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男爵は嘲笑う  作者: 謳子
5月3日、と4日
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5月3日、と4日◆1

        ◆


 あの日、彼が”アレ”を届けてくれなければ、僕はあの事件を有耶無耶のままにしてしまったかも知れない。

 

 あの日、我が家の呼び鈴を鳴らした彼は、悲痛に顔を歪ませて、”アレ”を僕に差し出した。

「唯一、これだけが残っていました。」


 受け取ろうと手を伸ばした僕に、一転して懇願してきた彼を、僕は今でも忘れない。

「もし…、もしよろしければ、これを僕に預けてくれませんか。」


 泣きそうになって言う彼が、何故そこまで苦しむのかを知るには、もう少し時間がかかったが、不思議と何の理由も解らないまま、彼に”アレ”を託したあの時の僕は、本当は彼に、八つ当たりをしたかったのではないかと、時折思っては、怖くなる。


        ◆


 妙な夢を見た気がして、了は、ぱっと目を開けた。

 辺りを見回すと、セキュリティ・ルームの中だった。

 人影はなく、青白いモニタの灯りが、相変わらず不気味だった。

 寝てしまったのか…。

 何の嫌がらせか、北代から監視映像の鑑識結果が下りて来ない状況に痺れを切らし、再生機材を使わせて貰っていたのだ。

 何度も何度も、繰り返し、菅野が襲われたあの晩の映像を観た。

 気が付くと、寝ていた。

 了は頭を振って、ふぅ、と溜め息を吐き、深々と座っていた椅子から腰を上げた。

 伸びをすると、腰の骨が鳴った。

 もう一度溜め息を吐いて、脱いでいたジャケットを羽織り、ジッパーを上げる。

 ジャケットのポケットに、車のキーがあるかを確認し、セキュリティ・ルームを出る。

 何故セキュリティ・ルームに誰もいないのか、深く疑問に思わなかったのは、疲れの所為もあっただろうか。

 普段なら、移動する毎に携帯電話で時間を確認するのに、今夜に限っては、何も見ずに地下の廊下を進んだ。

 階段を登る。

 いつもと同じペースで。

 だが、頭の中はどうもスッキリしない。

 少しだが、頭痛もしているようだ。

 おかしい。頭痛など、子供の頃から患った経験がない。そこまで疲れている自覚もない。

 何度か踊場を経て、漸く、職員通路が見えた。

 その時。

「いやあああああああああああああああああああああああああああああああっ」

 凄まじい叫び声が聞こえた。

 その声は極限の恐怖と絶望に振るえていたが、何より、聞き覚えのある声であった。

「…ユリ…!?」

 了は、瞬時に頭の中がクリアになったのを感じながら、叫び声のほうへ走った。

 誰もいないはずの館長室の扉は開き、少し冷たい風が吹いている。

 半開きの扉を手で思い切り開けると、勢いの余った扉が壁に跳ね返って、ドン、と大きな音を立てた。

 暗がりの中で、何故か開いている窓からは風が吹き込み、カーテンを小さく揺らしていた。

 が、すぐに奇妙な臭いに気付く。

 嗅ぎ慣れた、しかし、特殊な状況下でしか嗅がない臭い。

 この臭いは…。

「ユリ! ユリ!」

 最悪の事態が頭を過ぎり、室内を見回すと、キャビネットの向こうから、小刻みに震える息遣いが聞こえた。

 ユリの名を呼び、駆け寄ると、そこには、へなと座り込み、目の前にあるのであろう異物を凝視するユリがいた。

 駆け寄り、ユリの視線に合わせると、机の脇にはバークレイが倒れていた。

「…っ」

 了は息を飲み、次いで、バークレイに歩み寄る。

 床のカーペットはぐっしょりと血で濡れ、その量から察するに、既に死亡していると安易に想像がついた。

 念の為、シャツの襟元から少し覗いている首筋に手を当てるが、鼓動は感じられなかった。

 体温も既に下がり始めており、息を引き取って、それなりの時間が経っていると思われた。

 了は唇を噛み、ユリを振り返る。

 ユリの目は見開き、バークレイではない別の次元のものを見つめていた。

 相当ショックだったのだろう。

 力の抜けた腕は、ダラリと足の横に垂れ、体が倒れていないのが不思議なくらいに、全身が弛緩していた。

 了はユリの目の前にしゃがみ、頬に手をやる。

 バークレイとは違い、温かい。そのまま首筋へ手を当てると、鼓動も感じる。

 何故、こんな事になってしまったのだ…。

 了は悔しくて、震える手でユリを抱き寄せた。

「ごめんな…。」

 こうなる事を恐れていたのではないのか。

 自分は、こうならない為にいたのではないのか。

 何のために、傍にいたのだ…。

 秘めていた思いが、溢れ出した。

 守ろうと心に誓ったもの。

 取り戻そうとしたもの。

 あの日、失ってしまったもの。

 決意して六年、何も苦ではなかった。ただ自分の力が足りない事だけが、何よりも悔しかった。

 取り戻すために、走り、やっとここまで来たのに…。

「すまなかった…。すまなかった……。」

 茫然と、いずこかを凝視するユリを、了はただ抱きしめ、詫びた。

 すまなかった…。

 そんな事を言うために、走ってきたのではないのに…。

 了は目をぎゅっと瞑り、唇を噛んだ。

 それは、いつかユリがラウンジで見た、あの横顔だった。

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