5月2日◆7
眠気のせいか、少しぐらつく頭を軽く振り、ユリは館長室を出た。
職員通路を通り、エントランスへ出る。
足が重い。
頭は相変わらずふらふらとする。
やや朦朧とする意識は、何故か二階へ向かうよう、足を動かす。
ユリは無意識に二階へ向かい、まだ数名の警官や、工事関係者らしき人物が歩き回る中、特別展示室へ入った。
明後日には、この部屋の中央に、”紅い泪”が展示される。
その”紅い泪”が鎮座する台座よろしい展示台は、数段盛り上がった円形の舞台の上に、静かに佇む。
床には、ポールを立てるための穴が空けられ、当日はロープによって作られた『回廊』を、人が行列になって進みながら、一瞬の『謁見』を賜るそうだ。
立ち止まる事は赦されず、通り過ぎる事のみが、唯一の方法だという。
台座を横目に、ユリはベランダに出る窓の前に立つ。
鍵がかかっているようで、開かなかった。
窓ガラスからベランダの足元を覗き込み、天井へと視線を上げる。
住宅とは違い、天井は非常に高い。
思えば、この高さの天井の上にある屋根へなど、どう菅野を持ち上げたというのだろうか。
ぼうっと考え、ユリはまた無意識に誘導されるように、特別展示室から中展示室へ移動する。
三種類の展示室には、展示台が運び込まれ、美術品が並ぶのを待ち構えている。
ブルーシートは綺麗に取り除かれ、やっと、美術館本来の趣を醸し出す。
雰囲気とは大事だと、思った。
そのまま、楕円状に並ぶ展示室を周る。
そして小展示室に差し掛かったとき、周りが妙に静かな事に気付く。
見回してみると、先程までうろうろと歩いていた人人は、いつの間にかいなくなっていた。
フロアはしん、と静まり返り、物音は一切しない。
その人のいなさ加減に、ユリは眉を顰める。
人の気配の一切が消えてしまうのは、些か疑問だ。
(警備員さんとか、巡回しててもいいのに…。
監視カメラがあるから、大丈夫なのかしら?
ってことは、周ってる私も、見られてるって事か。)
ユリは一人納得をして、三階へ向かった。
ラウンジは通り越して、セレモニーホールに入る。
元々人の出入りが少ないのか、空気が淀んでいるように感じる。
一歩足を踏み出すたび、カツンと足音が響き渡る。
(人気のない広い場所って、昼間でも薄気味悪いわよね…。)
思いながら、ユリは天井近くにある窓を見上げる。
空はすっかり橙色に染まり、時折流れる雲の陰が、紫色に輝く。
「あら、もう夕方…。
あ、そうだ。」
夕日を屋根上から見たら、綺麗だろう。
ユリは思い立って、見つけた『秘密の梯子』を登り、窓に登る。
「おお! 綺麗…。」
窓から臨む夕焼けは、溜め息を吐くほどに絵画的で美しかった。
遠くのビル群が翳り、擬似的に作られた夜の中で、チラチラと灯りが点る。
夜と夕の境目。
ユリは窓辺に座り、ガラスに凭れかかる。
どっと疲れが出る。
瞼が重くて、自然と目を閉じる。
あと二日…。
あと二日経ったら、クレアや了とはお別れなのだろうか…。
クレアとは、きっとメールをしたり、手紙を交換したりして、これからも仲良しでいられそうだ。
でも、了はどうだろうか…。
事件が終わったら、「ハイ、もう赤の他人」と、言いそうだ。
(…ちょっと…残念、かな…。)
胸が、少しだけ苦しくなった。
が、視界だけでなく、意識までが暗闇に引き擦り込まれていく。
(あれ、どうしよう…。
眠くなって来ちゃった…。
……いっか…少し眠っちゃっても…。)
「いいよね…。」
ユリはぽつりと呟いて、襲い来る眠気に全てを委ねた。