5月2日◆9
館内は、全ての照明が落ちてしまっているようだった。
暗闇の中で、非常灯だけが緑色の不気味な光を放っている。
然して遠くまで届かないその光を頼りに歩き、漸くエントランスに辿り付いた。
静かだ。
静か過ぎて、恐怖すら覚える。
夜の美術館がこんなに怖いところだったとは…。
ユリはエントランスのドアへ近付いた。
中庭に備え付けられた街路灯の灯りが、弱弱しく館内へ入り込む。
曇っているのか、空は真っ黒だった。
自動ドアは開かないだろうと思ったので、手動で開くドアの取っ手を握り、押してみる。
が、ガタガタと音が鳴るだけで、開かなかった。
「やっぱり開かないか。
職員通用口なら開いてるかしら…。」
踵を返し、降りてきたエスカレータの右脇にある植木の陰を見る。
樹の隙間から、鉄扉が見える。
普段行き来をしている、館長室へも通じる職員通路の入り口だ。
扉に歩み寄り、ぐっと押すと、ギィと鈍い音を上げ、扉は開いた。
通路は真っ暗だった。他の館内と同様、非常灯の緑色の灯りが見えるだけで、灯りはおろか、人の気配すらしない。
一歩、通路に足を踏み入れると、カツンと足音が響き渡った。
夜になり、空気が日中よりうんと澄んでいるのだろう。いつもより大きく響く足音に、ユリは一瞬、ドキリとする。
数歩進んで、漸くアラームの鳴らない理由を思いついた。
(カード持ってるからか…。)
恐らく、警備室には誰かしらいる筈だ。
ユリの姿は丸見えなのだろうが、言い訳くらいは聞いてもらえるだろう。今日のところは、そのまま帰ろうと思い、さらに通路を進むと、地下へ降りる階段の斜向かいに職員通用口が見えた。
「あ、あった。」
呟いて、ドアに近付く。
外からも中からも、とにかく出入りする以上専用のカードが必要になるドアだ。
もちろん、今ユリが持っているカードで開くようになっている。
ドアの脇にある、セキュリティ・ルームと同型の装置にカードを差し込む。一瞬読み込みの間が空き、次いで、小さく、ピ、と電子音が鳴った。
その刹那、ゴトッ、という、やや鈍い物音が聞こえた。
「!」
ユリは驚いて、音のしたほうを見やる。
音は通路の奥から聞こえた。
奥には館長室がある。
誰の気配も感じない中で、不意に聞こえた物音。
何かが自然に倒れたか、落ちたかしただけならよいと思いつつ、ユリは足音に気を配りながら館長室へ近付いた。
両開きの扉は少しだけ開いていて、何故か冷たい空気が流れ出していた。
扉の目の前で、音を立てずに深呼吸をし、中を覗き込む。
そのユリの目の前を、黒い何かがはためきながら横切った。
それが何かと理解をする前に、無意識に上げた視線の先で、紅い模様の入った真っ白い仮面が、ユリを見ていた。
ユリは声も出せず、ただ目を見開いた。
仮面は、その鼻下から覗く口許でユリに微笑をし、さっと風を切って窓へ駆け寄ると、猫のように窓から外へ飛び出して行ってしまった。
ただ呆然とその様子を眺めていたユリは、仮面が消えて暫くしても、一言「な…」と発するので精一杯だった。
声を出してさらに数秒し、漸く頭が回りだした。
今のは、まさか…。
「”男爵”…?!」
口に出して、ふと、異様な臭いに気づいた。
仄かにしか漂っては来ないが、鉄が錆びたような、吸い込むと咽るような臭いだ。
室内を見回す。
仮面が逃げて行った開けっ放しの窓の方からではない。
館長の机の方から漂って来るようだ。
鉤型になった館長室の中で、机は一番奥、入り口からはやや見え難い場所に置いてある。
扉の目の前のソファセットに一旦近付き、カウンター式の背の低いキャビネットの向こうの机を見る。キャビネットは鉤字の角に密着して、左側を通路として空けている配置なので、机の下の方が見えない。
だが、やはり臭いは、机からしているようだ。
余り嗅ぎ慣れない、そして決して心地よいと感じない臭いに、ユリは鼻の頭に皺を寄せ、呼吸を最小限に抑えた。
一歩一歩近付き、キャビネットを回ると、臭いは一層強くなった。
ユリはキャビネットに背をぴったりと付けたまま、横歩きしながら、机の右脇へ視線を落とした。
指が見えた。
まさか…。
誰か倒れているのか?
さらに横へ歩く。
徐々に机の物影が露わになり、指の正体が明らかになっていく。
そして最後の一歩を踏み込んで、即座にユリは息を飲んだ。
「っ!!!!」
そこには、バークレイが黒い水溜りの中で、うつ伏せになって倒れていた。
咽返る臭いはバークレイから発せられ、体が浸る水溜りはどす黒く、そして白いシャツに染み込んだそれは、仄かな月明かりだけが頼りの暗闇にあって尚、紅紅と輝いている。
突然の光景に、ユリの呼吸が徐々に早くなっていく。
何も考えられず、ただただ、目の前に人形のように無造作に倒れるバークレイを、凝視していた。
が、不意に、ひゅっと音を出して、ユリが思い切り息を吸った。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああっ」