると、了が少し困った顔をした。
「いや。
恐らく、それはない。
今、司法解剖による検死調査の技術は相当進歩しているけど、さすがに寸分の誤差もなく特定できるわけじゃない。
飽く迄も、生きていたかも知れない、と推測する材料になるだけだからな…。
俺が到着して、ユリに一度声をかけて、それから大使の脈は確認したが、脈が止まってから長からず時間は経っていたようだった。
体温が…、だいぶ低かったからな。」
尤もな説明をしたあと、「多分、ユリが発見した時点で、大使は死んでたよ」と、念押しのように、了が呟いた。
了の言葉を聞いても、ほっとなど出来なかった。
そうか。と思うだけで、結局亡くなっている事には変わりない。
ただ、助けられなかったのだという、状況が確認できたに過ぎなかった。
「私…。」
「ユリ。」
困惑して、どうしたらいいのだろう、と言いかけるユリの言葉を、了が遮った。
「うん?」
俯き気味だった顔を見上げて、了の顔を見る。
苦笑や困惑の表情はいつの間にか消え、了はユリを睨みつけていた。
「何故、館長室にいた?」
その問いに、ユリの全身が泡立った。
了も疑っているのか?
さっき、無実だと言ってくれたではないか…。
足元が崩れていくような感覚の中、全身に冷や汗を掻いて、ユリはもごもごと説明をする。
頭の中で言い訳が回る。
「…昨日、蕪木さんと美術館で別れたあと、菅野館長も叔父さんも用事があるって言っていなくなって、独りで館内をうろうろしてたの。」
特に用があった訳ではないのだ。ただ…。
「特に用があったわけじゃないんだけど、見回っておきたくて。」
そして、セレモニーホールへ行ったのだ。
「で、セレモニーホールにね、知ってる?
屋根に出られる窓に登るための梯子があるの。」
その梯子を昇って…。
「そこで休んでたら、いつの間にか寝ちゃって…。」
暗い館内を、エントランスへ向かったのだ。
しかし案の定、施錠されていて、出られなかった。
「エントランス、鍵がかかって出られなかったから、通用口なら開いてると思って職員通路に入ったら、館長室から物音がしたの。」
どんな音だっただろうか…。
たった数時間前の事なのに、既に思い出せないでいる。
「誰かいるのかと思って、覗いたら…。」
「覗いたら…?」
「扉の隙間から…。」
そう、扉の隙間から…。
にやりと滑稽に笑う、顔。
「仮面を付けたヒトが…。」
「仮面!?」
ユリの言葉に、了が過剰な反応をした。
ぎゅっと肩を掴まれ、痛かった。
「うん…。
仮面と…、あと、何か黒っぽい、ひらひらしたマントみたいなものをかぶってて…。」
「鉢合わせたのか!?」
興奮気味に攻め寄る了に、ユリは冷や汗の上に違う種類の汗を掻き始めた。
どうしたというのだ。
「うん…。目が合った、のかな…よくわからないけど、でも、私のほうを見て、すぐに窓から…。」
「窓…。」
窓から逃げた”それ”は、その瞬間に姿が見えなくなってしまった。
黒い衣服のせいだったのか、完全に闇に溶け込み、正しく、消えてしまったのだ。
「そのあと、変な、鉄みたいな臭いがして気になって、臭いのするほうに行ってみたら…。」
言ううち、バークレイの遺体を思い出してしまった。
ユリの声のトーンが下がり、了の興奮も、バークレイの話に及んだところで一気に冷めたようだった。
「そうか…。」
ユリの肩を掴んでいた、了の手の力が抜けた。
中庭を臨む窓を、虚ろな目で見つめる。
「……信じる?」
ユリが上目遣いで、了を見た。
ユリの問いに、了がきょとんとする。
「ん?」
「今の話、信じてくれる?」
北代のせいで気弱になったのか、ユリが不安げに見上げてくるので、了は思わず苦笑した。
「何故疑う必要がある?」
問い返されて、ユリは言葉に詰まる。
「北代警部補の見解は、彼個人の見解であって、俺には関係ない。
俺は、芳生ユリは無実だと信じて疑わないし、嘘を吐いているとも思わない。」
「でも…。」
では、何故さっき…?
ユリが言うと、了は解っているという表情で、肩を竦めた。
「ユリが現場にいた理由も知らないままじゃ、この人は無実ですって言えないだろ?
第一発見者ってのは、難儀な立場でね。
ほぼ半々の確率で、犯人だったりする。
北代が言っているのはその確率の事であって、芳生ユリ個人の素行ではない、とフォローだけはしておくよ。
あの時間、あの場所にいた事、その事は、色々なことを踏まえて考えれば問題のあることだが、芳生ユリ個人において、そのことは問題のあることじゃない。
それは北代だって弁えている。」
そうなのだろうか…。
「大事なのは、ユリが何故あの時間、あの場所にいたか、それだけだよ。
ユリはただ大使の遺体を発見しただけなんだろ?」
それだけは間違いない。
ユリは深く、「うん」と頷いた。
了も満足気に頷く。
「なら、それ以上はない。わかったな?」
「…うん。」
解ったような、解らないような。
ただ言い包められただけのような気がしないでもない。
ユリは俯き、指を意味なくもぞもぞと動かした。
すると、突然、名を呼ばれた。
「ユリ!!」
呼ばれた方を向くと、大層慌てた様子の匠が立っていた。
「叔父さん!」
「まったく、お前って子は…。」
ユリと了に歩み寄りながら、匠が溜め息を吐いた。
眉はこれ以上ないというほど下がって、若干、目の下に暈が出来ていた。
「蕪木クン、すまなかったね…。」
匠が言うと、了が俯いて、拳を握り締めた。
「いえ。ボクのほうこそ、申し訳ありませんでした…。」
存分に悔いている様子の了に、匠がさらに申し訳なさそうな顔で呟いた。
「…君は一層、気にしてしまうな…。
僕も反省したよ…。本当にすまなかった…。」
匠が頭を下げると、了が慌てた。
お互いに低頭を繰り返しながら謝った後、了が苦笑して言った。
「御相子にしましょう…。芳生さん。」
そう言われ、やり取りの裏にある事情を知らず、もどかしそうに見るユリを、匠が見て笑った。
「…ああ。」
二人の中で、何か解決したようだ。